09.立ち入れない扉
鎌滝が現実で買い物をするなんて、スーパー以外では滅多にない。気が向いたときに書店へ立ち寄って、たまたま所持金が間に合えば買うぐらいだった。
「いや、ついさっきおにぎり買ったばっかだったな」
昼食はおにぎり2個を公園の隅で食べて済ませた。猫雲の明確な時間設定からして、その都合が合わなくなることは避けられていた。加えて、彼女のメッセージは「私も家でごはん食べてから行くね」と丁寧なもので、そう言われてわざわざ腹を空かせておくほど、鎌滝はずぼらではない。隆郷が寝食を忘れて作業に没頭するのとはわけが違った。
鎌滝はショッピングモールに入ってすぐの、広場のベンチに腰を落ち着けて猫雲を待っていた。思い返してみれば、鎌滝が他人と連れ立って見て回ることはいつぶりかも分からなかったし、この場所に来ることも久しぶりだった。
行きかう他人の様子をぼーっと眺めているのも憚られて、彼はカバーだけの飾り気のないスマホ片手にウィキペディアを開いていた。関連項目を順番に読めば案外すぐに時間が過ぎていくことを、学校生活における休み時間の過ごし方からよく知っていた。バッテリーは夜の寝ている間に充電するのが基本だが、減っていて困ることはなかった。
画面に「もうすぐ着くよ!」という短いメッセージが映り込んだ。その具体的な時間は分からなかったが、猫雲が言うなら、10人中9人が納得できるぐらいだろうと思えた。鎌滝が「分かった」と返信を送っても既読は付かなかった。
「ちゃんとさっさと来られるようにしてんだな。律儀だ。俺がやることやろうとするのとは違うな」
鎌滝も時間に遅れないほうだし、そうでない場合には早々に連絡を入れるようにしている。半ば癖付いているそれは、元を辿れば何も起こさないためで、平坦な人間関係が自ずと形成されるのはそのためだった。一方で猫雲が同じようにするとき、それはより純粋に相手に早く会いたいからだとか、そういうところによる気がした。自ずと豊かな関係が築かれるのである。光が照らされずとも、2人は全くの別人であることが浮かび上がる。
「アレンくん! おまたせ」
鎌滝が呼び掛けられて顔を上げると、猫雲はやはり小さく手を振っていた。彼がスマホをポケットに入れて立ち上がろうとするよりも先に、彼女は隣に腰を下ろした。スカートの裾を整えて、揃えた膝の上に小さなバッグを置いた。
「今日は急に頼んじゃってごめんね。1人でもなんとかなったのかもしれないけど……やっぱ当てになるところも欲しくって」
そう言って猫雲は照れくさそうに笑った。
「そうだとしてなんで俺だったんだ」
「私がどうしても感覚で選んじゃいそうだから、そうじゃない意見が欲しいなって思って。あとはその……1番時間に余裕がありそうだから……かな?」
「それはその通りだ。俺は一人遊びすら何にもしないからな。読書が趣味とは言うものの、四六時中、本読んでるわけでもない」
今日だって、午後には何も予定がなかった。きっと隆郷は乖離代替次元のあの部屋に籠って、何でもかんでも弄りまわすのだろうが、鎌滝には積極的に1人でいたいと思うような選択肢を持っていなかった。ただ1人で過ごしても何も問題がないだけだ。
「そう! それでね!」と猫雲が瞳を輝かせた。「まだ目的言ってなかったね」と両掌を合わせて言う。
「私来週デートするの! 久しぶりのデート!」
鎌滝は「へぇ、そうなんだ」と言った。
「彼の誕生日も近くてね」
鎌滝は「うん」と相槌を打った。
「だから、そのときにプレゼントしたいなって」
「良いじゃないか。喜んでもらえるものを選ばないとな。彼女からのプレゼントなんて余程でもなければ大体嬉しい気もするけど」
その彼女が猫雲なら殊更だ。今も彼女の瞳は光に満ちていて、ここにはいない好きな人を見つめている。その瞳に選ばれた人もまた、相応しいに違いないのだ。
「それで、何を贈るつもりなんだ?」
鎌滝は至って普通の調子で尋ねた。ただ、何か違う世界を覗こうとしている感じがした。
「最初はね、アクセサリーとか良いかなって思ったんだけど、普段から着けてない人だから迷ったの。それに実用性があるほうが使いやすいなって。そしたら彼がいっつも時計をスマホで見てるの思い出して、だから腕時計とか良いかなって」
猫雲は一息に喋った後、「彼って呼ぶのちょっと恥ずかしいね」と顔を少しだけ赤くしながら誇らしげにしていた。
「腕時計ね……」
そう呟いて、鎌滝は少しばかり考えようとした。誰かから時計を贈られるなんて状況には、1度としてなったことがなかった。これからもないのではないか。学生だからという理由以上に、自分は肯定らしい贈り物をされる存在なのかと疑念がよぎった。
そうして鎌滝が少しの間黙っていると、ややあって猫雲がぼそっと言う。1番の決め手にして、1番隠したかった気持ちである。
「……私が選んだもの、使ってほしいじゃん。着けててほしいよ。使ってもらえるもの、何にしようってずっと考えてたの」
「それなら余計、色々と使えるのを選ばないとな」
彼女の希望するもの以外を提案する余地はなかった。鎌滝は立ち上がって、ショッピングモールの時計屋の場所を思い出そうとした。1回も言ったことのない場所だ。知り合いが交際相手へのプレゼントを選ぶところを見るために向かうなんて、考えもしていなかった。
「そう、あっちだ。まず先に実物を見に行かないと」
猫雲も鞄を手にして立ち上がった。にっこりと笑って「うん!」と頷くのは、道端の小さな花が春の訪れを知らせるかのようだった。きっと来週にはそれが花束のように飾られて、たった1人の元へ春を運ぶはずで、そのときには文字通り尋常でないかわいさを振るうのだろう。
並んで歩くと、鎌滝には余計にそう感じられた。猫雲はどう振る舞っても間違いがない。自分とは違う世界にいるとはこういうことなのだ。明らかに扉の1枚に隔てられており、覗くことが避けられた。そうなったら、引き返すのが鎌滝の常だった。ただ今日ばかりは、ハカセちゃんの言葉が耳に残っていて、覗かないにしても、その扉越しに聞こえる音に耳をそばだててみようと思ったのだった。
店頭のカウンターでは1人の女性客と店員が話し込んでいた。広くない店内に人はそれだけで、あとは奥に控えているようだった。猫雲は一番手前のレディースは一通り目を向けるだけで、そそくさと奥の棚に向かった。1つ1つをじっくりと比べて、文字盤を見て、針を見て、横側を見て、ベルトを見て、値段を見て、あれも良い、これも似合いそう、と楽しんでいた。
「大分ピンキリじゃないか? それでも予算に限界はあるんだろ?」
鎌滝は少し後ろに立っていた。自分自身は並べられているものをほとんど見なかった。
猫雲は1度見たものも見直しながら、自分の好きな人に最もふさわしい腕時計を丁寧に選び出そうとしていた。目を離さないまま答える。
「あるにはあるけど……ないっちゃないかな。誕生日なら高くても言い訳できるんだもん。普段は重たいって言われないように気を付けてるけど、その分今日まで貯めてたんだ。それ以外でも私はそんなにお金は使わないほうだしね。こういうときに張り切らないと!」
「そういうもんなんだな。まぁ、高いと分かりやすく嬉しくなるか」
「多分そうじゃないかな? 私はすぐに高いものプレゼントしたくなっちゃうんだよね」
「貰うんじゃなくて?」
「私はプレゼント貰えなくても、一緒に楽しんだりできれば嬉しくなっちゃうもん。それよりも、私が何かして喜んでもらえるのが好きなんだよね」
「こういうのとかどうかな?」と猫雲が見せてきた腕時計は、骨太なデザインのいかにも男性向けなモデルだった。鎌滝はその印象だけを答え、良いのか悪いのかについては何も触れなかった。そんな答え方しかできなくても、彼女は真剣に聞いて頷いていた。
「こう……大きくてかっこいい感じのと、おしゃれな感じのと、どっちのが良いのかな?」
「さぁ? その人の趣味だろうし……猫雲はどういうのを着けてほしいんだ?」
「う~ん……どっちも似合いそう……どっち着けてても好き…………どっちもにしちゃう……?」
猫雲が周りの見えないほど真剣に悩むのを見て、ようやく鎌滝も並んでいる腕時計を一通り見始めた。なるほど、どれでも良いと思ってしまった。しかし、同様になんとなく思えたところがある。
「俺も大学に行くときに時計しようかな」
鎌滝は薄型で文字盤のシンプルなものの1つを指差した。どれも同じだろうと思わずに、1つ選んでいた。猫雲はそれを見ると、絡まっていた考えが自然と解けたように「そっか」と呟いた。
「いろんなとこで使えなきゃって思ってた。でもどうせ普段使いだもんね。他の服と合わせるんだし……うん、そう! ありがとう!」
猫雲はちょうどそれから右側に並んでいた、落ち着いたデザインの数々に目を向けて、「色はどうしようかな」とか「このベルト良いなぁ」とか、楽しそうに手を動かしていた。その様子を鎌滝はまた後ろに立って見ていた。実際には何を言ったわけでもなかったが、軽い一言が口から出たこと――働いた興味を捕まえられたことは、新たな技を成し遂げたように感じられた。
「アレンくん! これどうかな?」
猫雲が選んだ時計を見せるまでそれほど時間は掛からず、体感からすればあっさりしすぎていたぐらいだった。しかしそこには間違いが一切なかった。
「ああ、良いんじゃないか?」
「これをデートの前に渡すんだ。そしたら私の隣で使ってもらえるもんね」
その時を思い描く彼女の表情はこの上ないものだった。鎌滝は自分が見るべきものではないと思った。
「それじゃあ、俺は向こうで待ってるよ」
鎌滝はそれだけ言って店を離れた。代わって店の奥から人が出てきて、猫雲と話し始めていた。
鎌滝が向こう側を聞いていた扉から離れるとき、確かな満足感を覚えた。一方で、今度もハカセちゃんに自分を暴かれ、「ほら、あんたの知らないあんたがなんてこともなく普通にいたでしょ?」と突き付けられたようだった。
店の正面のベンチで休憩するのは気乗りしなかったが、幸いにしてトイレが近くにあった。鎌滝は多種多様な店が顔を向けている通路から少し外れて、その陰で足を休めることにした。
「なんだって人がいないのを助かると思うようになったんだ……」
人気のない場所が彼に安心感を与えた。休日を乖離代替次元や家以外の場所で、ずっと過ごしていることは珍しく、かつショッピングモールのように人の多いところは特に行こうと思わない場所だ。ありありとした疲れによって溜息を1つ吐いたとき、彼はカプセルトイの筐体が置かれているのを見付けた。
「こんなとこにもあったのか」
口の中で呟いて、見付けたからには立ち上がって、一通り見ることにした。2段になっている筐体のラベルがアピールするのは、名前だけ知っているアニメの何かから、カプセルトイならではのネタまで様々だった。
「自画像キーホルダー……一応知ってるぐらいの作品ばっかりだな」
鎌滝は自分の意識が留まったことに気が付いた。平生の鎌滝の足はそこから引き返さないためには軽すぎる。しかし今日ばかりは踏ん張りが利いて、勢いに任せて財布を出してしまえば、もう後退せずに済んだ。
西洋美術の名だたる画家の自画像がキーホルダーとしてラインナップされている。価格は300円。鎌滝は3枚の硬貨を入れて、ハンドルを回した。ころころと転がり出てきたカプセルを持って、元の椅子に戻るとき、ちょっとしたワクワクも一緒に持っていた。
「おまたせ……って、そこにあったの回したんだ。良いの出た?」
「今開ける」
猫雲も鎌滝の手元を覗き込む。2つに分かれたカプセルから出てきたのは、一見して訳の分からない茶色の塊だ。
「ダリの『焼いたベーコンのある自画像』だ。よりによって自画像らしくないのが出たな」
「ダリ! 聞いたことはあるよ」
「歪んだ時計のある絵とか描いた人だな。いや、俺は好きだよ。気に入った」
鎌滝はスマホを取り出して、カバーの端にストラップを括り付けた。析置換装器にこれを付けられる場所があればなお良かった。それでも、300円で手に入れたものにしては充分すぎる価値があり、暇潰しのために古本を買うのとは違った。
「猫雲のおかげで今日は良い買い物ができた」
「私も」
彼女は両手で小さな白い手提げ袋を持っていた。まるでそれはこの世の何よりも大切なようで、彼女の手はきゅっとくっついたまま離れそうになかった。
「来週、楽しんできて」
「うん! ありがと!」
猫雲は今日1番の笑顔を見せた。それは来週がまた少し近付いたからでしかなかったが、ただ鎌滝はそれでも良いと思った。彼はここでも相談役に徹していた。
鎌滝は猫雲がプレゼントを運んでいくのを見送っていた。