08.桜とニーハイ
電車がガタンゴトンと揺れるのはいつまで経っても変わらない。情報体ではない現実のレールでは、どうしても継ぎ目が生まれる。
「隆郷ならそれを味って言うんだろうな」
鎌滝は溜息混じりに呟いた。車内に人はほとんどいなかった。既に通勤ラッシュを過ぎていたし、郊外まで来てしまえば利用者は少なかった。彼はスマホを触ることもなく、東から差し込む日を浴びながら、物思いに耽っていた。元々、彼はスマホなり、インターネットとは付かず離れずな生活を送っていた。しかし今ばかりは、暇つぶしの優先度も関係なく、第一に昨夜のことを考えざるをえなかった。
「白い子供……」
乖離代替次元を去った後で、結局、鎌滝は再び隆郷の元へと向かった。彼は依頼の達成をハカセちゃんに連絡している最中だった。満足そうにメールを打っていて、それも終えたときには古城門から預かった析置換装器をバラそうと作業机の上で準備が済ませられていた。鎌滝が戻ってきたことは、隆郷にしてみれば少し不思議なことだった。
大音量のハードロックに紛れながら、鎌滝は「メールに1文だけ足してくれ」と頼んだ。
「マーカーのなかった奴、気にしてんのか」隆郷は打つ手を止めずに聞いた。気にしすぎだ、とまでは言わなかった。
鎌滝は不信感を確かに覚えていた。「あんたがユーザー特定のシステムを作って、俺らは散々試した。今更間違いはない。あれは亡霊でもユーザーとして反応した。それが反応しない子供がいた。乖離代替次元の怪現象について聞くべき相手は1人しかいない」
「こっちのエラーだったら俺の責任になっちまうな。まぁ、話すだけ話してこい」隆郷はハカセちゃんへのメールの末尾に、アポイントメントを取れるよう書き加えて送信した。
ハカセちゃんの返信は驚くほどに速かった。
『明日の朝、できるだけ早くウチに来なさい』
鎌滝は自動改札を通り抜け、すぐ先の口から駅を出た。駅はさほど大きくなかった。路線は一本だけだし、階段もなかった。乖離代替次元の入り口に設けられていた、あのがらんどうのコンコースとは対照的だった。
「道……そう、あっち側だ」
道を選ばずとも人はろくにいなかった。ぽつぽつとすれ違う人は皆ここに暮らしているようで、ここにおいても、来訪者だけで構成される乖離代替次元と正反対だった。空は青く透け、並木に付いた桃色の蕾を一際魅力的に整えていた。黒い幹の中が桃色の朱肉のようになっているのが容易く想像された。
「いつ来ても、あいつは乖離代替次元の主らしくないところに住んでるな」
かつてハカセちゃん本人が語っていたことには「住む場所には拘って然るべきよ」だそうで、確か鎌滝は「へぇ」とだけ答えたのだった。彼女は時折、あの高い声に似付かわしくない大人びた言葉を口にして彼を驚かせる。必然的に自分のほうこそ子供であるように感じ、それが嫌だった。子供はしばしば大きな失態を犯すにも拘らず、その責任を背負わないで済む。自分はそうではなくなりたいのに。
「俺は俺がいれば良いよ。隅まで手の届く家で白米食いながら生きてりゃ良い」
鎌滝は独り言ちて、頭の中の地図へ意識を傾けた。
ほとんどいつの間にか、目の前に大きな一軒家が現れた。もはや1個のランドマークとして成立しそうなほど、圧巻の佇まいだった。
「この時間だからな……中じゃないな」
玄関まで続く道の間から小道が分かれている。鎌滝は草花の小さな門を潜って、ふらふらと曲がりくねった通路を進んだ。ぽつぽつと咲き始めていた花には目もくれず、ひたすら道なりに進んでいった。今日の午後には本でも読もうか、と先日に読んだところまでについて思い返していた。漫画の新刊が出るのはもう少し先だったな、等と考えていた。
「もうじき終わるから待ってなさい」
鎌滝が家の裏の庭に辿り着くと、そこでは背の低い少女がジョウロを両手で支えながら、小さめの花壇に水を撒いていた。水をたっぷりと抱えたジョウロに負けるまいと体を反らしている。奥に見える水道とホースでは、こちらまで届かないのだろう。次いでハカセちゃんは花ごとに並べられたプランターにも水やりを済ませた。空になったジョウロを体の前で下げると、底が地面に付きそうになっていた。
「直接会うのは久しぶりね。鳥とかチョウチョも見掛けるようになって、結構あったかくなってきたわね」
「……言われてみればそうかもしれない。全然気にしてなかった」
「そーゆうトコがあんたのつまんないトコなのよ。もっと自分以外にも興味を持ちなさいよ」
「そう言われてもな……」
ハカセちゃんはジョウロを水道の隣に置いてきて、それからリビングに繋がるガラス戸を開けた。腕をブンブンと振って鎌滝を招き入れた。彼女の足には余りすぎていたサンダルと、自分の靴を並べ、言われた通りに席に着いた。
「何飲みたい? ペットボトルなら大体あるわよ」
「……お茶かな。最近はだいたいそうしてる気がする」
隆郷が静かに出す緑茶は文句なしに口に合う。曰く「なんであろうと拘り出しちまう性質なんだ」とのことだったが、鎌滝にはさして違いが分からなかった。ただ、美味しいとか質が良い以上に口に合う感じがしていた。そのことに影響された。
ハカセちゃんの家のリビングは、鎌滝には落ち着けないほどに広々としていた。隆郷の部屋のようにものが多かったり、散らかっているわけではなかった。しかし、何より天井が高く、壁が遠い。家具と家具が自分の働くスペースを確保しているように間を開けて並んでいて、放牧されている牛や羊みたいにさえ感じられた。大きなガラス戸から差し込む日の光が1つの空間を明るく満たしていて、わざと半端に設定された自動演奏のアップライトピアノが、簡単な曲で自然な雰囲気を奏でていた。色とりどりの草花の踊る庭が眺められた。
「こんなの小5の女子が暮らす家じゃねぇよ」
「小学生じゃないから!」
「にしては見た目には分からないな」
「人造兵器のパイロットに憧れてるのよ」
ハカセちゃんは両手に持ったグラスの口をよくよく見ながら、溢さないように慎重にテーブルまで運んだ。鎌滝の前にそっと置いて、自分はその向かいに座る。爪先が床に付いていなかった。
鎌滝はグラスに注がれた緑茶をすすった。何の感想も生まれない、普通の緑茶だった。ハカセちゃんも両手でグラスを掴んで、なみなみの牛乳を飲んだ。ごくごくと3分の1程一気に飲んでしまい、ぷはぁと息を吐いてから言う。
「昨日はありがとね。初仕事にはちょうど良かったんじゃないの?」
「ああ、確かに。あれでOKなら簡単なもんだった」
「多分あの中身について言うことはないんでしょうけど、話って何なの?」
どう説明したものか、と鎌滝は数秒黙った。ハカセちゃんがじっと視線を向けていることも意に介さず、それからしばらくしてから「とりあえず」と前置きして話し出す。
「……白い格好をした子供がいたんだ」
「はぁ!? あんた誰かに見られたの!? ちゃんと消しなさいよ!」
「そんな誰もいない部屋の電気みたいに言うなよ。それに、あれが本当に人なのかが分からないから聞きに来たんだ」
「人か分からないの?」
ハカセちゃんは辻褄の合わないなぞなぞを目にしたときのように眉を寄せた。
「俺が見たのは確かに子供だった。たむろしてた奴らも『白いガキに言われた』って言ってた。ただ、隆郷が言うにはユーザーとして検知されなかったらしい。俺を含めた5人しかいなかったんだと」
「へぇー。というか、あんた達そんなストーカー向きのMOD作ってたのね。そんな監視カメラみたいなの配布してないのに。まぁ良いわ。誰かやるだろうと思ってたもん。バレないようにしなさいよ?」
ハカセちゃんは聞けば大したことないと言うかのように、漫然と考え始めた。空中をほけーっと仰ぎ見て、すこーしだけ首を傾ける。
「アタシはNPCなんてアナウンス用にしか作ってないし……人型の〈繋光の徒〉じゃない?」
「人型のなんているのか?」
「そんなの分かんないわよ! 神はサイコロを振るかもしれないけど、アタシは神様じゃないもん。あんたに依頼出すのも広告からじゃ無理よ。何よあの人が見れば見るほど見られなくなる仕組み。広告だって言ってんのにバカじゃないの?」
「そんぐらい陰にいたいんだよ。今じゃ俺は何かできてるだけで変なのに」
鎌滝は緑茶を1口だけ飲み込んで、静かにグラスを置いた。ハカセちゃんはむぅと口を尖らせる。
「ホントに浅はかね。そんなんだからアタシが役割を逐一渡すことになるのよ。どうせ男の子は暗躍とかなら好きなんでしょ?」
ハカセちゃんは更に牛乳をゴクゴクと飲んで、遂にグラスを空けてしまった。
「なんで既に自警団も用意してあるのに、俺みたいな奴を作ったんだ? 極端な罪に対して極端な罰を与えるためか? そういう人心掌握的な価値とか、末端の俺自身には分からない効果を生み出すためか?」
「……運営の人そこまで考えてないと思うよ。言ったでしょ、アタシは決して乖離代替次元の神様じゃないの。現実からかけ離れたもう1つの現実ってのは単なる娯楽の世界で、わざわざ神様なんていらないもん。でも秩序ってのはあるから、その背骨として自警団がいてね、でも大きくなりすぎると内側にある1本だけじゃ支えきれないから、外側から支えるあんたが必要なのよ。1回道の外に出てる人のほうが、どこからが外になってるのか分かりやすいでしょ?」
「俺が外道になったのを都合良く利用してるってのか」
「そういうことよ。あんたの基準を当てはめれば、アタシも大概ってことね。どう? ちょっと悪いことしたら悪人だなんていう、そんな誰でもあてはまっちゃうような基準しか持てないぐらいならもっと他の人のことを知るべきじゃないの?」
ハカセちゃんがそう言って、ピンと人差し指を立てると、鎌滝のスマホが久々に通知音を鳴らした。彼はハカセちゃんに断って鞄からスマホを取り出した。
「猫雲からだ」
「なんて言われたの?」
「『突然でごめんね! 今日の午後って空いてる? ちょっと一緒に買い物してほしくて……』だって。何が『突然でごめんね』だ。女から突然ラインが来て嫌な男がいないこと知ってるのに」
「意外と絵文字もないのね」
ハカセちゃんはいつの間にか鎌滝の隣に立っていて、彼の腕を押さえつけながら画面を覗き込んでいた。
「猫雲自身は絵文字も顔文字もよく使うよ。むしろ俺のほうがそういう文面にどうしたら良いのか分からなくて困るってことを、どこかで知ったのか察したのかして、俺相手には使ってないんだ。極端に言えば八方美人だけど、柔軟で丁寧な奴なんだよ」
鎌滝はそのまま返信した。ハカセちゃんから言われたこともあって、断る理由はなかった。送るや否や、ずっと待っていたと言わんばかりの速さで既読が付いて、「!」でいっぱいの返信が来た。
「しっかし、この子は相手があんたで良いのかしらね」
「中高と廊下ですれ違うだけだった関係性ってのは、下手に高校の同じ教室で話した奴よりは却って安全だったりするんだよ。あと俺自身の趣味がないのはさておき、最近の流行りはなんとなく分かってるし」
「はぁー。あんたの興味のなさがそんな風に生きてくるのね。そこんところ『流行りには決して乗らないこの俺は、他人とは違う変わり者だぜ』みたいじゃないのは安心したわ」
「そんなしょーもない歌は詠まないよ。それじゃ、俺は適当なとこで昼飯食ってモール行くから。白い子供が〈繋光の徒〉って可能性が見えただけでも助かった」
「力になれたなら何よりだわ。アタシがなった分だけあんたの力を使っても良くなるんだもん」
鎌滝はスマホを小さな鞄に仕舞いなおして席を立った。ハカセちゃんがその後ろをトテトテと玄関まで付いてきた。
「そうだ。〈繋光の徒〉も檻の中にはいたくないものなのか?」
最後に鎌滝はそう尋ねた。シャチはことあるごとに姿を現そうとするし、古城門のヤギは(故意か事故かは不明だが)檻を破壊していた。昨夜見た析置換装器も同じだった。
ハカセちゃんが黙っている間、鎌滝は妙な不安感に襲われた。これを聞いたということは、自分はその解答の一片も持っていないのである。周りの全員が自分なりの答えを持っている中で、自分だけが杖を突かずに歩いているような、たった1人だけいとも容易く転べてしまうような感覚だった。鎌滝は無意識の内に先に扉に手を掛けていた。
「……さぁ? でも生き物って大体は見えるほう見えるほうに行こうとするわよね。檻の外が見えたなら外に出ようとするのは当然なんじゃないの?」