07.獲得形質
我が国は寝静まり、インターネットが濃度を増す時間だった。午前2時頃はかつて丑三つ時とも呼ばれたが、現代はいつだって人を呪うのに適している。名無しの時間なんてなくなっていた。
「乖離代替次元はメンテナンス中。もっとも、入れなくなるわけじゃないから実害はほとんどない……いや、本来ならいつでもどこでも向こうの次元のハカセちゃんに見られて記録されてる、そんなデジタルパノプティコンを好き好んでる奴なんていないんだ。視線のなくなる分、メンテ中はむしろ実害が0になると言っても過言じゃないな」
「自由というものは良いのう。儂は好き放題できるのが楽しみじゃ」
「外になった途端に意気揚々と出てきやがって」
雨が降っていた。しかし負荷を下げるために雨粒の描写は避けられた。雨であるという情報だけに支配された乾ききった真夜中だった。それは天気の話で始まる協調性だけの会話に似ていた。
「けど、そういう会話でさえ一日は頭を支配する力があるんだ。文字で送られたこの依頼はもっと力を持ってるよな」
『せいぜい真摯に取り組むんだな。その仕事はお前じゃないとできねぇ。ほら、ちょうどそこのはずだ』
カチャカチャと手近な機械部品で手遊みをする音を混ぜて、隆郷の音声が依頼の開始を告げた。
鎌滝とシャチは高架橋の下に着いた。ただし、乖離代替次元に実用の車は存在しない。この橋は飾りに過ぎなかった。この雨が形のない本物だとすれば、高架橋は形だけの偽物である。乖離代替次元はアンバランスで直ちに瓦解しそうな物々の集まりだった。
「行くぞシャチ。依頼を遂行する」
鎌滝はインベントリからスルメのゲソを出して、シャチに与えた。これはこれで初依頼だ、と特別に大きいものを選んでやった。シャチはそれを葉巻のように口の端に咥える。
「おう。お主と儂の腕の見せどころじゃな」
『環境設定権限の入手完了。明るさを弄って……こんな感じにすりゃよく見えんだろ』
微かだった照明が隆郷の手で働きを強めた。視界が確保され、鎌滝の見詰める先には想定の通り、4人の男がいた。彼らは突如として明るくなった住処に戸惑いを示しつつ、存在を主張する鎌滝を睨んだ。
「何の用だよテメェ……」
男の1人が脅した。一切の返答をしなければ、次には立ち上がって怒鳴り出すのではないかという態度だった。
男達はそれぞれの〈繋光の徒〉を出現させ、隣に連れていた。イグアナ、猟犬、鯉、カブトムシ、いずれも並大抵でなく巨大だったが、更にシャチのほうが一回り勝っている。鎌滝はまず負けることがないと確信した。
「なんのつもりだよ」
2度目も男の声は低く唸るようだった。それから全員が各々の析置換装器を手に持って立ち上がる。猟犬を連れた男が鎌滝に迫ったが、他の3人は立ち位置を変えなかった。それどころか、僅かに後ろへと足をずらしたのが見えた。随分と慎重な振る舞いだった。
鎌滝は彼らの足元に注意を向けていた。距離を詰める男はお構いなしだった。乖離代替次元では殴られたって怪我はしない。より大きな痛みを、と〈市民の興戦〉を企むならば望むところだった。
全員が析置換装器を手にしていた。しかし、彼らの足元には、まだ析置換装器が転がっていた。どちらも半壊していた。
「なるほど、やはり信用のおける依頼主が最初だと楽しいな」
『析置換装器の強奪及び破壊行為。記録も取れた。〈市民の興戦〉の準備も整ったぞ』
ペットボトルの蓋を開ける音が聞こえた。炭酸に高められていた内圧が一気に下がり、シュワシュワと泡を立てているようだった。隆郷の役目は終わり、いよいよ鎌滝の番が回ってきたのだ。シャチは檻へと帰り、ただ1人だけ毅然として立ち、青い光を放つ析置換装器を突き付けた。
「今の内に聞いておこう。どうして他人の析置換装器を奪い、果ては破壊に至った?」
目の前まで迫っていた男は拳を振り上げ、力一杯に鎌滝の顔面を殴りつけた。真正面から食らった鎌滝がたたらを踏んだ後でも、男は何も言わなかった。当然、痛かった。しかし血が流れなければ、怪我の一つもなかった。
「これにキレようものなら、夏に蚊に刺されたことにキレるのと同じだ。どうしようもないし、この後に何の変化もない。他人の析置換装器をどうこうするのは重罪だ。バレても何とかなるようにすべきだったな。これから、俺はお前達を消す。せいぜい抗ってみせるんだな」
『ただいまより〈市民の興戦〉が開始されます/鎌滝アレン/安家ジョン・元場マイク・裏辻レオ・堀ブラッド/時間無制限/空中戦闘が認められています/電瞬の使用が認められています』
誰一人として鎌滝が突き付けた条件を拒否することはできなかった。終わりのない戦いなんてシーズンに1度だけ行われるかどうかの、叶うものなら避けるべきルールである。しかし、アナウンスはそのまま続き、〈市民の興戦〉の始まりが近付く。
『護域――展開/撃域――展開/析置換装器による武装解禁/離域――展開/電瞬解禁――』
鎌滝の析置換装器が輝き、繋錬武装器を出現させた。つい先日にその調子を確かめた巨大な銃火器型の繋錬武装器である。
「ま、待て! こんなのがまかり通るわけがない!」
リーダーらしかった安家が叫んだ。先に鎌滝を殴りつけておきながら、今度は戸惑いを露わにしていた。しかし、本人の意に反して、彼らは〈市民の興戦〉の開幕に強制され、繋錬武装器を纏わされていた。
「まかり通らねぇのはお前らの行為も同じだ。お前らがお前らの矛盾を許すなら、俺も俺の矛盾を許して外道を消す。どっちのが理不尽かってバトルなんだよ、これは」
既に鎌滝の繋錬武装器には弾が込められていた。これから狙いを定め、引き金を絞れば、たちまち大口径の弾丸が4人の男に殺到する。
鎌滝が1人に銃口を向けたときだった。銃口を突き付けられていた元場は腹を括った。
「アイツに言われた通り〈繋光の徒〉を檻から出した! なら、ちゃんと力を受け取ってるはずだ! 4対1……いくらあの鎌滝でも関係ねぇ!」
元場が言い終わるかという瞬間に鎌滝は弾丸を放った。しかし、動き出した元場はそれを避けることに成功し、代わって目の前の安家が先ほどと変わらない大振りで拳を繰り出した。
鎌滝は繋錬武装器によって大きくなった拳を避け、それから距離を開けた。見れば男達の武装は鎌滝同様に巨大なものが2つ、通常の武器と何ら変わらない外見のものが2つだった。
「……電瞬ができんのは2人だけか。いや、それにしても多いほうだ。それが『アイツ』から貰った力なのか?『アイツ』って誰なんだ」
ブンブンと振るわれる拳を避け、その背後に控えている男達にも狙いを付けさせない。鎌滝は守りを固めながら尋ねた。男の返答は怒鳴るようである。
「知らねぇよ! 白いガキが言った!」
「白いガキ?」
「白いカッコしたガキがよぉ……『〈繋光の徒〉を寄こせば力をやる』って『知らねぇ奴のでも良い』って言いやがったんだ!」
「〈繋光の徒〉を寄こせば、か……」と鎌滝の問いかけはそこで1度止まった。
安家が振った右手を躱す。同時に、鎌滝は武装のない左手をふっと軽く突き出した。安家は自身の勢いによってその拳に突っ込んでいき、当たり、倒れた。その場に崩れた。あっという間に攻守が逆転し、安家だけが倒れた状況は、他の男達の足を固めた。
「あんたらの力が欲しかったのは、力がなかったかららしいな。それで、力は付いたのか?」
「そうだ! 俺らが出した〈繋光の徒〉が消えてる! アイツが持ってたんなら使えるはずだ!」
電瞬を備えているのは安家と裏辻の2人だった。言われた裏辻は慌てふためきながら、右腕に纏っていた繋錬武装器のレバーを引いた。展開した武装にはちょうど析置換装器が収まるスロットがある。
「いきなり電瞬を使って大丈夫なのか? 試してからのほうが良いぞ? あんたらの思うよりもかなり強いものだぞ?」
「鎌滝のは所詮、電瞬の無効化だ! どうせこっちには攻撃できない! ビビってんじゃねぇ!」
彼らの全員が構えた。裏辻の攻撃に合わせて一斉に飛び掛かる算段だった。
鎌滝は更に距離を開けた。彼の足元で倒れていた安家が首を振りながら起き上がり、辺りを見回して状況を察した。彼もまた繋錬武装器のレバーを引いた。
安家と裏辻がぎこちない手付きで武装に析置換装器を挿入する。その間に、鎌滝はレバーを引き、析置換装器を収め、背中に翼を展開した。鎌滝の繋錬武装器に青色のラインが立ち上ったのを追い掛けるようにして、彼らも電瞬の準備状態に入った。
安家の右腕はちょうど中心で2つに分割され、それぞれが緻密な造形と粗野な造形とを見せていた。さながら理性の毛を生やした狂犬だった。左右のそれぞれが能力を行使するとき、同時に互いの能力を高める――アシンメトリーな二面性を漂わせていた。
一方で、裏辻の繋錬武装器には一見して変化はなかった。ただ巨大な口を開けた砲身に紺のラインが走っていた。だが、あまねく何もかもを吸い込まんとする大口からその電瞬が行使されれば、純粋な攻撃を凌駕する空間の支配が待ち受けている。
「俺が2人分の電瞬を打ち消すところは、確かに今まで見せてこなかった。一斉に行けば返り討ちにできる。力も手に入って、同じ方法でこれからも強くなる。そんなとこだろ」
男達は何も言わなかった。神経を尖らせ、力を込め、狙いを定め、息を合わせようとしていた。
「あんたらが力を付けようが、俺は興味ない。ただ言えることは、多分、俺以外の奴らもそう思うってことだ」
「「電瞬――」」
鎌滝が飛んだ。男達が切り札を見せるよりも先だった。そして、男達が切り札を犠牲にせずに鎌滝に勝つことは不可能だった。
高架下の暗がり、限りのある空間を鎌滝は自在に飛び、たちまち男達の背後を取った。彼らが振り向くよりも速く、彼らが我が身に受けることの順序を解するよりも先に、放つ。
「電瞬:Layer」
離域を滑る4発の弾丸は、寸分の狂いもなく男達の背中に触れ、それから空気の流れ込むような穴を開けることもなく、彼らの体の内側へと溶け込んだ。
弾丸は形を失い、離域を離れ、彼らの体――情報を直に侵し始める。さながら硫酸が他の分子から水を引き剥がすが如く、彼らの存在そのものを破壊した。1秒もない。
男達は消えた。彼らの体の痕跡は少しも残されなかった。それどころか、彼らがいたという存在の痕跡すらもが乖離代替次元から抹消された。敵が消えれば〈市民の興戦〉はなかったことになり、勝者が告げられることもなかった。
『うっわ、えげつねぇ……』
通信の向こう側で隆郷が呟いた。静まり返った高架下では、通信越しでもパソコンのファンの音が聞こえていた。
「護域、撃域、離域、全部無視して直接攻撃するってのはこういうことだ。俺はこういうことができちゃうんだよ」
鎌滝は同じ弾丸を地面に向けて1度だけ撃った。コンクリートに染み込み、この場を男たちがたむろする更に前の状況まで巻き戻す。そうしてようやく、ガジェット状態の析置換装器を手にした。
『この前の〈市民の興戦〉よりも随分と動きが良かったじゃないか』
「勝つことが分かってたからな。この前のは……勝とうとしたから却って大雑把になった。それにストラグルは普通に強いよ」
会話は既にいつもの調子を取り戻していた。この無感動さが何よりも残酷な気さえした。彼の中には「勝とうとしてはならない」と傷が付いたようだった。そのつもりがなくても勝つのならば問題ない。しかし、既に決められた立場を覆すことが許されない気がした。彼はそれ以上語らず、自身の析置換装器を強く握りしめた。
『そうだ。壊された析置換装器拾ってきてくれ。それも欲しい』
「そう言うと思った。壊れてんのに何が良いんだ」
『パーツは多いに越したことはねぇんだよ。それに、部屋がゴチャゴチャしてるほうが秘密基地感あって良いだろ』
「分からないな。まぁ、隆郷の部屋がどうなろうが俺には関係ない」
『お前も散々来るのに』
本来の高架下は真っ暗闇で、何か出てもおかしくなかった。鎌滝は目を凝らして男達が残していった2つの析置換装器を拾い上げた。析置換装器は2つ、電瞬を持つ武装が2つ、力を貰ったとはそういうことだったのかと合点が行った。
「……この析置換装器、檻が壊されてる」
『良いよ良いよ。他のパーツは使えるから』
隆郷は今までに溜めてきた部品の数々を取り出してきたらしい。金属やプラスチックの当たる音が一気に数を増した。しかし、鎌滝にとって改造や新ハードの製作はどうでも良かった。
「使えるか使えないかじゃない――」
数メートルの先が見えない暗闇の中でも、真っ白な姿はよく見えた。体格は小学生男子ほどで、白い短髪、黄褐色の瞳をしていた。
「――アイツだ」
しかし、鎌滝が隆郷へと意識を向けたほんの僅かな間に少年は消えていた。
「今のアイツは誰だ」
『アイツ? 誰もいなかったぞ。ユーザーマーカーは出てなかった』
「それでも確かにいた。あいつはこっちを見てた。……人じゃないのか?」
黒霧の渦に取り囲まれているかのようだった。先を見るには明かりが足りず、振り払おうにも掴みようがない。
『今度は人が来てんぞ! 逃げろ!』
隆郷が言うや否や、鎌滝は乖離代替次元を離れ、現実に帰った。僅かな差で到着したのは巨大なワシを連れた男だった。この男、その実力と自らの固い意思によって自警団に籍を置いている。
「五屋敷・ストラグル・ジーン、現着。しかし何もありませんよ?」
正当な規則を持った世界で、不当な規則をあてがう行為もまた、鎌滝が自らを咎人とする由だった。