06.確率を越えた客
今日の乖離代替次元は曇り空だった。夜の間は雨を降らせるつもりらしい。
古城門の相談を受けてから数日間、あいにく調査の進展は得られなかった。幸いにして他に依頼は1件――それも毛色のかなり異なるものが舞い込んだだけで、鎌滝達の調査は余裕を持っていた。そうであるにも拘らず、進展は得られなかったのだ。別件は別件として片付けるつもりで、本件については新たに連絡が1通。
「そろそろ時間だな」
「会うのは2回目。しばらくして向こうから連絡が来たってのは面目立たないな。俺達が仕事として頼まれたのに、事態はそのまま向こうで起きてるんだ」
隆郷の部屋の作業机に向かいながら、鎌滝が話した。既に手元にあった緑茶を口にした。ここも数日前と変わっていない。
玄関の扉がノックされた。隆郷は部屋の壁に手を当ててウィンドウを開き、扉を解錠した。まだ彼のほうから相手の析置換装器を設定できるほど親しくなっていない。中で器械的な動きは起きていなかったが、ガチャリと音が聞こえた。
「久しぶり。こうも準備が整えられていると、時間通りでも待たせてしまったような気がしてしまうな」
古城門がヤギを連れて立ち入った。靴は脱がず、壁に手を添わせて階段を下り、半地下の工房に降りた。今は腕時計をしているわけでもないのに、彼女はまるでそれによって何かが自然になるように手を振った。癖のようだった。それから既に知った部屋の中をわざわざ見回した。
古城門は少しばかり右に寄っていた椅子の位置を直し、鎌滝の対面に着いた。ヤギは止まらず直進して、その先の壁に鼻を擦り当てていた。
「コーヒーもそのままか。ありがたい」
彼女は取っ手に触れたが、掴まずにそのまま下ろした。しかし作業机の下に入れた手を、結局天板の上に乗せた。指先は当てもなく表面を撫でていた。
「久しぶり。それにしてもこっちから提供できるもののないところが申し訳ない」
鎌滝は古城門の様子をひとしきり眺めた。違和感と表すにはおかしさのない、それでいて彼女の所作が求める明確なものを見ようとした。
古城門は眼鏡を押し上げ、それから右の袖口を指先で弄った。すると微かな音に気付いたヤギが壁を離れ、彼女の足元に寄った。ヤギの角の先だけが鎌滝に見えるあの状態になると、彼女は小さく溜息を吐いた。緊張が1つ抜けたようだった。
「なんというか……前にこうして顔を合わせた時と同じ過ぎないか?」
本題に入るよりも先に、鎌滝が言った。
隆郷は自分のパソコンの前に座って椅子を回し、ヤギは古城門の膝の上に顎を乗せた。彼女の服装は以前からどこも変わらず、座る場所もちょうど同じにして、ブラックコーヒーに安心していた。初の依頼で顔合わせまでしたのだから、なおさらあの光景は覚えている。
「……同じにしようとしても変わってしまうんだよ。何も起こらなくても人は変わるんだ」
古城門は訥々と語り出した。
「風船だって時間が経てば、割れなくてもガスが抜けて小さくなっていく。風船が膨らんだまま浮けるのは中身があるからだけど、今の私にはその中身と呼ぶべきところがない。外側だけではベッタリと地面にくっつくことになるんだよ。残っているのは性格だ。私は君の性格よりもよっぽど相手と距離感を保たなければならないのに、何かを変えてしまえば、たちまちそれができなくなってしまう気がするんだ……」
彼女のヤギを撫でるのは、それ以上のことをしないために敢えて自覚すべく触れるかのようだった。触れることすら許さないのではなく、妥協することで何とか踏み止まっていた。
ヤギが鳴いた。多分、誰から撫でられてもその鳴き声を出しただろう。そして満足すると、またふらふらと壁に向かっていった。
「俺は記憶のなくなったこともないから、推し量ることしかできないな。4、5年前だろうがバッチリ覚えてる。ただ、漠然とした不安は……分からんでもないな」
鎌滝が緑茶を飲んだ。それを見て、古城門もコーヒーに口を付けた。仮に古城門の記憶が時間によって解決する場合、それが望ましい決着になるのか予想できなくなっていた。2人の湯呑やカップを置く音はヤギの鳴き声に掻き消された。間抜けな声はある種の支配性を備えていた。
「話しといて良かった気がするよ。さて、連絡した件についてなんだが……」
カップを置いた古城門は、そう言いながら太ももに巻いたポーチから自身の析置換装器を引き抜いた。コトン、と作業机の上に置かれたそれは、見事に1部分だけひび割れ、押し潰されていた。蹄の跡のようだった。鎌滝はそれを手に取ってまじまじと眺めた。指先の触れる側面なんかは、自分のものとそっくりだった。
「バッキバキどころじゃないが……でも普通に動いてるのか?」
ひとしきり見てから隆郷に手渡した。こういうのは彼のほうが長けている。鎌滝の析置換装器も、隆郷のものからパーツを流用しつつ、彼の手で改造している。
「ちゃんと機能しているし〈市民の興戦〉もやれる。昨晩は乖離代替次元で寝泊まりしたんだ。それで朝になって起きたら、ヤギが前足に履いていたんだよ」
鎌滝の析置換装器が〈市民の興戦〉を受けるか確認を求めた。ユーザーの意思確認とルールのすり合わせを行うところまでは少なくとも普通の手筈だ。
鎌滝がその合意を蹴るまでの間も、隆郷は古城門の析置換装器をつぶさに観察していた。
「確かに、ヤギが踏み抜いたような感じだな。でもここって……」
隆郷はパソコンの奥に置かれていたソケット状の機械を寄せた。パソコン上では対応するソフトを開き、それから古城門の析置換装器を挿し込んだ。画面の変化は素人目にも分かった。ほとんどの項目が緑のバーを映す中で、たった一つだけバーもなく、黒い背景だけを見せていた。
「意図的と言えるぐらいキレーに〈繋光の徒〉の檻のとこだけ壊してんな」
〈繋光の徒〉に関する情報を記録する部分――通称「檻」のみが停止していた。
全員の視線を集めてもヤギは少しも動かなかった。我関せずと鳴くよりも、却ってそう主張していた。ややあってようやく首を振り、髭を揺らした。市井に溶け込むスパイのように堂々たる振る舞いだった。
「私はこれが事故だったのか誰かが忍び込みでもしたのかはどうでも良い。だけどそこが壊れているなら、なんでヤギは出られているんだ?」
ちんぷんかんと言っているのではなかった。古城門はむしろ考えて確かめたいという様子だった。不可解な現象に直面し、考えを巡らせなければならない状況は、彼女の表情から固さを除いていた。彼女の確認に隆郷はすぐに答える。彼と鎌滝は知っていた。
「壊れるよりも先に出ていたことが全てだ。析置換装器を使うのは出るときと戻るときだけなんだ。出ていないときに壊れたら情報も飛んだ上で出られなくなるかもしれないが、出ているときに壊れたところで、戻れなくなるだけだ。ヤギ自体がヤギの情報の塊だからな。多分、今はバックアップなしに独立してやがんだ。多分だけどな」
鎌滝は湯呑を口に当てながら「あの亡霊と同じだ」と思った。記録媒体のない状態で消えれば、ヤギは二度と姿を現さなくなる。そのリスクの代わりに自由を得ている。
「なるほど……。ちなみになんだが、私の析置換装器は直せるのか? そいつは現状、私の唯一の手掛かりだ」
「このぐらいなら俺にもできる。新しいパーツに代えれば良いだけだ。それでまたヤギを戻せば記録され直して元通りって感じだな」
「そうか、それは良かった」
古城門は目を細めた。まるで「壊れたぬいぐるみも直るよ」と言われた女の子のようだった。
「ただ、作業は単純と言っても3日間は俺が預かっちまうから、あんたは帰れなくなる。今日みたいに乖離代替次元で寝泊まりしてもらうことになるが……」
「問題ない。そのぐらいは融通の利くように暮らしていたからな。よろしく頼む」
隆郷が言いきるよりも先に答えた。眼鏡のレンズ越しに、古城門の瞳が隆郷に向けられていた。
「承知した。そしたらまた3日後に会おう」
「こいつの腕は確かだ。安心してヤギと戯れて待てば良い。次に会うときには良い報告ができるようにしとくよ」
鎌滝もまたそう言って、席を立つ古城門を見送った。今晩に待ち受けている、もう一つの依頼について思案しながら。