05.心電図が正弦曲線を描くのを見たことはあるか
今宵は少し肌寒かった。風が――換気のためと開けた窓から吹き込む風が気に障って、そんな理性的な目的のために開けているのが嫌になった。
いざ乖離代替次元へ行き、否応なしに思い出されたことは、それでもほんの少しの洗い物を片付けている間だけ考えずに済んだ。しかし、自分の日常というすべきことが失せた今、鎌滝の脳髄は記憶の潮騒に溺れそうになっていた。元より没頭するような趣味を持たなかったが、とりわけ今は本を読むことはおろか、テキトーな動画を流して気を紛らわせることにさえ気乗りしなかった。
机の端に置いていた析置換装器が落ちたが、鎌滝は拾わず、自身の体もベッドに落ちた。析置換装器はもっと破壊するという意思を注がなければ壊れない。ハカセちゃんがそれほどやわに作らないことに加え、鎌滝のものは隆郷が定期的に検めているのだから、余計に心配する必要がなかった。心配する必要がない以上、わざわざ拾って確かめる気にならなかった。
鎌滝の口から言葉が漏れる。
「2回目だからって、2週間じゃ収まらないか……」
2週間ぽっちで妹のことを思い出さなくなるはずがなかった。
鎌滝の妹は死んだ。2回死んだ。4年前と2週間前の2回死んだ。怒りだとか恨みをぶつけるような当てのない、ある種仕方のないことだった。
その日、鎌滝の妹は自転車に乗ってまっすぐに伸びる道を走っていた。小石が落ちていたというわけでもなく、ただ何の気なしにハンドルを切ったらしかった。縁石に当たって彼女は転び、頭を強く打った。脳が揺れた。血管が破れていた。それだけだった。どうも偶然が重なっただけのようだという説明に、両親も自分も怒らなかった。
「……まるっきり、あいつだけで話が完結していた。ヘルメット装着の重要性を学べたぐらいだ。あれじゃ、誰も責められないんだよな……………………」
鎌滝は実の兄として自分を疑わざるを得ないほど納得してしまっていた。後になって考えてみれば、そこには少なからず自己本位な性格が関わっていたのだろうが、それにしても奇妙な心持ちだった。両親も似たようなものだったらしく、全てが片付いた後で家族に残ったのは強烈な悲しみの残滓などではなく、何にも影響を及ぼさないぐらいの僅かな虚無感ばかりだった。4年が経って薄れ、家の基礎に染み込んだ今でさえ、その影響は現れていなかった。
鎌滝は床に転がった析置換装器を一瞥した。起動していない今は青い光を放っていなかった。強大な力を抱えているにも拘らずそれは常に無表情で、ごく自然に世界に溶け込んでいる。
「ウン十年と先にハカセちゃんの死ぬときは、遺産が基金の設立にでも使われるのかね……いや、乖離代替次元が既にそういうものか。あれがハカセちゃんのなしたことの余りものだ。ダイナマイトそのもので、なおかつノーベル賞そのものだな」
4年前には既に析置換装器は第2のケータイだった。誰もが持ち歩いていて、当然鎌滝の妹も持ち歩いていた。自転車を漕いでいたときにも一緒にあり、幾本の線に繋がって病院のベッドで横たわっていたときにも、その傍らの鞄の中に当たり前の顔をして入っていた。
「……あのときから光っていたのに気付けていたらな……………………初めてじゃ気付けねぇよ」
鎌滝は妹の鞄の中で析置換装器が空色の光を放っていたのを見ていた。その光はユーザーの意思によって析置換装器が起動し、乖離代替次元へ運ぶ瞬間に見られるものだった。触れずとも起動させられるのは確かだったが、あのときにはそもそもユーザーである妹には意識がないはずだった。鎌滝は正体不明の怪現象に直面していたことに気付かなかった。しばらくして、妹の心拍を映した心電図は正弦曲線を描いた。またしばらくして、両親が医師の説明に頷き、その2人に見られながら最後に鎌滝も頷くと、妹の心臓は止められ、いつのまにか仕事を終えたと言わんばかりに、析置換装器は光を失っていた。生涯を通じて同じ形を取らない心拍がその生涯を表すならば、あの瞬間の正弦曲線は、人を表せるほど変化し続けておらず、一定の波が繰り返されていただけだった。その後、特別な現象の一切が起こることはなく、妹の体が燃やされ、思い出の品の1つとして妹の析置換装器が残り続けていた。
鎌滝がそのときに起こったことを真に知ったのは、今から2週間前だった。一切の前触れなしに鎌滝は乖離代替次元で当時の姿のままの妹と再会した。
「亡霊に会ったみたいだったな……もう1つの現実でちゃんと生きてたってだけなのに。帰れないこともちゃんと分かっていた。帰ろうとしたんだな」
当然、嬉しかったのを覚えている。が、自分の中に沸き上がった最初のものが不信感であったと気付いたとき、また自分が世界から遠いところに立っているように感じた。
ハカセちゃんはその仕組みを語らず、「もしかしたら幽霊の存在証明になるかもよ」なんてはぐらかした。しかし妹の存在は同じような人々が乖離代替次元のそこら中にいることを示していた。現実の生死を超越し、意識だけを情報体として乖離代替次元を彷徨う亡霊である。
「結局、何人ぐらいがうろついていたのかな。ハカセちゃんが数えていたかな……聞かなくても良いか。俺は殺した意識の数を知りたくない」
それらの全てを消したのは、まぎれもない鎌滝だった。鎌滝は一度、乖離代替次元に終末をもたらしたのだった。彷徨うための世界がなくなれば、亡霊は去るしかなかった。
そのときまで乖離代替次元が閉じられたことは1日としてなかった。ユーザーはいつでも析置換装器を介して自身を情報として乖離代替次元へ送り込み、析置換装器を介して帰って来ていた。一方で情報体の亡霊は、析置換装器を介して乖離代替次元に送られ、そのまま帰り道を失っていたために縛られていた。突如として世界が活動を停止すれば、脱出口のない亡霊達だけが一緒に崩れ去ることになる。そうして鎌滝は自身の電瞬――乖離代替次元に直接干渉することのできる力によって世界の柱を壊し、崩壊へと導いた。
「神にでもなった気分だったな。間違いなく人のすることじゃなかった…………2度とごめんだ」
世界がふつと消えた瞬間、自分を乗せていた盆が引き抜かれたような感覚がしたのを覚えている。基盤がなくなってもしばらくはそのまま宙に残って、ややあってから落ちたのだった。
鎌滝が再び乖離代替次元に招かれたのは幸運と言う他ない。もしくは人の誕生に等しく、一度招かれたからには世界にいざるを得ないのか。
「俺はどんな外道に成り下がってもただの人だ。世界を創ったり、壊すほうじゃない。……俺は、世界を支えるほうのはずなんだ……ただなぁ…………」
鎌滝の能力はあまりにも強大で危ういものだったが、ハカセちゃんですら自らを乖離代替次元の神と自称していないのだから、鎌滝がその力のみを根拠に、自身は乖離代替次元にいても仕方のない、神の使いのような者だと言うことは決してできなかった。
鎌滝はベッドの上で体をずらした。顔を壁のほうに向け、析置換装器に背を見せた。そのまま寝た。部屋の明かりは点いたままだった。
罪は改造された析置換装器の形をしている。死神が殺人の咎を背負うのか、誰も知らない。