04.靴を脱ぐのは自分の家だけで
鎌滝が公衆転移装置の扉を開けると、景色はメインストリートから一転して木の葉の下に変わった。団地の中心にある小さな公園の中だった。公園といっても人の集まる場所ではなく、景観のために存在する場所でしかない。皆がメインストリートへ向かうことを象徴するかのように人気がなく、並び立つ建物の陰に沈んでいた。
乖離代替次元は決して狭くない。その演算が許される限りは拡張し、地球の面積を越える場合について好きなだけ考えられる。実際のところそれは机上の空論に過ぎず、両端が確かに存在するのだが、一晩で乖離代替次元を横断することは不可能だった。よっておよそ自動販売機の五台毎に公衆転移装置が設置されている。全て1人用の小さな個室である。
鎌滝は析置換装器にメッセージを受け取ると、すぐに最寄りの装置に向かった。狭い個室にシャチが入らなかったとき、彼は「狭いところは好きじゃないんじゃ」と言った。「やっと動けるぐらいの狭さでは息が詰まって仕方ない」と。シャチが動けるような場所は狭くないだろう、と鎌滝は思ったが、既にシャチは析置換装器に収まっていた。その中なら広いのかを聞くこともできないまま、彼は目的地に団地を設定し、15秒ばかり立って待ったのだった。
「隆郷の部屋はどこだっけな……部屋の中に装置が置かれれば良いのに」
2週間と少し前の記憶を頼りに、鎌滝は友人がいる一室を目指していた。団地に着いてもシャチを析置換装器から出さなかった。ユーザーが利用できる部屋も大抵広くない。
「1階の角だったな……どの棟のだ?」
いずれの棟も画一的である。ハカセちゃんは不自然でない造りが好きで、別の団地であればちゃんとデザインを別にしていた。ただ、ハカセちゃんは大雑把な造りが許せて、1つの団地内を統一しすぎた。向きや間隔がずらされなかった建物の、割り当てられた数字を確かめなければ確証が持てない。
「あった、ここだ。間違いない」
廊下を突き当りまで進んだとき、唯一ユーザーアイコンを非表示に設定している扉があった。廊下に出された飾りもない。窓から漏れる明かりすらなく、一見して利用者すらいないかのようだった。
「ちゃんと鍵を掛けてるかな。隆郷なら大丈夫だよな……」
鎌滝は財布に充分な小銭があるかを不安がるような、小さな心配を口にした。ポケットから析置換装器を取り出し、ドアノブにかざす。
『認証/鎌滝アレン/入室が許可されています』
ロックの外れる効果音と共に、ドアが隙間を作った。あらかじめその扉を利用できるユーザーを設定した上で鍵を掛けるのである。この部屋は特にそれが徹底されていた。隆郷バルトルトは自身の部屋の管理について熱心であり、ほとんど唯一の友人である鎌滝さえも、常には立ち入れないようになっているのだ。この部屋は完全に彼のテリトリーである。
「来たぞ。初仕事だって?」
鎌滝は靴を脱がず、目の前の階段を下った。隆郷は部屋を半地下に改造して更に広げている。1人分の細い廊下を抜けると、ある種の工房にも似たリビングが広がっていた。いつもならば歪んだギターが鳴り響いているというのに、今だけは何も音楽が掛かっていなかった。既に来客がいるのだ。
隆郷は奥のデスクに着いて、赤いラベルのコーラ片手に言う。
「直接会うのは久しぶりだな。こちら、ご依頼主さんだ。早速来てもらえて、ありがてぇもんだな」
「古城門レーナだ。よろしく。彼がすぐに来ると言って、本当にすぐに来てもらえたものだから少し驚いてしまった」
リビングの中央に置かれた広い作業机の向こう側に、古城門は座っていた。彼女は隆郷に出されたブラックコーヒーを1口すすった。その背後で1匹の白ヤギが鳴く。ヤギの体のほとんどは彼女の椅子に隠れて見えなかったが、そこらの牧場で草を食んでいそうな、いかにも呑気な奴に違いなかった。
「君が相談役の――鎌滝アレンくんか?」
赤い縁の眼鏡を左手で持ち上げ、古城門は確かめた。まるで鎌滝という人間を見通そうと言わんばかりの目付きだった。その眼差しで今までにも数多の人間性を見抜いてきたのだろう。
鎌滝は対面の椅子に腰を下ろし、隆郷に飲み物を頼んだ。今更何が欲しいかを確かめることもなく、相談役補佐は台所へ向かった。
「いかにも、俺が鎌滝だ。そんなにも俺という人物を知りたいなら、敢えて敬語なんてなしにしようじゃないか。お互い、余り口調を変えないほうがキャラを見失わないで済むだろ?」
古城門は「なるほど」とだけ呟いて背筋を正した。それから左手でカップを持ち、また一口だけコーヒーをすすった。白ヤギの長方形の瞳がどこを見ているのかは分からなかった。鎌滝も運ばれてきた緑茶を彼女に合わせて口にした。
「そうは言っても、私も元々敬語を使っていなかったね。依頼をする側だというのに失礼した。それはさておき、普段通りにしようと言うなら音楽も掛けないか? 君という人を私に教えてくれよ」
古城門は隆郷と目を合わせた。彼が「どうして聴くって分かったんだ?」と尋ねると、彼女は「簡単な話さ」とわけを述べた。
「この部屋には機械もたくさん置かれているから埋もれやすいかもしれないが、あれだけ大きなプレイヤーが置かれているんだ。他の出ている機械と同じように大型の凝った奴を置いているってことは、それだけ重宝しているんだろう?」
「だが隆郷の趣味は分かりやすいものじゃないぞ」
「良いじゃないか。その趣味を貫ける人は魅力的だ。私にも聴かせてくれよ」
古城門に言われ、隆郷は「よっしゃ来た」とお気に入りの1曲を掛けた。それでも鎌滝もいるから、とインストの曲を選んだが、やたらに速いドラムが力強く響き渡る。音が部屋中に満ちる頃には、隆郷は1人で納得するように頷いていた。
「君はあれだな、音楽を速くて重くて強いほど良いとするタイプだな。良いじゃないか。私が昔ちょっと……関わっていた野郎も同じ感じだったぞ」
隆郷はこの上なく嬉しそうだった。鎌滝ですら最近ようやく聞き流せるようになってきたというのに、古城門は既に平気に振る舞い、少しだけリズムを取っていた。あまりの喜びに、隆郷は耳元で「あいつスゲー良い奴だな」と囁いてきた。
隆郷は自身の椅子にドカッと座り込んで、小さく首を振り始めた。古城門もまた、それで良いようだった。
「それで、相談というのは?」
一際テンションの高い友人を無視して鎌滝が尋ねると、古城門は黙って左腕を作業机の下に隠した。次に上げられた時には右の袖が机に置かれた。そこに手はなかった。机の上に黒い蛇のような布切れだけが乗っかっていた。
「私の右腕がなくなった。厳密に言えば肘から先がなくなっていたんだ」
「右腕がなくなっただぁ? それも乖離代替次元で?」
先に疑問を口にしたのは隆郷だった。乖離代替次元で傷付くためには自身を構成する情報そのものが損傷しなければならない。情報同士が傷付けあう競技こそが〈市民の興戦〉だが、ゆえに護域という予防線が張られている。
「〈市民の興戦〉にしたって怪我はしない。現実の反映だとしても……いつの間にか擦り傷ができてるのとはわけが違うんじゃないか?」
今度は鎌滝があの眼差しを向ける番だった。しかし、古城門は想定していた、とたじろぎさえしなかった。「不意に動いてその辺の柱で胴体を掻く白ヤギとは違って、考え抜いた末に君達を頼った」と言って少しだけ顔を歪めてから言う。
「このことが諸々の怪奇現象の原因、というよりも怪奇現象に感じさせる原因なんだが……私には記憶もないんだ。いつの間にか右腕を失っていた」
古城門が短い腕を僅かに動かすと、作業机の上の袖がずるずると這って落ちた。白ヤギはそのぶら下がる布地を食んだ。その姿は無気力に牧草を口にするイメージとそっくり重なった。
「そう、それからこの子も不思議なんだ」
古城門は白ヤギの顎を持ち上げた。我関せずと言うように、袖を咥え続け、どこか遠くを見ていた。一方で古城門も、自身の服の袖を白ヤギがどうしようと自由にさせていた。
「この子がいつの間にか白くなっていた」
「元は違うのか?」
「真っ黒だった。こんなにも少しの汚れが目立つような綺麗な体はしていなかったんだ。それに、これでは首輪が目立ってしまう」
古城門は自身の首に手を当てた。黒いチョーカーをしていた。白ヤギもまた、黒い首輪をしていた。
「アクセサリー、それも揃いのなら目立ってなんぼじゃないか?」
「ちょっとしたことに意味を込めたくなるのを知らないのか? 一見して分からないように、かつ誰から見ても分かるように揃いの首輪をする。それこそこの子が私に従わねばならないことの何よりの証だ」
鎌滝は、彼女が自分の首輪を触った手で白ヤギのチョーカーを撫でるのを見た。彼女はその関係性を実感し、明らかな満足感を覚えていた。けれども鎌滝には、2人の間にあるものが単なる一方向の関係性には見えなかった。
「あんたの言うように考えれば、そのヤギがあんたを支配しているとも捉えられるわけだ。あんたはヤギが自由にしているように見えてそれを支配していることが好きなんだろうし、同時に存在するヤギの自由に付き合わざるを得ない状況も好きでたまらないんだ。とんだドМのサド女王だな」
「……まさか。センスだけじゃなくて、関係性について学ぶことも君の課題だな」
「それは難しいな。人間関係に踏み出す前に、俺の価値観は俺の中で完結しちゃってる。俺にとって俺よりも大切な奴はいないもんで」
「経験が浅いんだな。思弁的だ」
特段殴り合いに似た会話ではなく、それよりも互いの思考回路の電源を認めるようだった。この話し方においては、鎌滝と古城門はそっくりだった。
こうした2人のやり取りの間、パソコンに向かっていた隆郷が一息吐いて背筋を伸ばした。ずっと自身の役割を全うしていたのだ。それを確かめた鎌滝は作業机に指先を当てた。瞬間的に開かれたウィンドウには、相談内容がまとめられている。
「……つまり、記憶のない間に何が起きたのかを知りたい。できれば記憶を取り戻したいし、原因が知りたい。そんなところで良いのか?」
「すごいな。話は大分肉付けしていたのに、要旨はまさにその通りだ。よろしく頼む。当然、私にできることがあれば私がするよ」
古城門は頷いた。ヤギの頭は作業机の下に潜り、小さな角だけが潜望鏡のように見えていた。頭を彼女の膝の上に乗せていた。見えない位置から歯ぎしりをするような鳴き声が聞こえた。
鎌滝は古城門の言葉を受け取ると、机から指を離し、ウィンドウを払い除けた。隆郷も椅子を回して、2人のほうへと体を向ける。彼の手の中には、デスクの傍らで玩具代わりに転がっていた小さな部品が収まって、弄られる度にカチャカチャと音を立てていた。
「仕事だからな。問題は解決するよ。ところで、あんたは記憶がなくなって困ってるのか? ずいぶんと余裕のあるように振る舞うじゃないか」
鎌滝は緑茶を飲んだ。ここからはほとんど雑談に違いなかった。ただ本当に雑談ならば、鎌滝は一切、相手の実状に関して話を広げることはない。彼にとってこの会話は、ハカセちゃんに倣った自然さで形作った、優先度を求める作業だった。
「……別に困っちゃいないさ。私の根幹に関わる学生時代の思い出なんかに影響はない。いくらかの最近のエピソードがなくなっただけだ。そのことも理屈の上では最後の記憶当時と変わらない。あのとき未来の記憶を持っていなかったのと同じだ。ただ、私の思考回路はいささか客観的過ぎた。そのエピソードという根拠がないと、どうにも気持ち悪くて仕方ない」
古城門は目を伏せた。眼鏡を押し上げ、袖を掴み、それからヤギの頭を撫でた。ヤギはただ「メェー」と鳴いただけだった。
「すまなかったな、ただの興味本位だ。連絡があればサイトにくれ。隆郷が漏れなく確かめるはずだ」
「分かった」と言って古城門は席を立った。ヤギを引き連れて廊下に向かい、階段を登るところで立ち止まると、振り返って言う。
「そういえば、君らからは女っ気が少しも感じられないのに、私と話すにしても、なんというか……慣れていたな」
「隆郷は確かにそうだ。あいつ高校3年間手芸部で周りに女子しかいなかったから。俺は……無責任に言えばナルシシストだからな」
「そうか。それはそれは、変に女心を心得ている野郎よりも却って当てになりそうだ」
古城門は曖昧な微笑みを見せ付けた後、別れの挨拶を口にして扉を開けた。霊魂の抜けたようなヤギが、トテトテと素直に後ろを付いてくるのが堪らないと表情に浮かべ、そして去っていった。
先に口を開いたのは隆郷だ。
「なーにが『ただの興味本位』だ。相手が誰だろうが興味なんて少しもなかったクセによぉ……ヤギの色が変わったっつーのがホントなら情報が変わったってことだな。データの損傷か?」
「……それはない。ハカセちゃんがその辺りを直さずにいるはずがない。俺がまた乖離代替次元に来られるようになったんだ。たった2週間前に世界を破壊した俺が入れるようになってすぐ、また乖離代替次元が壊れることなんてことが、ハカセちゃんに許されはしないだろ」
黒幕のいることは明らかだった。