03.何も分からない
「そうだ、アレの具合を見ないと」
鎌滝はちょうどもたれていた服屋の壁に向きなおった。壁に掌を触れさせると、そこを起点にして1つのウィンドウが現れる。彼が「えーと」と確かめながら操作を続けていると、シャチが画面を覗き込んできた。肩越しに迫った白と黒のてらてらとした頭は、想像する以上に大きくて恐ろしい。
「儂の知らん内に何やしたのかのぅ?」
「心機一転って感じかな。いや、ある意味では今まで通りの道を進み続けただけなんだけど、ちょっとした小遣い稼ぎを始めることにした」
「小遣い稼ぎじゃと? あんなにも欲のないお主が?」
「俺だって金のいくらかは欲しいさ。それが1番の目的じゃないところはその通りだけど」
自分の慣れない手付きに加え、怪しむシャチのせいで妙に目立つ気がして、鎌滝はウィンドウから手を離した。そのまま払い除けるような動作をすれば簡単に閉じる。彼はすぐ隣の路地に入り込んで、そこでもう一度開きなおした。コンクリートのテクスチャに入った細かい傷がウィンドウに隠された。
「なんじゃ、そんな移動では意味もないじゃろう。何もそんなに狭いところに行かなくても」
「なんとなく、落ち着かなかったんだよ」
「陰気に拍車が掛かっとるのう。お主の根性はミミズやらオケラか?」
「確かにそんな虫みたいな根性だったらシャチには分かるはずもないな」
結局、他の人から見えることは変わりない。ただ、目には見えない境界線を越えた先の、明かり1つ分暗い場所であることが、彼を落ち着かせた。人間関係を楽しんでいる人々の往来は少々眩しい。
「小遣い稼ぎ以外に仕事をする理由……なんと言うか、服の汚れを消したかったら、その方法は擦り落とすだけじゃないんだ。いっそ泥を被っても汚れの1個は目立たなくなる。なんならそっちのほうが手っ取り早いし、そのために泥を掻き集めれば、他の奴が汚れることもずっと減るんだよ」
小遣い稼ぎと称して鎌滝が新たに始めたのは乖離代替次元における相談役だった。探偵だとか何でも屋と表すと少し大げさだが、人々の明確な拠り所はあっても良いだろうということだ。
「相談役のぅ……自分以外には少しの興味もないお主が人の相談を聞くとな?」
シャチはそれでも訝しんでいた。結論は心得ても、心理の見えないせいで、納得のしようがなかった。
鎌滝は浅く溜息を吐いて続ける。
「そのぐらいのほうが良かったりもするだろ。確かに俺は素晴らしく自己本位な奴だけど、却って深入りなんかもしない。というかそもそも、ハカセちゃんに頼まれたんだよ」
「他人に頼まれたのか! それならば妥当じゃな」
その一言でシャチは声を上げて笑った。
「頼むからもう少し静かにしてくれよ」
そう言って鎌滝は析置換装器のインベントリからスルメを出し、シャチの口に突っ込んだ。
「おおぅ、旨い、旨い。こりゃぁ貰ったからには静かにせんとな」
シャチは咥えたスルメを口の端に動かして、牛が草を食むように味わっていた。
鎌滝は自身が友人の隆郷に頼んで打ち出したサイトを確かめた。その広告もしっかりと設定されていた。やたらと情報量の削られた簡素なサイトである。しかし、隆郷の凝り性が発揮されていて、その体裁やデザインは妙に洗練されていた。宣伝効果は期待されないとしても、素人の作ったものとしては充分な完成度に達していた。そもそも、空中広告を出していない時点で宣伝効果はたかが知れていた。掲示板や張り紙のように並ぶ空中広告のメンツはほとんど決まりきっていて、大々的なアピールをすることは最初から望み薄だったのだ。彼は最大限のことをしてくれたと思う。恐らくは時間の半分を、自身の納得度合いを高めるためだけに使い出しているが。
「そう、ハカセちゃんとはあの娘じゃな。儂も一応、分かっとるぞ。……裏がありそうなもんじゃのう」
「裏、あるよ」
鎌滝は至って普通の調子で答えた。サイトを下までスクロールしたところにある小さな広告は、しかし目当てのそれではなかった。ここにサイト閲覧者数の逆数の確率で現れる小さな小さな、見落としてしかるべき広告が「裏」の入り口だった。相談役は彼に与えられた仕事の単なる門に過ぎない。
鎌滝はウィンドウを閉じた。路地を塞ぐシャチをどけた時、服屋のドアベルが鳴った。人が1人出たのだ。足音が次第に大きくなるのを聞いて、彼は思わず踏み出した足を引いた。一方でシャチは引きも進みもせず、その人を待っていた。
「あ、アレンくん!」
手を振りながら声を掛けてきたのは小さな鞄を下げた女性だった。少女と言っても差し支えない。鎌滝もそれが正解なのか分からないまま小さく手を振って応えた。しかし、彼女はそれだけで嬉しそうに笑みを浮かべた。歳は鎌滝と同じで、学年も同じである。猫雲ソフィという。足元を1匹のフェレットが付いてきていた。猫雲はフェレットを両手でよいしょと抱え上げて鎌滝に向けた。
「ほら、チンノも挨拶して~」
その手をうりうりと動かされたまま、フェレットは顔を背けた。そのフェレットは彼女の〈繋光の徒〉であり、話すこともできるはずだったが、黙って猫雲の胸の中に顔を埋めてしまっていた。もしかしたらシャチが孫の顔でも観察するように顔を近付けているのが原因かもしれない。
「チンノ?」
「チンノ。クシャミと迷ったんだけどね、チンノのほうが似合うかなって。皆は名前付けないみたいだけど、私はやっぱり欲しくなっちゃって」
猫雲はしゃがんでチンノを地面に下ろした。チンノは黙ってそそくさと彼女の脚の陰に隠れた。図太いシャチとはまるで正反対の、無口な〈繋光の徒〉である。彼女の脚の隙間から顔を覗かせて様子を窺っている。
「儂も名前はないのぅ。他に〈繋光の徒〉で名前のある奴……思い当たらんな」
「名前、欲しいのか?」
「いらんわ。あろうがなかろうが、儂は儂じゃ」
2人のそんなやりとりを見るだけで、猫雲はふふっと口を隠して笑った。
「カッコいいおじいちゃんみたいだね。私はすごく良いと思うよ」
「そう言われると、さすがの儂でも照れくさくなってしまうのぅ」
シャチが空中で身を翻してから大きなヒレで腹を掻くように振る舞ったのを、猫雲は目を細め、優しく笑って見ていた。小さく拍手もしていた。
「猫雲は何かあったのか?」
鎌滝が尋ねた。偶然会って話し掛けるには相応の理由があるだろうと思ったのだ。しかし猫雲は違った。お互いの〈繋光の徒〉が正反対であるように、猫雲は鎌滝のできないことを当たり前に行う。
「ううん、なんにも。でも見掛けたから話し掛けちゃった。そうだ! さっきの〈市民の興戦〉もちょっとだけ見られたよ。やっぱ、凄いね。かっこよかった!」
だけどさっきまで服を見ていたじゃないか、と思ってしまうのが鎌滝の悪いところで、実際に最初だけ見たのだろうと考えた。猫雲は嘘を吐かないし、皮肉も言わない。そうでなければ、友達に誘われて移動教室に行っていた様子も嘘になる。
まるで話すだけで楽しいというような猫雲と対照的に、鎌滝はとにかくシャチの冷やかしを避けようとしながら話すしかなかった。
「まぁ、楽しかったよ。結局負けたけどな」
「あ、負けちゃったんだ……私は最初しか見られなかったから……あ、でもログ見られたよね? 後で見てみるね!」
「別に見なくても大丈夫だ、俺は負けたわけだし。今までも見たことないんだろ?」
「確かに初めてだけど……これも機会だから! それにね、今の内から見ておけば、次にアレンくんが勝ったときに、もっともっと喜べるよ!」
何が猫雲をこれほどまで一生懸命にするのか、鎌滝には分からない。きっとこれまでに積んできたものの差だが、そこに何があるのかが分からなかった。それに相手が一生懸命だからと言って、その相手として戦うわけでもない自分まで一生懸命になる必要はないはずなのに、猫雲を相手にする場合ばかりは、いつの間にか一生懸命にならなければいけない気がした。
「あの人も強いんだよね? それで戦えるなんて凄いよ!」
猫雲はぺちぺちと手を叩いて見せた。細かい拍手はほとんど音が鳴らなかったが、その役目をいっぱいに果たしていた。
「ん、そうだな。ありがとう」
遂に鎌滝はそう返す他なかった。猫雲はちょっとしたおまけを貰ったかのように満足そうだった。
一瞬、明らかな沈黙が生まれた。シャチはキョロキョロとあたりの雰囲気に気を引かれていたし、チンノは相変わらず猫雲の足元で静かにしていた。遠くからアナウンスの声が聞こえ、また誰かが〈市民の興戦〉を始めたのだと分かった。制限時間は3分で、空中戦闘もないらしい。
鎌滝としては、猫雲がどうして乖離代替次元に来たのかが気になるところだったが、そう聞くのも不自然ではないかと思って躊躇ったのだ。その点、猫雲はやはり違った。少し照れ臭そうにしてこう言う。
「……実はね、『今日こそ1人でゆっくりしよう!』って思ってたんだけど……やっぱりなんか人に会いたくなっちゃって……来ちゃったの」
話しながら、猫雲の手はずっと動いていた。挨拶をするときには手を振り、話す時にはジェスチャーを交える。表情もころころと変わる。
鎌滝には裏路地の中と外という自分達の立ち位置があまりにもふさわしく感じられた。
「それで、何をしようと思ってんだ?」
「何を……散歩かな? ナーちゃんが来てから考えるつもり。やっぱりこのほうがワクワクするね」
乖離代替次元には友達と来る、〈市民の興戦〉をしない、ファッションだとかサービスに金を使って少しずつ所持金を溜める、それが猫雲の楽しみ方だった。
猫雲は小さく震えた析置換装器を鞄から取り出した。その表面にはメッセージが表示されていた。
「あ、もうすぐ着くみたい!」
「あぁ、じゃあな。楽しんで」
「ばいばい! また今度一緒に出掛けたりしてよ!」
猫雲は手を振って去って行った。次に会う時を見据えた別れの言葉を残していった。多分、チャンスさえあれば本当に行くつもりだ。
小さな足取りで後を付いて行くチンノを目で追いながら、シャチが聞く。
「どういう関係なんじゃ」
「中学からずっと学校が一緒なんだ。ただ、隣の席になったことどころか、同じクラスになったこともない。他人よりたくさん廊下ですれ違っただけの関係だ。去年連絡先知ったけど」
「お主とは似ても似つかぬのぅ」
「猫雲は、汚れがあったら真っ白になるまで擦り続けるんじゃないかな」
鎌滝の析置換装器も振動した。ポケットから取り出すと、そこには隆郷から1通のメッセージが届いていた。鎌滝を知ればこそ、誕生日を祝う文言は1文字もなかった。