14.なんでもない日の始め方
「まったく、やることがないな……次の依頼が来る気配もない」
乖離代替次元のメインストリートはあいにくの曇り空だった。今日はこれから雨が降ることになっているらしい。心なしか気温の低いように感じるが、どう設定されているのか知る由はない。
隣を泳ぐシャチがスルメを咥えながら言う。
「何をふらふら歩いとる。いつからお主はクラゲの〈繋光の徒〉になったんじゃ」
「最近そうじゃなかっただけだ。元々俺は決まった趣味のあるような奴じゃないよ」
鎌滝は当てもなく乖離代替次元のメインストリートを歩いていた。立ち並ぶ店のドアを眺めながら、決してどれにも意識が向かなかった。
「どこも同じようなものに見えるな」
「相変わらず、知らんもんには興味のないままで済ますんじゃのう」
「でもこれからは来たものまで払い退けたりしないだろうな。漂うべき海が広げられた感じだよ」
鎌滝は服屋の手前で立ち止まって壁際に立ち寄った。壁に手を付いてウィンドウを開けば、時間が確かめられた。いつの間にか表示設定がリセットされていたようで、秒以下まで教えられた。
「やることないからって早々に来てもダメだな。やること見付けるか、気のはやらないようにしないと」
「せっかちというかなんというか……お主は生きるのが下手じゃのう」
隆郷の元を訪れるにはいくらか早すぎたが、その暇を埋める予定は持ち合わせていなかった。その端に表示されたトピックスには、昨夜のの隆郷の〈市民の興戦〉が小さく含まれていた。
「俺はやることがあるほうが良いんだな。なんて協調性のあるできた存在なんだ。その上、ヤギの毛色を変えたり、人の腕を生やすぐらいの成果まで出せてしまう。引く手あまたなんじゃないか」
「そのテキトーを言ってしまえるのは、誰もいない部屋で己を鼓舞するのにうってつけの才能じゃな」
シャチは飲み下したスルメに続いて2つ目を要求し、反対の端に咥えると、すれ違う通行人を目で追い始めた。いつも通りの光景と振る舞いだった。
鎌滝はウィンドウを閉じる前に、隆郷の話題っぷりを見ておくことにした。しかし、そこには短い動画はおろか、1人のユーザー名すら載っておらず、ただ「凄かった。金が動いた」という内容だけが書いてあるのだった。わざわざログを探し出さなければ、リアルタイムで見た者だけが楽しさを知っているのだ。いつの間にか鎌滝の背後に立っていたこの男のように。
「どうも。その勝負は面白かったですね。鎌滝くんもご覧になりましたか?」
ストラグルはいつものスーツに身を包み、ワシを引き連れて微笑みかけていた。音もなく近付いてきたのは、どことなく忍じみていた。
「いや、あいにく予定があって、ここまで来られなかったんだ。それでなんとなくでも知れたらと思ってこの状態だよ」
「連戦連勝、相手の〈繋光の徒〉をものともせずに戦う様はなかなかに格好良かったですよ。次から次へとオリジナルの武器が繰り出されたことも、実に興味深かったです。もっとも、私も最後の最後は見られなかったのですが――」
ストラグルはすぅと目を細め、鎌滝の顔に焦点を定めた。「罠は仕掛けた。これが獲物なら幸い、そうでなくとも関わっているのだろう」と言わんばかりの、性格の悪い牽制だった。
「残念だったな」
「ええ、あのときは本当に残念でした」
それからストラグルは鎌滝の開いていたウィンドウの時計を盗み見て、「では」と去っていった。「またいつか戦いましょう」「次は勝たせてもらうよ」と、幾度となく交わした別れの挨拶をした。彼の姿がずっと小さくなるまで、鎌滝はその背中を見ておいた。
「お主、次は勝つ算段が整ってるんじゃな?」
「……そんなはずがないんだ」
鎌滝は溜息混じりに言った。
「俺が電瞬を撃てば大抵勝てる。ないしは負けない。それでも、多分俺はこれから普通の〈市民の興戦〉をするときには勝つ気が湧かないままだよ」
2人は隆郷の待つ部屋へと足を向けた。
「俺は戦えるし、ルールに則って勝つことができる。この世界をぶっ壊したのに、ハカセちゃんに頼まれたのと、出しゃばってやった〈市民の興戦〉で普通以上に動けた。結果も勝ったようなものだった」
シャチは黙って鎌滝の声に耳を傾けていた。なくなったスルメを要求することもせず、彼がどうするかに従うつもりでいた。
「でもあの2つは俺が俺の責任で戦った奴なんだよな。勝たなきゃいけない勝負なんだ。でも普通のは俺と相手の間にある責任で戦ってる。俺は相手を……2回も家族を殺して何とも思わなかった奴より下だって位置付けたくないんだろうな」
「まったく、自分勝手じゃな」
「その通りだ」
公衆転移装置の前で、シャチは析置換装器の中へと帰った。鎌滝はそそくさと狭い機械の中へと入っていった。
次に扉から出ると、木の葉の隙間から雲一つない快晴が見られた。僅かに赤み掛かった空の下で、視界は明るく鮮明である。
鎌滝はあの装飾もユーザーアイコンもない扉を目指した。各棟に振られた番号を確かめ、それから廊下を突き当りまで進み、ドアノブに析置換装器をかざした。
『認証/鎌滝アレン/入室が許可されています』
例によって大音量で歪んだギターの音が流れていた。半地下に改造された工房じみた部屋には、中央に作業机が配置され、その向こう側で1人の女性が席に着いていた。
「昨日ぶりだな、古城門。それに……お前はあのヤギなんだな」
彼女の背中に体重を預けるように、真っ黒な格好をした少年が立っていた。色こそ違えど、その容姿は敵対したときと少しも変わらなかった。黄褐色の瞳が悪魔的に笑っていたが、その奥に見えたのはどうにも小さな欲望だけだった。
「どうも人型になれてしまうようなんだ。だけどかわいい顔をしているだろう? 首輪もよく似合っている」
古城門が左手で満足げに彼の顔に触れながら言った。右腕は少しも動かしていなかった。
「あんた、また右腕がないんだな。全部なかったことにしたら、もう1度ヤギに食われたのか?」
「まさか。目覚めたら記憶も戻っていて、全部想定通りだったのを知った。ちゃんと生えていた腕を喜んだりもしたよ」
訝しむ鎌滝に対して、古城門は声を上げて笑った。
「面白いことにな、今度は私が腕のあることに違和感を覚えてしまったんだ。なんというか……私については足りているように感じるものの、私とヤギとの両方を考えると足りないように感じたんだ。だから今度は私のほうからヤギにあげたよ。奪われる前に与えてしまえば安全だろ?」
古城門の振る舞いは出会ったとき以上に自信に満ちていた。彼女は語り終えると手元のコーヒーを1口だけすすった。それを見て鎌滝が緑茶を頼むと、やけに上機嫌な隆郷は快諾してキッチンへと向かった。彼の見ていたモニターには当初よりも大きな額が表示されていた。
「金は既に払わせてもらったよ。なんならリアルで会って飯でも奢ってやろうか。いくらでも私を頼れば良いさ。そういうのは大好きだ」
「ずいぶんと優しいじゃないか。都合が良い」
運ばれてきた緑茶に口を付けた。いつもより色も味も濃かった。
隆郷は相変わらずニヤニヤとしたまま勢い良く椅子に腰を下ろし、次にスピーカーから流すアルバムを選んでいた。ちゃっかり画面の端で自分についてのトピックスと長時間のログを開いていた。
ヤギを自分の隣へと呼び寄せ、手を掴み、それから古城門は少しばかり恥ずかし気に話し出す。
「私の元々の性格っていうのも関係するんだが、それよりもとにかく君たちに感じる恩があまりにも大きいんだよ。それに――」
ヤギは自分勝手に古城門の袖を引っ掴んで、グイグイと乱暴に引っ張った。彼女はそれを咎めようとするどころか、ヤギの首輪を見せたときよりも「良い」と雄弁に語る表情を見せた。
「どうも記憶云々に拘らず、私は他人のために動くのが好きになってきたみたいなんだ。そうときたらもう、ぜひ君たちの好きなように私を振り回し働かせてくれないか? 君には負けたが、私とヤギなら力の上限だって気にせず仕事できるぞ」
「ダメだ」と鎌滝は即答した。「他人のために動くあんたには、もっと良いところがある」
古城門が納得し兼ねるのに対し、隆郷は一切動じず、ハカセちゃんと連絡を取り始めていた。彼らには揺るがぬ理由があった。鎌滝はある種の別れ土産として、彼の抱える宝箱の蓋を開けるように語り出した。
「心電図が正弦曲線を描くのを見たことはあるか?」