10.ドーナツの穴に住むようなこと
古城門は自身の部屋の中で、体の中身を全て嘔吐するような、深い深い溜息を吐いた。それからすぐに自身の首を絞め上げるつもりで嘲笑う。
「今の私に中身なんてないじゃないか……前に進もうって言ったって、何をすれば良いんだ…………」
彼女がこの数日を常に過ごしている乖離代替次元の自室は、現像室にも似た暗闇に沈んでいた。どろりと赤い夜空に抗わず、小さな密室は暗闇だった。そこで唯一輝くものこそがヤギの白い体。その白さが現像室で躍るとき、古城門の脳裏に立ち現れる自身の精神は酷く歪んでいた。彼女は部屋の壁にもたれて座り込み、全身の重さを感じながら、頭を垂れ、瞼を閉じた。世界は更なる暗闇に埋まる。しかし彼女には自身の精神の空っぽであることが襲いかかるばかりであり、睡魔などという優しい存在は現れなかった。
「析置換装器が壊れてからというもの……ますますだ。眠たくもならない。食べたくもならない。日に日に人らしさが削がれていく…………」
体が動かないというよりも、体の動かし方が分からないように感じた。しかしそれも誤りに思われて、むしろ体を動かす経路がすっかり鈍重になってしまったようだった。だが、その中枢たる脳の働く様子がなくとも、細胞の一つ一つが自ずと思考をするかのように体が動かされた。古城門自身にはそれを止めることもできず、肘から先のない右腕が、背後の壁を一定の間隔で叩き始めた。その力が強まることも弱まることもなく、体が勝手に叩き続ける。
「ははははは……私には腕がないんだな。片手じゃ誰かのシャツのボタンを留めてやることもできないな」
乾いた笑い声は部屋の中に広がるまでもなく、線香の煙が吹かれたのに似て散っていった。古城門の脚が力を失って伸び、床の上にベッタリと広がった。腰にくっついた2本の棒が重たいおかげで、それ以上に姿勢が崩されることはなく、中途半端な格好のまま、彼女の頭は壁を叩き続ける体の言いなりになっていた。
「私は何がしたいのか…………何も分からないな。ああ、エピソードってのは何も過去から今を支えるだけのものではなかったんだ。今を押し進めるためのガソリンにもなってた…………そういえば、車はガソリンが満タンじゃないほうが良く爆発するんだったけ」
ぼそぼそと呟いても答えは返ってこない。部屋の中には古城門の他に白ヤギが1匹いるだけで、寂しいものだった。いよいよ右腕の先に微かな痛みが生まれてきたがそれを止める者はおらず、彼女自身にも彼女の体の止め方は分からなかった。脳のしわが記憶の残りカスで詰まったみたいで、作用する感覚の一切が湧かず、脳髄から発せられる熱のいくらかも感じられず、休む気もなく、腹の空く気配もなく、思考回路を電流が流れることもなく、景色の思い返されるそぶりもなく、見たまま聞いたまま嗅いだままの情報に晒されるだけの塊として横たわっているようだった。
右腕がぴたりと動きを止めて、痛みが一層正確に感じられた。その感覚に意識を傾けていると、今度は左腕が無意識の内に動き出し、蛇のように服の下へと潜りこんだ。手の届く範囲をもぞもぞと這いずり回って、上半身をひとしきり触って回った後は、腰のあたりに落ち着いて五本の指が蠢き始めた。古城門は自動的かつ漸次的に蓄積されていくその感覚に身を浸からせるだけだった。緩んだ口の中は渇くと同時に満たされるようで、自分の体が自分の心に支配的になること以外に術のないように感じられた。
古城門はいつの間にか自分が単なる空の器と化してしまったと思った。グラスが自身に注がれた水の澄んでいるのか、腐っているのかを知る由はない。彼女には、自分が何をしようとしていたのか、何をしたくなっていたのか、すっかり分からなくなってしまっていた。グラスはただその水の形を保つ役割を与えられるのみ……
古城門の視界で白い体のヤギはよく目立った。彼女は浅く声を漏らしながら、助けを求めて縋るような瞳でじっとヤギを見つめていた。それでもヤギは何もせず、彼女に見つめられ続けながら待っていた。そうしていよいよ彼女の中があらゆる感覚でいっぱいになったとき、今にも溺れ死ぬのではないかと思い描かれたときに、白ヤギは姿を変え、彼女に歩み寄った。
「君だけが僕を支配しようとするからいけないんだよ」
ヤギは白い格好をした少年の姿になり、古城門の正面にしゃがみ込んで彼女の頬に手を添えた。ちょうど人が恐怖しない、最大限の魅力を提示する悪魔的な微笑を浮かべて語りかけ、自分だけが味方だと、余白程度に残されている感覚に刷り込んだ。
「いっそ僕が君を支配すれば、ぜーんぶ解決しちゃうんだよ」
暗闇の中ではヤギの白さばかりが目に入り、夜の静寂の元ではヤギの声だけが響いた。自分を抱えてくれている白い格好をした少年の体だけが唯一存在の確かなものであると感じられた。
「君が僕にもっと力をくれれば、僕らはもっと強くなれて、僕らはもっと自由になれるんだよ」
黒い首輪を掴まれて、古城門には頷く他になかった。