01.記念すべき日の過ごし方
母親から「誕生日おめでとう」と極めて短いラインが来ていた。
「そうだ誕生日だった。また1年、あいつと年の差が広がったんだな……」
鎌滝アレンは独り言ちながら、母親からのメッセージに「ありがとう」とだけ返した。画面をトークリストに戻してスクロールする。友達が少ないせいで、ちょっとの移動で1番下に着いた。底にはUnknownとなって姿を消した妹との会話の跡が残っていた。
「いつの間にか慣れちゃったな。悲しくないのが良いのかも分からない……」
溜息混じりの呟きはそれでもどこか湿っぽく、兄の中に沈んでいくだけの重さがあった。
鎌滝が倒れ込んだベッドから窓の外を覗くと、既に日は落ちていた。薄暗い空の上に、雲の形だけが微かに見えた。最近は随分と昼が長くなってきたほうだ。
「ついさっき暗くなってきたと思ったら、もうこんな時間か」
ぴしゃりとカーテンを閉めた。それだけで一層部屋の中が静かになったような気がした。
「誕生日ねぇ……ケーキなんて買おうとも思わなかったな。夕飯……今朝炊いたのが残ってるはず。そんなんで良いな」
ベッドを離れ、ヒタヒタと足音を鳴らした。散らかすようなものすら持っていないからよく響いた。
キッチンの目に付くところに小さな炊飯器が置かれている。小さな電子レンジと並んでいた。見た目なんてもってのほかで、どちらも最低限の機能と価格で選んだ。炊飯器の中にはちょうど茶碗1杯分の米が残っていた。
鎌滝はシンクの端に置かれた食器カゴに目を向けた。3食ともに使う茶碗と箸だけは、わざわざ片付けることもせず、いつもその中にある。
「よそわなくて良いか。ただの腹ごしらえだもんな」
茶碗は取らなかった。これから遊んだ後、夜遅く、ないしは朝早くに洗わないといけない食器を増やしたくなかった。そんなことをしていては、これから来る久々の楽しみが長続きしない気がしたのだ。
鎌滝は昼食の後に洗って乾かしたままの箸を取って、炊飯器の内釜と一緒に部屋へ戻った。壁向きの机に着き、ノートパソコンを閉じて隅にどけた。それから一応、手を合わせた。たとえ人が見ていないとしても、そういう小さいことすら、自分の犯した罪として抱えなければならない気がする。問答無用に錘を心へ結び付けられるほど、余裕は残されていなかった。
「うん、冷めてるけど食える。さっさと食わないと」
鎌滝は立ち上げたままのパソコンを開きなおすことも、ベッドの上に転がるスマホを弄ることも、机の隣の本棚から適当に1冊を見繕うこともなく、ただ白米を食べ進めた。
この日は鎌滝にとって、記念すべき1年の節目ではなく、解放される2週間の節目である。期末の課題はとっくに終わっていた。後はしばらくして進級するのを待つだけだった。学校関係ではない。バイトだって問題はなかった。初めての酒も適当に済ませればそれで良かった。2週間もできなかったことは別にある。
「食った食った。満足だ。これなら今日の残り何時間かは平気で持つだろ」
合掌し、口の中に僅かに白米の残っているまま、そそくさと席を立った。炊飯器の内釜と箸をシンクに入れるだけで済まし、玄関と窓との鍵を確かめた。部屋の明かりも消した。念のためもう一度鍵を見た。
「もう今日は部屋を空けるんだ。いらない心配はしたくない」
鎌滝は暗転した部屋の中で机の傍らに立った。それからスマホではなく、それよりも一回り大きなガジェットを手にした。縦に割るような溝が1本入った、グレー一色のシンプルな機械だった。それには画面もなければスイッチの1つすらない。
「析置換装器。久々にちゃんと触るな」
薄い箱型の析置換装器。鎌滝のものは特別仕様で1つだけパーツが多い。もっとも、正しくは特別仕様ではなく、改造されたせいだった。
それが鎌滝の触れたことによって淡く青色の光を放った。さながら人魂が水面を照らしたような独特の色合いである。
鎌滝は析置換装器を握ったまま、真っ白な壁に向かって突き付けた。析置換装器を使うのに「Hey」も「OK」も言う必要はない。ただ自分が別の場所へと進む意思さえあれば充分である。
「2週間ぶりだ。あっちはどうなってんだろうな」
鎌滝は不敵な笑みを浮かべた。今日は何があったとか友人から話に聞くよりも、結局、自分で動くことほど良いことはない。
析置換装器を鍵として、扉が開け放たれたかの如く部屋が姿を変え始めた。青い電光が爆ぜ、鎌滝の背後へと駆ける。それを先頭とする電脳のパレードが彼を飲み込む!
物理的なものの全てを置き去りにして、知覚的な世界へとその身を送る。鎌滝の質素な部屋自体は一切変わっていない。析置換装器によって彼の体が走査され、肉体から情報体へと置き換わり、もう1つの現実へと招かれていった。
焚火にくべられた薪の割れるようなパチパチという音と共に、鎌滝を取り囲む部屋の壁が失せ、その向こう側に何十倍という空間が広がっていった。消える部屋の天井に代わり、その何段か上を更に無骨な構造体が覆う。本棚やベッドも一緒に消え、一方で四角い柱が生えて天井と接続した。
鎌滝の頭上にだけ明かりが灯り、それから――
『ユーザー,鎌滝アレンの入場には新たに手続きが必要となっています.規定に従い,入場許可を発行してください』
女性のシステム音声が明瞭に告げた。
完成した空間は駅のコンコースとそっくりだった。広くくり抜かれた仕切りのない空間は、道とも部屋とも区別が付かない。目の前には柵のように等間隔に自動改札機モドキが並び、柱に掛けられた時計が現在時刻を示していた。しかし、吊り下げられた電光掲示板に行先は示されていなかった。鎌滝一人がぽつんと立つ巨大な空間は、あくまでもコンコースを真似ただけの、2つの次元を繋ぐだけの境界上の空間でしかないのである。
「めんどくさい……けどしょうがない。1発で行けなくても俺が悪い」
この時、1人の青年があの部屋から消えたことになる。析置換装器の使用はゲームに没頭して我を忘れることとは明らかに異なる。現実に体が必要ならば当然、もう一つの現実にも体がなくてはならない。ユーザーの解析、物体から情報体への置換、その維持、時には安全装置として働くことが、析置換装器の役目である。
析置換装器はひとまずの用を終えて光を失っていた。鎌滝はそれを持っていた手をポケットに突っ込んで、何にも臆することなく待った。それから数秒のことである。
『なんでこんな中途半端な時間に来るのよ! せっかくアタシが序、破と来てQの急展開に頭キューってさせてたのに!』
先程のアナウンスと同様に声が響き渡った。今度の声はかなり幼げで、叫べばガラスも割れそうな声だった。鎌滝は「この感じだ」と1人で頷きながら、その声に答える。
「ハカセちゃんも久しぶり。そう言っても、ちゃっちゃと済ませてくれるんだろ?」
『当然よ。でも、そういうこと言う相手もちゃんと選びなさいよ?“適当にやっちゃってよ”とか“簡単な仕事でしょ?”って言われた経験をパッチワークして仮想敵を作るのが最近のトレンドなんだから』
そう言ってすぐに、ハカセちゃんは「あー」とか「えーと」なんて鳴き声を出しながら作業を始めた。
「でも俺の相手はハカセちゃんだ。それとも最近のトレンドに則って『やろうとするだけで才能!』とか言うほうが良いのか?」
『……変なことして規制食らって再入場の手続きをアタシにさせないことが一番ね。はい、準備できたわよ。2週間ぶりの乖離代替次元。今度はアタシの掌の上で踊り続けることね』
「ありがとう。そうだな、正座し続けるぐらいおとなしくしててやるよ」
鎌滝が笑い交じりにそう言って返すと、「あんたが暴れないんじゃ、音のないタップダンスとどっこいどこいよ!」とムッとした後にアナウンスがふつと切れた。
その瞬間にがらんどうのコンコースが更に広々として感じられた。しかし、それは無限の散歩場を手に入れたようだった。
鎌滝は真っ直ぐに進み、ポケットの中の析置換装器に触れながら改札を通り抜けた。その一瞬、再び青い光が瞬いた。
景色が置き換えられていく。前後にコンクリートで舗装された車道が伸び、白線は光を伴っていた。その両端を幅広の歩道が陣取っている。並び立つ建築物は直方体が組み合わさったモダンな造りだった。道の全てが歩行者天国といった様子で、行きかう人々が見え始めた。
快晴を表すには赤過ぎる、奇妙な紫の空に覆われたここはもう一つの現実――乖離代替次元である。
「現実世界の裏側だとか現実の残りカスが溜まった場所じゃない、れっきとしたもう一つの現実だな」
昼が社会のゴールデンタイムだとすれば、これからが乖離代替次元のゴールデンタイムである。暇を持て余した若者達が、本来ならば画面の向こうにいるはずの仲間と一緒になって歩いている。情報体ゆえに安全で、かつれっきとした生身である以上、その感情の揺らぎは確かなものだった。しかもそこには種々の動物が加わっていた。1人につき1匹まで、〈繋光の徒〉と呼ばれるそれは、いわば乖離代替次元を共に楽しむ相棒である。
「よぉう。規制とやらも思いの外短かったもんじゃな。お主はもうちっと大人しくしているぐらいが丁度良い悪人じゃろ」
鎌滝の析置換装器から1頭のシャチが現れた。白黒の巨体が宙を泳ぎ、顔を寄せて語り掛けたのである。このよく響く声で年寄めいた口調を扱うシャチこそが、鎌滝の〈繋光の徒〉だった。
シャチが急に顔を寄せても、鎌滝は驚くことはおろか、身を反らせることすらしなかった。相手がどう振る舞おうが、自身の対応は変わらない。
「俺は日頃の行いが良いからな。最近は更に気を付けてる。さっきだって1人だったのに『いただきます』を言ったよ」
「ほぅ? 多少は態度を改めたかのう。しかし、お主の日頃の行いが良ければ、儂がお主を食う隙が今までどれほどあったことか。お主は所謂『ぱーそなるすぺーす』を大事にし過ぎなんじゃよ」
シャチは大きなヒレを振って言った。それすら一つの攻撃のようだったが、鎌滝は気にしなかった。
「俺はむしろテキトーなほうだよ。やけに落ち着かないな、腹でも減ってんのか? スルメならあるぞ」
「おぅ、よこせ」
鎌滝が空中で手を滑らせるとリストが表示された。乖離代替次元での所持金額や購入物、通知等が記録された、いわば1個の鞄である。
鎌滝がスルメのゲソを1本放ると、シャチが全身を躍動させて食らい付いた。満足そうな声を漏らし、キセルのように咥えた。
「旨いのう。あぁ、旨いもんじゃ」
「それは良かった。あんたはスルメを齧ってないと変な格好になり始めるからな。逆立ちしながら隣を泳がれたら気になってしょうがない」
「別にそんなことにはならんわ。儂はギャングだとか言われようとも、決して死神じゃあない」
そう言ってシャチは呵々大笑した。幾人かの通行人が思わず目を向けるほどの大声だった。しかし、鎌滝は誰から注目を集めようが大した問題としなかった。
あっちこっちと顔を向ける〈繋光の徒〉――シャチを率いて、鎌滝アレンは乖離代替次元のメインストリートを歩み始めた。
「ともあれ今日から活動再開だ。とりあえず乖離代替次元の経済を動かしてやらないとな」