1.イデアクラッシュ
――AR
つまるところ拡張現実。それは皆様の生活の質を向上させ、より良い効率を――
そんな文字が手元のイザナミ社パンフレットに踊っていた。
ARデバイスは人知の境界線を曖昧にした。
「赤外線は何色ですか? 2.4ghzの電磁波の色は?」
その答えも、今やこのAR義眼は答えを指し示すのだ。視界に雑多なホログラフィックのディスプレイが映し出され、光の三原色にプラスされた、赤外線色と紫外線色。数多の電磁波だって設定次第では瞳に映すことができる。
あまつさえ、大脳に直結させたセンサーにより、人間がこれまで感じ得られなかった第六感まで手に入れることも。
これらは地球の外からの舶来によってもたらされた。高次の存在からの贈り物。
これによってヒトはより神に近づくことができたとされているが。
「ところで君…… クオリアクラッシュという言葉をしっているかね」
薄暗い講義室に似た室内、教授と呼ばれる人物は私に話しかけた。
「いえ、初めて聞きました」
「じゃあ説明しよう」
教授は講釈をたれ始める。その声色は何処か嬉々としていた。
「最初に、クオリアとはなにかだ。
まずヒトの感覚というものは、その感覚としか言い表せないものだ。たとえば、全盲の人間に『赤色とは何か』説明するのは難しいだろう。その『赤色とは何か』、赤色であるための要素。それがクオリアと考えてくれ。
ほら、君のデバイスは可視光以外の光を感じることができるだろう? その光は赤でも無ければ緑や青でもない。もちろんそれらの色を混ぜて表現することもできない。でも、君はその色を感じることができる。
何が言いたいのかと言うと。君は、赤外線色や紫外線色のクオリアを授かったということだ。そのデバイスによって。
閑話休題。
クオリアクラッシュとは文字通り、クオリアが破壊されることだ。
人が知覚できるクオリアには限界がある。手術で一個人にある一定以上ARセンサを増やすと、それ以上のセンサの感覚を知覚できなくなるのだ。感覚の限界だ。
それだけで済めばいい。ときには、脳の限界を超えた情報が流れ込み、ショック死に似た症状を起こしたり、逆に全てのクオリアを雪だるま式に破壊され、廃人になることだってあるんだ。
つまり、クオリアクラッシュとはクオリアが破壊されること、並びにそれによってもたらされる症状の事を表す。いいな?」
「ええ、わかりました」
「よろしい。では、それを克服するチップが開発されたとしたら?」
「すごいですね」
「そんな無愛想に答えないでくれ。そのチップがあることでヒトは更に神へと近づけるのだぞ? 超感覚を手に入れることができる。ESPだ。フィクションの世界でしかなし得なかったESPER、超感覚者が実在できるんだぞ!」
「エスパーねぇ……」
教授は私に熱弁するが、いまいち何が彼をそこまで興奮させているかわからなかった。
「もし、その超感覚者がここにいるとしたら?」
「もったいぶらないでくださいよ。なんのために私を呼んだんですか?」
「まったく君は愛想がないな。ロマンのかけらも持っていないのか。まあいい。ここにいる彼女が、件の超感覚者だ」
教授は割れ物を扱うように、隅で座っていた少女をこちらに連れた。
「そんなもの何処で拾ってきたんですか」
「とあるルートでね。それ、君には、ある人にこの子を引き渡してほしい。運び屋として」
私は教授を軽蔑の目で蔑んだ。教授は「残念なことにチップは不完成で、この子は感情を失っている」と続ける。
「わかりましたよ。ここに彼女を運べばいいんですね」
「そうだ。くれぐれも気をつけてくれたまえよ」
私は少女によろしくと右手を前に出して握手を求めた。少女はそれをうつろな目で見つめ握手に答える。少女の手はひんやりとして、人工皮膚の下に隠された外骨格インプラントの感触が私の手に伝わる。
「君には期待しているぞ、ゴースト君」
「そのあだ名は好きじゃないのですが、せいぜいご期待に添えるようがんばります」
社交辞令を交わし、私は少女を連れて建物を離れた。その建物の外壁にはイザナミ社のロゴマークが記されている。
私は駐車場の内燃機関自動車の鍵穴にキーを差し込み解錠した。
「オンボロのガソリン車で済まないが、どうぞ」
少女はなれない手付きで助手席のドアを開けると、座席に小さな身を押し込めた。
「シートベルトの使い方はわかる? 旧車だからちょっと特殊で」
私がシートベルトの機構を説明しているとき、ピリリとスマートフォンの着信音が鳴り響いた。
「もしもし、中野です」
「やあ遠藤だ、元気にしていたかい?」
「なんですか遠藤さん。今仕事中です」
「ああ、知っている。それより、早くそこを離れたほうがいいんじゃないかな」
どういう意味と聞き返そうとした時。通話は強制的に切れてしまった。
「スマートフォン…… 珍しい」
ボソリと少女はつぶやく。
「古いものが好きなだけだよ。それじゃあ出発しようか」
キーを刺してセルモーターを回す。電気自動車では味わえない音だ。
「お腹空いていないか?」
「空いてる」
「なにか食べたいものは?」
「何でもいい。それより……」
彼女は窓の外を指差す。
「あそこに怖い幽霊がいる。近づいてきてる。早く逃げて」
「え? 幽霊」
彼女が指す方を見つめるが何も見えない。赤外線サーモに反応もなければ不可解な電磁波も認められなかった。
「見えないけど」
今は科学の時代だ。幽霊の存在はオカルトに成り果てて殆どの者が信じていないというのに、少女の発言が妙に引っかかった。
「いるの。本当に。早く逃げて」
少女は不可視の存在に怯えて、発進を急かした。私は教授の超感覚の話を思い出す。超感覚者にしか見えない何かがいるのだろうか。それとも、未熟な少女の心が見せる心因性の幻影か。
これ以上少女を不安にさせるのも良くないだろう。私はクラッチを一速に繋いで、駐車場を後にした。
「君、名前は?」
「ハル」
「そう、私は中野。気軽に呼んで」
信号待ちの間、他愛もない話を交わすが、どうも会話が続かなかった。あまり、彼女のことを根掘り葉掘り聞くのも仕事としてよろしくないだろう。私は退屈しのぎにラジオのスイッチをつけて、ニュースの流し聞きを始めた。
少女も退屈そうに、窓の外の灰色の景色を眺めている。
「中野」
「どうした?」
「そこの交差点。幽霊がいる。曲がって」
少女は次の交差点を指し示し、また幽霊の存在を説明する。あいも変わらず、私のAR義眼にはなんてこともない交差点が映るだけだが。
私は少女を安心させるために、左折のウィンカーを点灯させ、曲がる。そして次の信号を待っていると、金属がひしゃげる衝撃音が外から響いた。
「衝突事故……? 今時珍しいな」
最近の自動車は危機判断プロトコルが搭載され、滅多なことでは事故を起こさないというのに。
私は目の前の信号が青に変わると右折し、先程の道から一本左の通りを進んだ。ちらっと、少女が忌避した一本右の交差点へ目を向けると、トラックが何かにぶつかって大破している様子が見える。同時に、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
「ハル。そのさっき見えた幽霊ってどんな形をしていた?」
私は事故を事前に回避させた少女に訪ねた。
「幽霊は形とかじゃない」
「じゃあハルが見える幽霊って、どういったものなの?」
「幽霊は幽霊。説明できない。ごめんなさい」
少女は困惑した様子で顔を背けた。説明できなもの。私は教授の「赤色とは何か」の話をもう一度反芻して内容を思い返した。
「幽霊のクオリア…… ね」