結婚してんの?
このは
一年とちょっと前。東京駅に着いたとき、兄は親の言いつけ通りわたしのことを待っていた。
「子供じゃないんだから、ほっておいたっていいのに」
「妹のために仕事をおいてでてきてやったのに、その言いぐさはなんだ」
「銀行員ってそんな忙しいの?」
兄はため息をつく。
「忙しくない仕事なんて仕事じゃない」
「うわー」
「なんだよ。その食品にかびが生えてるのを見たときみたいな反応は」
「……」
なんかもうどうでもいいわ、この人。2人で吉祥寺の駅に着く。
「野中さん、久しぶり。今日は迷わず来られた?」
澤田さんの笑顔を見て、兄が凍りつき、澤田さんは兄を見てきょとんとした。うん、ごめん。忘れてた。澤田さんが今日来るって説明するの。
「どなた?」
「えーっと、兄です。お兄ちゃん、会社の人でお世話になっている澤田さん」
「こんにちは。どうも。澤田です。妹さんと同じ系列の会社で、出版の方にいます」
澤田さんがいつものようなそつない物腰で挨拶をして手を出す。兄は……、まだ凍りついている。おい、どうした、銀行員。お前法人営業だろう?
「お兄ちゃん」
ちょっとどつくと、
「どうも、兄の野中将臣です」
やっと、手を握り返した。そして、三人で移動して、部屋を見て家賃の金額を聞いて、兄は一気に機嫌が悪くなった。
「どうする?これから買い物とか必要でしょ?すぐに生活で使う物とか?」
わたしが答えようとする前に兄が代わりに答えてしまった。
「あ、後はもうこちらでどうにかしますんで。お休みの日にわざわざすみませんでした」
深々と頭を下げると、澤田さんを帰してしまった。
「ちょっと!普通はお茶とか夕飯とか、なんかお礼してから帰すでしょう?」
しまったという顔を兄がする。
「もう、信じらんない。会社では部門は違うけど、全然上の人なんだよ!」
だから来ないでいいっていったのに。
「あの人、何歳?」
「ええっと30代後半、だと思う」
「結婚してんの?」
「え?なんでそんなこと聞くの?」
兄は怒った顔をしている。
「お前はほんと世間知らずだな。男が女に必要以上に親切にするときはね、下心があるんだよ」
「え?そんなんじゃないって」
「とにかく、結婚してんのか?今の人」
実はちゃんと確認したことないけど、だから知らないんだけど、
「してない(と思う)」
兄はため息をついた。
「でも、年なんか一回り以上上じゃん」
「ねぇ、だからそういうのじゃないんだって」
「じゃ、どういうのだよ?」
澤田さんは火野先生のことがあるから、わたしに興味があるだけなんだよと言えば、でも、状況がもっと悪くなる。
「……」
「お前にその気がないんだったら、きりのいいところで引っ越ししろ」
「え~!」
それは角がたつなぁ。一旦受けちゃってるし。それに向こうはその気がないのに、こっちばっかり意識しているような気も……。とりあえずその話はおいといて、買い物に出る。洗濯用のハンガー、洗剤、タオル、シーツ、枕、そうじき、とにかくいろいろ。
「疲れた」
荷物が重い。
「お前が先に言うなよ」
「お兄ちゃんがいてよかった」
「ふん」
あれ?まだ機嫌悪いの?
「俺がいなかったら、絶対あいつが喜んで手伝ったって」
「……」
まだその話が続くのか。トゥルルルル、電話がなった。荷物を持ってちゃ携帯出せない。一旦ビニール袋を路上に置く。
「はい」
「野中さん?」
澤田さんだった。タイミング悪いです。澤田さん。
「はい」
「買い物とか、一通り済んだ?」
「はい。今、荷物おきに帰るところです」
「あのね、今、火野先生と一緒にいてさ。夜、一緒にご飯食べようって言ってるんだけど」
「はい」
「引っ越し祝いしてあげるからさ、野中さんも来ない?」
「あ、えーと」
わたしはちらりとお兄ちゃんを見る。難しい顔して立ってる。
「すみません。あの、兄が一緒なので……」
「お兄さんもくればいいじゃない」
断りづらい。なんか、澤田さんって。ちらりと兄を見る。こっちは誘いづらいわ。
「すみません。とりあえず荷物置いて、兄と相談してからまたお電話します」
ぷつ。日本人の美徳、一旦受け止めてから断る。つーつー。速攻で断らずべし、角が立つ。
「さっきのやつだろ?」
よいしょっと、返事をせずに荷物をもう一度持って歩き出す。
「どうせ、一緒にめしくおうとか言われたんだろ?」
「お兄ちゃんと今日は2人で食べるって断るよ」
「別に断んなくていいよ」
えっ?振り返って兄を見る。
「俺も一緒に行って品定めしてやる」
え~!もっとめんどくさいことになっちゃったじゃん。
***
「へぇ~。じゃあ大学からこっちなんだ。それで都銀なんだね。すごいね」
「いや、まぁ、どうも」
澤田さんって……。やっぱりそつがない。年下のお兄ちゃんなんか簡単にあしらわれている。今日は野中さんの引っ越し祝いだから、若い女の子が好きそうなお店にしようって、澤田さんがタイ料理のお店に決めちゃった。火野先生とタイ料理のイメージが合わない。
「先生」
「何?」
この人機嫌がいいのか悪いのか、ぱっと見わからないわ。
「あの、タイ料理とかで大丈夫でした?」
先生はじっとわたしを見た。
「嫌いじゃない」
言葉少なっ。小説の中ではみんなぺらぺら話すのに。
「でも、パクチーはだめなんですね」
ひとつひとつ丁寧によけている。
「こんなの好きなやついるの?」
「わたしは好きです」
先生はもういちど、じっとわたしを見た。
「変わった人だ」
もう一回言われちゃったな、これ。ん?ふと横を見ると兄と目があった。
「何?お兄ちゃん」
「いや、何でもない」
「まぁまぁ、お兄さん」
澤田さんが、兄にビールついでる。
「あの部屋は、いい借り手がなかなか見つからなくって困ってたんですよ。お子さんのいる家族に貸すと、お子さんがあちこち壊すでしょ?」
「ええ」
兄は完全に、澤田さんに丸め込まれていると思う。
「でも、従来の家賃だと、やっぱり家族づれの希望者が多くてね」
「はぁ」
なんか、これでもううるさく言われないですみそう。ほんと、口うまいな。澤田さん。
「なんで」
ふいに先生に話しかけられた。わたしは横の2人に流していた視線を戻した。
「髪切ったの?」
ちょっとふいをつかれた。だって、この人話さないし。わたしになんて興味なさそうなのに……。そうでもないみたい。
「気分をかえたくて」
先生はもう少し何か言いたそうにして、そして、やめた。
「そうか」
そしてちょっとだけ心配そうな顔をした。そしてまた普段の無表情に戻った。
***
兄が今日は部屋に泊まるといってきかないので、駅へ行く澤田さんと分かれて、3人で途中まで歩いた。
「じゃあ、ここで」
先生のマンションの前で、先生はそう言った。
「おやすみなさい」
ぺこりとおじぎをすると、先生は少しだけ笑って軽く会釈して、マンションの中に消えてった。
「いい所、住んでるな」
「まぁ、それなりに売れてる作家だからね」
兄はビジネス書とかハウツー本とかしか読まない。小説は読んでもミステリー。だから火野先生の名前は知るところではない。
「おい」
「何?」
「この先生は結婚してんのか?」
なんだか今日はもううんざり。本心では。
「奥さんいるよ」
「ふうん」
兄はしばらく黙って歩いた後、唐突に言った。
「不倫とかそういうのだけはやめてくれよ」
「な、なに言ってんの?お兄ちゃん。ないない」
兄は街灯の下でわたしをじっと見た。昔ながらのお兄ちゃん。お調子者で、クラスの人気者。でも今日はふざけていない。
「じゃ、帰る」
「え?泊まるんじゃなかったの?」
「俺が泊まるっていわなきゃ、どっちかがついてきそうだったからさ」
「ど、どっちかって……」
もう、考えすぎだよ、お兄ちゃん。
「なぁ、このは。お前自分で自分のことどう思ってるかわかんないけど、あんまり世の中のことっていうか、男のことわかってないと思うよ。恋愛ってね、相手を間違えるととっても痛いものだよ。ぼろぼろになるんだ」
驚いた。お兄ちゃんがわたしにこんな話するなんて。
「一回りも上の男の人たちは、お兄ちゃんはちょっといい顔できないな。かっちゃんとまでは言わないけど、もし次の恋愛をするなら、自分と同じ世界にいるこのはにもっとあった男としてほしいな」
じゃあといって兄は帰っていった。わたしと同じ世界にいるわたしにもっとあった男。つまりお兄ちゃんは、火野先生は同じ世界にいる人ではないって思ってるってことだ。