ラブイエローリーブス(4)
朝になって、オレは朝食を三人分、用意した。
食材は充分にあった。毎日、買い物に行くのも馬鹿らしいから、まとめて買ってあったからだ。メニューは変わらない。フランスパンのトーストにオレンジ、サラダにベーコン・・・。
「今日は何処から探すんです?圭吾さん」
そう言ったのは市岡だった。
「そうだな、三階の物置きからかな」
涼子は、サラダを自分の皿によそい、おいしそうにレタスだけを食べていた。偏食は良く無いぞ、涼子。
「春奈さん」
涼子は、きっとオレを見てから言った。
「なんですか?」
「サカモトさんは、殺されたんです」
オレは、ベーコンをフォークで突き刺し損ねた。
「何?」
「サカモトさんは自殺したんじゃない」
「何故そんなことが言えるの?」
市岡も驚いたようだった。
「昨日の夜、圭吾がサカモトさんの遺書を持ってきました。それで、分かったんです。あの遺書には、サカモトさんの意識が残っていなかった」
「どういうことだ、涼子」
「じゃあ、誰が・・・」
オレが言うのと、市岡が言うのと同時だった。
「自殺じゃないとすれば、誰かに殺された、ということになります。でも、あの遺書はパソコンから出力されたものです。そこまではっきりした意識は現われない」
「じゃあ、本人かもしれないだろ?」
オレが言うと、涼子は首を振った。
「それは違う。最後に手書きで記されたサインがあるわ。あれは、サカモトさんのものじゃない」
「見た感じは違わない、と思うけど・・・」
市岡が言うと、涼子は、また首を振った。
「違います。それだけははっきりと分かるわ」
「じゃあ、誰が・・・」
涼子は、肩を落とした。
「それは、そのうちわかる、と思うわ」
三階の捜索は無駄に終わった。
オレと涼子の二人で捜索を始め、途中で市岡も加わった。彼女は、東京にいる家族に連絡をしてくる、と言って遅れてきたのだ。
しかし、そこにはガラクタばかりが積み上げられていて、最近、誰かが入った形跡も無かった。ちょっと興味を覚えたのは、蜘蛛の巣だらけの家具の奥から出てきた日記で、その日付は大正だった。そして、そこに書かれていたことと言えば、この建物で殺人があったということ。
「じゃあ、もともとの持ち主は殺されていたのね?」
市岡が言い、オレは「そうだ」と言った。
「もとの持ち主は、山路とかいう公爵で、愛人によって刺殺されている。この日記は、未亡人によって書かれたものだよ」
涼子が、オレの後ろから日記を覗き込んだ。
「歴史は繰り返すわけね」
三人で昼食を取っていた時、市岡が、こう言い出した。
「ねえ、遺書なんだけど」
オレは、グレープフルーツジュースを飲みながら、目で返事した。
「パソコンにデータが残っていると思うのよ」
「そうかもしれないな」
「あるって考えたほうが自然よ」
「そうかな?」
「自殺したにしろ、自殺に見せかけたにしろ、データが残っていないほうが不自然だと思うわ」
「なるほど。それで?」
「それを見てみない?」
「なんのために?」
涼子は、黙ってオレ達の会話を聞いていた。市岡がオレを見て言った。
「それは分からないわ。でも、何か分かるかもしれない。本当は遺書じゃないのかもしれないし」
オレは、腕を組んで考えた。
「そうかもしれないな。これが殺人だったとしたら、サカモトさんは遺書を書いたはずがない。誰かが書いたか、もしくは、何か、そう例えば日記から抜き出したのかもしれないな」
「でしょう?それを調べなきゃ」
「言えている」
ちらっと涼子を見たが、彼女はじっと黙ってオレを見返した。
オレは、東京に電話していた。
「篠原社長を」
そう言ったオレが持つ受話器の向こうで、若い女性が「お待ちください」と言ってベートーベンを流す。ベートーまでが名字でベンからが名前だっけ、と考えて、名前は「ルートビッヒ」だと思い出した。
「もしもし?」
「あ、篠原さんですか?お世話になっています、桜井です」
「ああ、きみか。発見したのかね?」
「いえ、まだですが、涼子は今夜、全てが明らかになると言っています」
「ほう、それは楽しみだ」
「ただし、一つ条件があります」
「条件?」
「ええ。篠原社長にお越し願わないといけないのです」
「何故だ?私は忙しいのだがね」
「もちろん承知しています。ですが、来られないとなると、今夜のチャンスは永久に失われるかもしれない、と涼子が申しております」
「なんでまた?」
「サカモトの霊も永久にこの世に留まるつもりはない、と言っているからです」
相手は、電話の向こうでしばらくの間、考えていたようだった。
「わかった。仕事が片付き次第、行くことにする。少し遅くなるが待っていて欲しい」
街に出て、三人で夕食をとった。
オレが作る料理はレパートリーが少なくて、涼子が飽きたからだ。中華料理店に入って、涼子は天津飯を、オレは五目ラーメンを、市岡は・・・。忘れた。まあ、いいじゃないか。他人が何を食おうと。
とにかく、オレのプレリュードに三人乗って出かけた。後部座席で涼子がはしゃいでいた。
「ねえ、ここから空が見えるのよ」
プレリュードのリアウインドーは傾斜がきついから、シートの真上はガラスなのだ。
「すごいすごい。天の川が見える」
もっとも、昼間は暑くて後ろに乗る人間は必ず日射病になるが。
夕食から戻る頃には、すっかり日が暮れて、森の中は不気味に静まり返っていた。車のオーディオからはビリー・ジョエルが流れている。
「懐かしいわね、これ」
助手席で市岡が言った。
「そうでしょう?十四曲目が最高なんですよ」
しかし、楽しいドライブもそこまでだった。突然、CDが止まった。
「あれ?」
「圭吾、壊れたんじゃない?それ」
「いや、そんなはずは・・・」
「古い車だから・・・」
「そりゃあ、十六万キロ分使いこんでるけどさ」
屋敷に到着すると、事態はもっと深刻だった。
「門柱の明りが消えているわ」
市岡が声を震わせた。
「また、ブレーカーかな」
「違うわね、圭吾。歓迎されていないのよ、わたし達」
暗闇の中をプレリュードが滑るように走り、オレは車寄せに止めた。篠原は、まだ来ていないようだった。
「涼子、アストラル体の抜け殻は悪さはしないんじゃなかったか?」
涼子は、首を振った。
「抜け殻になっていない魂もいるのよ」
玄関の鍵を開けた。中も、電灯は消えたままだった。
「とにかく、ブレーカーだな」
オレは車から持って来たライトのスイッチを入れた。その途端、その小さな電球が弾けた。市岡が、小さな悲鳴を上げた。それが、今夜の悲鳴の一番最初のものになった。
とにかく手探りでブレーカーを元に戻していると、表で車の止まる音がした。
近代の明りが復活したところで、玄関に向かえに出た。
「ようこそ。遠くまですみませんでした」
銀色のメルセデス・ベンツが駐車しているのが見えた。Eクラスのセダンだった。
「高速道路を飛ばして来たよ。明日の午前中には帰らないといけないからな」
「それは、お疲れさまでした」
「いや、それはいいんだが、どうやら天気が心配だよ。ラジオでは大雨になるといっていた」
そこにいた全員が、ぴりぴりと緊張していた。
食堂の大きなテーブルを囲み、その十五脚の椅子にバラバラ散らばって座っていた。そのころには、カーテンを降ろした窓ガラスに大粒の雨が叩き付けていた。
「じゃあ、まずは圭吾から」
涼子は、前触れもなく言った。
「なに?オレか?」
てっきり涼子が、その理解できない力とやらで謎解きをするものだと思っていた。その思いは、篠原にとっても同じだったようだ。
「黒崎君。君が教えてくれるものだと思っていたが」
ちらっと、市岡に目を遣りながら篠原は言った。二人は、顔を合わせた時から傍から見ていても分かるほどお互いに敵意を剥き出しにしていた。
「だいたい、市岡君がいるとは聞いていなかったが?」
オレは、仕方なく立ち上がった。
「それでは、いくつか分かったことをお話しします」
涼子は、静かに座っていた。これから話すことは、涼子にだけ話してあった。市岡も篠原も知らないいくつかの事実。
「まずは、サカモトさんが自殺ではなく殺されたということです」
こういうの、何処かで見たことがある。照明の暗い古びた洋館の一室で、探偵が立ち上がり謎解きを始める。あ、そうか。NHKのシャーロック・ホームズだ。オレは、そこにいた三人をゆっくりと見渡した。市岡と篠原は驚いたように口を開けていた。ただ涼子だけはいつもの表情のまま静かに座っていた。
「まずは、あの日の状況を再現してみましょう」
「ちょっと待て」
篠原が立ち上がった。
「それは黒崎君の霊視で分かったことか?それとも君の推理か?」
「僕の推理ですよ、篠原さん」
オレは、笑みを浮かべて言った。お手本はホームズ先生だ。
「あの日、市岡さんをサカモトさんが車で駅まで送って行ったあと、篠原さん、あなたがここへやって来た」
「おい、何を証拠に言い出すんだ?」
オレは、市岡を見遣った。
「目撃者がいます」
市岡が口を開いた。
「ええ。わたしは社長のベンツを見ました」
「何処で?」
篠原が強い口調で言った。
「駅です」
「私は、あの日、そんなところへ行かなかった」
「では、何処へ行っていたのですか?」
オレは篠原を見据えた。篠原は答えなかった。
「篠原さん、あなたは、ここへやってきた。そしてサカモトさんと口論になり、首を絞めて殺した。具体的な行動はわかりませんが。それから自殺に見せかけた」
篠原が叫んだ。
「私じゃない」
オレは思わず吹き出しそうになった。二流の探偵ドラマだよ、それじゃあ。
「証拠があるんですよ、篠原さん」
「証拠だと?」
オレはポケットからサカモトの遺書を取り出した。
「これは、あの部屋のジャケットから取り出した遺書です」
「それがどうした。私も見たが、それには彼の言い訳しか書いてなかったはずだ」
オレは頷いた。
「その通りです。しかし、もう一つある」
オレは、もう片方のポケットから数枚の紙を取り出した。
「こっちは、今日の午後、パソコンからプリントアウトしたものです。同じもののはずですが、一行だけ違っています」
「何?」
篠原は、つかみ掛からんばかりにオレの手から紙を奪い取った。
「何処だ?」
「二枚目の真ん中辺りです」
がさがさという紙の音が、激しく窓に当たる雨音とシンクロした。
「ジャケットに入っていた方には、『こんな良く晴れた午後は、死ぬのに良い日だ。』と書かれています」
「ああ、そうだな」
「ところが、新たにプリントアウトした方には、『今日は死ぬのに良い夜だ。』とあります」
「それがどうした?」
「彼が死んだのは昼間です」
「そうかね?夜になったら死のうと思っていたのかも知れないだろう?」
「それに、もう一つ。三枚目に雨の音のことが書かれています」
「だから、いったいなんだというんだ?」
「あの日、雨は降っていなかった。そして、前日は雨だった。そうですよね、市岡さん」
「ええ。しとしとと雨が降っていた」
オレは、軽く頷いてみせた。
「これで、わかったでしょう。その文章は前日の夜に書かれた物です。パソコンを調べてみると、彼が毎晩、日記を綴っていたことがわかりました。ところが、前日の分だけは無く、そのかわりにデスクトップに遺書があった」
篠原は、まだ二通のプリントアウトを見比べていた。
「篠原さんは、サカモトさんを殺した後、パソコンで遺書を作成しようとした。そこで、前日の日記を見つけ、それを書き直して遺書に見せかけた。雨音のところは、見逃したのでしょう」
篠原が顔を上げた。
「馬鹿らしい。なんの証拠にもならんじゃないか」
「しかし、自殺で無いことは、もはや明白です」
「いいだろう。自殺ではないとしよう。だが、何故わたしが彼を殺さねばならんのだ?」
オレは、微笑んで篠原を見下ろした。
「それは、あなたがサカモトさんへの融資を断わったからです。この建物さえ抵当権は篠原さんの手に渡っている。もはやサカモトさんには金策する充ても無かった」
唖然として篠原がオレを見上げた。
「それなら、サカモトが私を殺すべきじゃないかね?」
オレは頷いた。
「そうかもしれません。逆上してつかみ掛かったのはサカモトさんの方だったかも。しかし、結果はサカモトさんが殺された。オレが見る限り、サカモトさんよりもあなたの方が力もありそうだ」
篠原は頷いた。まったく落ち着いていた。オレは少々不安になってきた。
「なるほど。筋は通っているように聞こえるな」
そう言うと、涼子の方へ目を移した。
「黒崎君はどう思っているんだ?まさか、同じ意見ではないだろうな?」
おいおい、推理をしたのはオレだぜ?ところが、涼子は意外なことを言い出した。
「もちろん、違います」
涼子は微笑んでいた。場違いなほど純粋な微笑みだった。そっと目をそらした。
「篠原さんは、あの人の死体を見つけただけですから」
「なに?」
オレは涼子を振り返った。
「そうよ、圭吾。遺書は他人が手を加えたものだわ。そして、たぶん、パソコンに残っていた方もよ」
「意味が分からないぞ、涼子」
「あの部屋に行きましょう。全てはあの部屋から始まったのだから」
パソコンが起動して、マックOSのタイトルが消えると、デスクトップにファイルが現われた。
「圭吾。これ、最終修正日を見るにはどうすればいいの?」
「アイコンを選択しておいて、情報を見るっていうのを・・・」
「ほら、見て」
作成日と修正日が表示された。
「なにか、おかしいか?」
「作成日と修正日が同じでしょ?」
「だから?」
「時刻を見て。修正日の方が一時間だけ遅くなっているわ」
「不思議なんかないだろう?」
「いいえ。不思議なのよ。これはタイトルも変更されているし、日付はサカモトさんが殺された当日の午後だわ。おそらく、新しい書類として保存されたはず。ということは、修正日と作成日はまったく同じ時間じゃないとおかしいでしょ?」
「だから、修正して二度出力したのかもしれないじゃないか」
オレはいらいらして言った。篠原と市岡は、じっとオレ達のやりとりを聞いていた。
「修正したのかもしれないわ。でも、保存はされていなかったはずでしょう?圭吾の言う通りなら」
「そうだな」
「じゃあ、やっぱり作成日と修正日は同じじゃないと」
「つまり、サカモトを殺したあと、誰かが一時間後にやってきて書類を書き換えた?」
涼子は首を振った。
「それも外れね。たぶん、これをやった人は、マックの時刻を変更しておいてから書類を修正したんだわ。コンピューターに詳しい人なのよ、たぶん」
「ということは、いつ修正したかなんか分からないってことか?」
涼子は頷いた。
「でも、誰かが故意に書き換えたことは間違いないわ」
「そうでなきゃ、誰かが遺書そのものもでっちあげたか」
オレはパソコンのモニターから目を上げた。篠原は、興味深げにモニターを見つめている。市岡は、じっと涼子の背中を見つめていた。
「じゃあ、誰が犯人なんだ?」
オレはつぶやいた。
「これを書き直せる時間のあった人ね。そして、あの日、ここへ来た人」
オレは篠原を見た。
「やっぱり犯人は篠原さんってことか?」
涼子は、パソコンの電源を落とした。
「もう一人、いるでしょ?」
オレは、じっと涼子の背中を見つめる市岡を振り返った。
「まさか」
「圭吾。市岡さんは、朝にわたし達が三階で捜索をしている間に修正日をかえる時間があったはずよ。この部屋の鍵は、圭吾の部屋に置いてあった。彼女が使おうと思えば出来たわ」
「だが、証拠は無いぞ」
市岡は、じっと黙っていた。その視線は、じっと涼子にそそがれている。気味が悪かった。
「無いわ」
涼子は、そっと言った。部屋全体に静寂が広がっていった。静かだった。物音一つしない。
「あれ?」
オレは、思わずつぶやいた。雨音がしないのは何故だ?
「どうしたんだ?」
篠原がオレに言った途端、部屋の照明が音を立てて点滅し始めた。
「まずいわ、圭吾。霊が騒ぎ始めた」
冗談じゃないぜ。そんなものどうするんだ?
開け放してあったドアが突然閉まった。それと同時に照明が落ちて真っ暗になった。
「みんな集まって。わたしから離れないで」
オレは、情け無さを感じつつ、涼子の腕にしがみついた。すぐ近くに、篠原の息遣いも聞こえた。震えているように思えた。それで、少しだけ気が楽になった。
「春奈さん。何処?こっちへ来て」
涼子は、暗闇に向かって叫んだ。まったく何も見えなかった。雨音がひどく大きく聞こえていた。
「春奈さん」
「市岡さん」
オレも彼女を呼んだ。
「春奈さん」
絶叫するような涼子の声に混じって、せせら笑うような声が聞こえた。
「なんだ、これは」
つぶやいた篠原の声は、今にも消え入りそうなほど小さかった。雨音は、いつの間にか人々の、いや、得体の知れないやつらのざわめいたささやき声にかわっていた。
「春奈さん」
雷が光り、一瞬だけ部屋の中が照らし出された。そこは、さっきまでの景色ではなかった。あるはずの無い本棚のガラスに、窓からの稲光が反射した。壁には、どす黒い染みが広がっていた。そして、市岡は、一人、部屋の真ん中に立っていた。
「圭吾。彼女を連れて来て」
オレは、ちょっとだけ迷ったが、涼子の腕を離し、暗闇に戻った部屋の中をそっと歩き始めた。だいたいの物の位置は把握したつもりだった。
「市岡さん。何処にいるんですか?」
何かにつまづいた。再び稲光で部屋が照らし出された。足元には、見知らぬ老人が横たわっていた。
「なんだよ、これは」
幻覚だ、幻覚だ、とオレは自分に言い聞かせていた。幻覚に決まっている。
手探りのまま、そのあるはずのない死体を乗り越えて先に進んだ。右手の先に、服が触れて、オレはそれを掴んだ。
「市岡さん、こっちへ」
そう言いながら、オレはそれを引っぱった。ところが、そいつは、揺れるように動いて、再び元の場所に戻ろうとした。
「市岡さん?」
オレは、それが妙に背が高いってことに気が付いていた。まずい、これは首吊り死体だ。
「圭吾、それじゃない。右よ」
涼子の声に、オレは勢い良く手を離し、右に手を伸ばした。ちゃんとした、人間の感触が手に伝わった。
「圭吾。胸じゃなくて手を掴みなさい」
そんなこと言っている場合か?とにかく、腕を掴んでオレは彼女を引き寄せた。その途端、音が止んだ。静寂が広がり、急に寒気がした。ぼうっと、天井からぶら下がった男が見えた。
「リョウ・・・」
オレが掴んでいた女がつぶやいた。サカモトさん、というわけか、この死体が。
死体は、ゆっくりと回転していて、徐々にこっちに向かって顔を向けつつあった。見たく無い、とオレは思ったが、目を閉じることは出来なかった。
「春奈・・・」
死体は、唸るようにそう言った。なんなんだよ、これは。
「春奈・・・」
再び、そうつぶやくと、死体は完全にこっちを向いた。首から下は、完全に死体なのに、その顔だけが、妙に生きている表情をしていて、そして、優しい顔で微笑みかけていた。
「圭吾。春奈さんの腕を離さないで。この場の支配霊はサカモトさんじゃないわ」
「なんのことだ」
オレは涼子に叫んだ。
「サカモトさんが殺されたのも、元はといえば、この人のせいだったのよ。最初にこの建物で殺された華族の老人。いつまでも高次の世界へ旅立たずに現世にしがみつこうとしているの。次々に同じような霊を引っぱりこんでいるの」
「何を言っている?」
「春奈さんまで連れていかれてしまうわ。絶対に腕を離さないで」
「リョウ・・・」
その時、市岡がオレの腕の先でつぶやいた。天井からぶら下がったままのサカモトが、市岡をじっと優しく見つめていた。
「ずっと一緒にいてくれ」
サカモトがつぶやいた。
「リョウ・・・」
そう言うと、市岡はオレの手を振り解こうと腕を振った。
「駄目だ、市岡さん」
「そうよ、春奈さん。それはサカモトさんじゃない。ここで、ずっと前に死んだ華族の老人が見せているだけだわ」
「でも・・・」
「サカモトさんの霊体はこの部屋に閉じ込められているわ。でも、それは春奈さん、あなた自身が解放してあげないといけないわ」
そう言うと、暗闇の中で、ふっと穏やかに光がさした。その光は涼子の後ろから輝いているように見えた。
「春奈さん」
そう、声をかけると涼子は、市岡のもう一方の手を取り、サカモトの首吊り死体の亡霊の前に立った。ぶつぶつと、何やら口走り、そして最後に「レ・オラーム・アーメン」と唱えた。なんのことやらわからなかったが。
「さあ、春奈さん。サカモトさんに呼びかけてあげて。彼は見捨てられたと思っている。このままでは彼の魂は解放されることはない。彼の命を奪ったあなたが、彼の魂を救わないといけないわ」
「そんな」
「呼びかけて」
涼子が、そう言った途端、真っ黒な霧がたちこめ、あたりは暗闇に支配された。オレは気が遠くなっていくのを感じていた。
「春奈さん。あなたが殺したのね」
涼子がつぶやいた。市岡は震えていた。
「認めて、春奈さん。デザインスケッチもあなたが隠しているんでしょ?」
市岡は震えたまま首を振る。
「認めなさい、春奈さん。そうしなければ、サカモトさんは永遠に救われないわ」
「そんな・・・」
「春奈さん」
涼子は、温かみのある声で言った。
「この場所は呪われているわ。でも、実際に手を下したのはあなたなの。その責任は負わなくちゃいけない」
暗闇はますます広がり、辺りの空気は冷たく、オレは凍えそうだった。
「そう、わたしがやったの・・・」
市岡は、そうっとつぶやいた。空気はますます冷たくなって、オレはついに何も聞こえなくなった。最後に、ふと、涼子の口元が笑っている、そう見えた。
気が付くと、オレは涼子の膝の上で寝ていた。
「いったい、何がどうなったんだ?」
オレは、目が合った涼子を見上げて言った。
「大丈夫よ、もう終わったわ。たぶん、あの人は、もう出て来ないわ」
「そうか。そいつはよかった」
「圭吾もだらしないんだから。気絶したの、圭吾だけよ」
オレは、ため息をついて起き上がった。
「仕方無いだろう。あんな不気味なもの、初めて見たぜ」
涼子は、さびしく微笑んでオレを見た。
「わたしはいつものことだわ」
オレは、涼子から目をそらした。
「市岡さんは?」
「大丈夫。隣の部屋にいるわ。篠原さんと一緒」
「そうか」
「彼女、篠原さんにデザイン画を渡すと約束したわ」
「デザイン画?」
「そうよ。持っていたのは彼女」
オレは、意味が分からなくて目をしばたかせた。
「彼女は、サカモトさんを殺した。圭吾は知らなかったでしょうけど、あの人、東京に家族がいるの。旦那さんがね」
「なんだって?」
「旦那さん」
いや、そうじゃなくて。
「不倫だったの。あの日、別れ話をしにやってきたの。でも、サカモトは断わった。それで彼女はサカモトさんを殺してしまったの」
なるほど、オレはつまり、三流探偵ってことか。霊能者には勝てないってわけ?
「警察を呼ばないといけないな、涼子」
オレは、ほんのちょっぴり残った冷静さを総動員して、そう言った。
涼子は、首を振った。
「サカモトさんは、そんなことを望んでいなかったわ。圭吾が気絶した後、彼は春奈さんに言ったの。幸せになってくれって」
「だからってな・・・」
「いいじゃない。彼女を警察に突き出したってなんの解決にもならないわ。警察は、自殺ってことで解決しているんだし。彼女、きっとサカモトさんの供養をしてくれるわよ」
そういう問題じゃ無くてなあ・・・。
「春奈さんの自白も引き出せたし、デザイン画も見つかったし、これで全部解決ね」
いや、だから、そうじゃなくて。
「これでいいのよ。サカモトさん、彼の思う通りになったって喜んでいるわ」
「なんのことだよ?」
「これで、彼はずっと春奈さんのそばにいられるのよ」
そう言って、涼子は立ち上がった。
「サカモトさんはね、ずっと春奈さんのそばにいるわ」
そっとベッドの上の雑誌を取り上げる。
「ねえ、休みはまだ四日もあるわ。次は何処に行く?」
彼女は「るるぶ」を持って、オレに微笑みかけた。オレはまじまじと涼子を見つめ返した。
オレは、ふっと息を吐いた。
「まあ、いいか。もう、この屋敷にいるのはごめんだしな。警察のことは篠原がやるだろう」
そう言うと、そっと立ち上がろうとした。足元がふらついた。
「大丈夫?圭吾」
オレは椅子に寄りかかるようにして立ち上がった。
「なんとかな」
涼子は微笑んだ。
「そう。よかった。じゃあ、明日はお土産を買いに行かなくちゃ」
そういうと、オレを支えたまま歩き出す。オレは、あきれて手を引かれるまま涼子について歩いた。ご機嫌な様子だった。あんな事の後だっていうのに。
あれは一体なんだったのだろう。いつの間にか、雨は止み、窓の外には星が出ていた。
「なあ、涼子」
オレは、二階のあてがわれた部屋に入るところで声をかけた。
「なあに、圭吾」
涼子は微笑んで振り向いた。
「あれはなんだったんだ?」
涼子は、意味深く微笑んだ。
「幽霊よ」
オレは首を振った。
「いや、幽霊なんて存在しないんだ」
涼子はオレを部屋の真ん中へ導いた。
「そうだったのかもしれないわね、圭吾」
そう意味ありげに言うと、涼子はオレに振り返った。
「でもわたしは、それを見せてあげることが出来るのよ」
そう、つぶやくと、涼子はにっこりと微笑んだ。