ブラッディーレッドドレス(3)
翌日は鈴原の近所での聞き込みをして、やつの出身校の同級生を探し出した。中学の頃の同級生で、これまた女性だった。昼間だったから。
彼女は、専業主婦だった。二十二で。
オレなんか、もうすぐ三十だというのに。あまり関係無いか。
彼女の話は長かったから、いちいち書かないことにする。うんざりするよ、あんたも聞いたら。そういうのは、オレだけで充分だ。
彼女の家庭のことなんか、どうでもいいだろう。近所のスーパーの評判もどうでもいい。まあ、うまいラーメン屋の情報についてだけは、興味を覚えたが。
招来軒という、ひねりの無い名前の店だったが、特にタンタン麺がうまいという。今度、近くに来たときには、涼子と行ってみよう。
話がずれた。元に戻す。
鈴原は、中学では割とモテていた。見た目は悪くなかったから、それもありえる話か。気分的には受け入れ難いが。ただ、誰かと付き合っている、という話には覚えが無いという。
やつは、ちょっと危ないやつで、高校の時には、原付で事故を起こしている。彼女も人づてに聞いた話だから、実際のところ、どんな事故かは分からないが、総合して考えてみると、なんとなくイメージは湧いてきた。彼女の口ぶりなんかもトータルしてのことだ。
髪の毛は、少し脱色していた。仲間と集まって夜の冒険に出かけたり、適度に悪さもした。中学での成績は中の下というところで、時々、学校をさぼっていた。ただ、一人で何かを考えこんでいることもあり、そこがミステリアスだと思われたりして、何人かの女子に声をかけられたが、そのどれも断わった。時折、たいした理由もなく喧嘩をしていた。硬派だ、といえば聞こえがいいが、人付き合いが苦手だっただけなのではないだろうか、といううわさもあった。
家庭の状況は、あまりよくはなく、両親は不仲。鈴原は、とくに母親から、よく叱れていたようだ。
つまり、よくあるヤンキーってことだろ。
そのまた翌日は金曜で、朝から、涼子と遊びに出かけた。
ヘソを曲げられても困るからだ。就職活動の事も気にはなったが、もう諦める事にした。いいさ。しばらくは我慢して、失業保険を受け取ることにしよう。実際、いろんな仕事をしすぎて、どんな仕事につきたいのかさえ、よくわからない。
午後になって、ドライブから帰ってくると、涼子は思い出したように言った。
「あのね、この間の女の人なんだけど」
「女の人?」
一瞬、オレは浮気したんだろうか、と考えた。いや、そんな覚えは無い。
「埋っていた人よ」
ああ。生きている人間じゃないのか。
「どうした?」
「まだ出てくるの」
参ったな。
「毎晩、わたしのところに来て言うのよ。あいつを見つけて、あいつを見つけてって」
「冗談がきついよな」
涼子は苦笑いした。
「幽霊の言うことを、いちいち全部聞いていたら身が持たないわ」
オレも苦笑した。
「でも、どうも違うみたいなの」
「何が?」
「夢の中に出てくるんだけど、いつもね、車を指差しているの」
「車?」
「白いセダン。彼女の足に隠れて、ナンバープレートの下二桁だけが見えるの。2と3」
「彼女は、それを陸運局で調べて欲しいのか?二桁だけじゃ無理だぜ」
「さあ。それはわかんない。でも、トランクの上に大きな羽根があるの」
リアウイングか。
「それは登録されていない事柄だからな。調べようが無いさ。車種は?」
「セダン」
「そうじゃなくて」
「そんなのわからないわよ。ホンダだかスズキだか・・・」
彼女は車に詳しくないのを思い出した。ホンダとスズキが最初に出て来たのは、オレのがホンダで、彼女のバイクがスズキだからに過ぎない。
オレは、ちらっと時計を見た。
「もう、そろそろ行かないと。部屋で待っているか?」
「ううん。帰るわ。バイクも下にあるし」
この間は、オレのアパートの駐車場にバイクを置いて彼女は帰った。
「そうか」
「気をつけてね。何か、悪い予感がするの」
「不吉なことは言わないでくれよ」
「そうね。でも、本当に気を付けて」
オレは、鈴原の会社に向かっていた。
今日の計画は、もう立ててあった。
会社の裏手に回り、薄暗くなり始めた砂利の上を歩いてチェイサーを探した。ツナギに着替えて来ていた。片手に工具箱を持ち、チェイサーのドアに工具を差し込んだ。
ほんの半年だけだが、JAFにいたことがある。車のトラブルに来てくれる、あれだ。そこで覚えた技能でドアなんか、すぐに開く。
最近の車は、工具でドアを開けようとすると、キーレスエントリーやらパワーウインドーやらの配線を切断してしまうこともあるのだが、構うものか。これは客の車じゃない。少々、壊れようと知った事ではない。
ドアを開けると、さっと手を伸ばし、ボンネットを開いた。
ちょいちょいと細工をして、オレはボンネットを閉め直し、ドアをロックして立ち去った。後は、待つだけだ。
七時過ぎ、鈴原は車に乗り込み、走り出した。
オレの計算では、三十分以内には停止するはずだ。オレがいじったのは、オルタネーターという部品で、発電をするための部分だ。そいつがいかれていても、エンジンはかかる。バッテリーの蓄えがあるからだ。だが、充電出来なくなっているから、しばらくすると、バッテリ上がりを起こして、どうにもならなくなるっていうわけだ。
目の前を走り去っていくチェイサーを、オレは尾行し始めた。
チェイサーっていうのは、日本語に訳すと「追跡者」だが、今は追跡される側ってわけだ。
そんなことを言うと、涼子達は、「オヤジ」というに決まっているから人には言わないが、くだらない言葉遊びは大好きだ。
信号待ちで、やつの車の後ろに並んだ。辺りは、すっかり暗くなっていた。ナンバー灯に照らされて、番号が読みとれた。見るともなく見ていると、はっと気が付いた。
下二桁が2と3。まさか、こいつが連続殺人犯?
だが、トランクの上にはウイングは無かった。
「まさかな。いくらなんでも出来すぎだ」
オレは止めていた息を吐き出した。信号が変わり、車が動き出した。プレリュードは息付きしながら走り出した。
「向こうがイカレる前に、お前がくたばるんじゃないぞ」
十六万キロを供にした相棒に声をかけた。そのぐらいしか、今は、やれることは無い。
幸運なのか、プレリュードは、それっきり調子良く走っていた。
やつの車がいかれるころ、街を外れるはずだ。そうなったら、手を貸す振りをして、二、三発ぶん殴ってから、言うことを言って立ち去ろうと思っていた。
陳腐な作戦だったが、ぶん殴るための工具は売るほど積んでいる。
オレとしては、いつもの事だが、計算が外れたのか、それとも壊したつもりのオルタネーターが丈夫だったのか、やつの車は、やつの家までもってしまった。
オレは、今か、今か、と気を揉んでいるうちに疲れ果ててしまった。ぼんやりと、無事に帰宅した男を運転席から見送りそうになっていた。
ハンドルに首を載せ、暗闇に目を凝らすと、路上駐車した車に、誰かが駆け寄った。
これで、今夜の計画は、すべてパーだ。ここで降りて行ってぶん殴るわけにはいかなくなった。オレは、ギアをローに入れ、チェイサーの脇を走り抜けようとした。
ヘッドライトに照らし出されて浮かび上がったのは、車の中に乗り込んだ、加奈の姿だった。
「なんで加奈が」
あれほど一人で近づくなと言ったのに。
とにかく、放っておくわけにも行かないから、オレは車を止めようとした。そのヘッドライトの中で、チェイサーは急発進した。
「あぶねえだろう」
とっさにブレーキを強く踏んだ。チェイサーは、そのまま走り去っていく。オレも、それをすぐに追いかけた。
「何処へ行くつもりだ」
最近、独り言が多いよな、オレ。年を感じるぜ。
チェイサーは住宅街を離れたが、車通りの無い両側を林に囲まれた場所で、急にヘッドライトもテールライトも暗くなり、そのままスローダウンして路肩に止まった。
ようやくバッテリーを使い果たしてくれたか。最近のバッテリーは性能がいいよな。
さて、どうするか。素早く考えた。だが、最初の計画で行くことにした。
プレリュードをチェイサーの前に止め、ゆっくりと降りて近づいて行った。やつも、ドアを開けて降りてきた。
「どうしましたか?急に止まっちゃったように見えたけど?」
「いやあ、なんだかバッテリーが駄目になったみたいで」
落ち着いた声で鈴原は言った。プレリュードのテールランプしか明りが無かったからやつの顔は見えなかった。
「バッテリーですか?ジャンプコードあるから救援しましょうか?」
「え?本当ですか?それは助かります」
オレは手を振って、「じゃあ、Uターンさせますから。エンジンルームを近づけないと、届かないから、コードが」と告げ、車に戻った。心臓がバクバクしていた。
落ち着け、落ち着け。
車をターンさせて、チェイサーに近づけた。エンジンはかけっぱなし。
「いやあ、悪いですねえ」
「JAFに勤めてるんですよ、わたし」
自分のツナギ姿を見せて言うと、オレも愛想笑いをしてトランクからコードと工具箱を取り出した。鈴原はドアのところに立ったまま動こうとしない。とにかく、やつをエンジンルームの方に来させないと、加奈に危害が及ぶ可能性がある。
「それは・・・。代金払いますから」
「結構ですよ、仕事じゃないですからね」
開いたチェイサーのエンジンルームを覗き込む。
「古そうなバッテリーじゃないですねえ」
鈴原は「そうなんですけどねえ」と言った。
「原因はバッテリーじゃないのかもしれない」
そう言ってから、鈴原の方をひょいっと見た。上がったボンネットが邪魔で、見えなかったからだ。
「何か、警告灯、ついてませんでした?」
「バッテリーの警告灯がついてたけど・・・」
「ああ、やっぱり」
オレはエンジンルームから離れた。いつまで待っても、やつが来ないから痺れを切らしていた。
「バッテリーの形の警告灯はね、バッテリーの不具合を示すもんじゃないんですよ。充電系統に故障があるっていうサインでね」
そう言いながら、オレは鈴原に近寄って手招きをした。ようやくやつはドアから離れた。鈴原を先に行かせようとした時、助手席のドアが開いた。
「圭吾さん?」
加奈が降りてきた。なんで降りてくるよ?まったくやっかいな。
「あ?加奈ちゃん?」
しらばっくれてオレは尋ねた。
「久しぶりだね、加奈ちゃん」
「知り合いか?」
鈴原が加奈に尋ねた。オレは加奈が何か言わないうちに急いでしゃべった。
「高校の後輩だったんですよ、加奈ちゃんは。ねえ、加奈ちゃん」
冷や汗が脇を伝って流れ落ちた。
「え?あ、そう、かもしれない」
加奈は、しどろもどろに言った。何かには気付いたのだろう。オレがなんでこんなところにいるのか、とか。
「とりあえず、作業が先だから、そこから近づかないでくれるかな、加奈ちゃん」
オレは、精一杯に冷静な声を出して言った。鈴原は、プレリュードのヘッドライトの中で、疑わしそうな目になっていた。オレは、慌てて言った。
「たぶん、オルタネーターのあたりだと思うんですよね」
ボンネットの中を指差した。釣られて、鈴原はボンネットの中を覗き込んだ。オレは、手に持っていたスパナを振り上げた。
途端に、加奈が近づいた。あのなあ・・・。振り上げたスパナのやり場が無くて、ぐるぐる振り回した。
鈴原の派手なジャンパーの背中に描かれた鷲の刺繍を見つめながら、オレは疲れていた。
今日は、やめよう。暴力は無し、だ。
懐中電灯でエンジンルームを照らし出す。
「あ、これか」
オレは、今、気が付いた、とばかりにオルタネーターの脇にぶら下がる配線を指差した。
「これが外れて充電が出来なかったんだ」
オレは、ボルトが紛失しているから、付け直せないことを伝え、この場で修理は不可能である、と断言した。
「それは、困るんだ」
鈴原は、そう言ったが、オレは首を振った。本当は、どうにかならないこともない。ボルトなんて、車の中にはいくらでもついているから、そのうちの一つを外して代用するとか、いろいろ手はある。壊した本人が言うんだから、間違い無い。第一、外したボルトは、オレのポケットに入っている。
「わかった。ちょっと待ってくれないか。電話を取ってくるから、ディーラーのやつに説明してやってくれないかな?」
オレは頷いた。脇をすりぬけて、鈴原がドアのところまで戻っている間に、オレは加奈に近づいた。
「加奈。一人で行くなって言っただろ」
小さい声で言うと、加奈はペロっと舌を出した。かわいいつもりか?
「冗談じゃないぜ。今日一日、無駄にしちまった」
「え?」
それから何か言おうとして、急に加奈は目を見開いた。オレは不安に駆られて振り返ろうとした瞬間、頭に衝撃を感じて、倒れ込んだ。
意識が朦朧として、目が見えなかった。
あれからどれくらいの時間が経ったのか、オレには分からない。
とにかく、言えるのは、プレリュードが無くなっていて、オレはチェイサーの隣に倒れていたって事だ。ゆっくり体を起こそうとすると、ひどく頭痛がした。そっと、触るとべっとりと濡れていた。
「くそったれ」
オレは悪態をつくと、座ったまま、ポケットの携帯を引っぱり出した。
オレ自身の事は後回しだ。
「涼子か?」
三回ほどコールしただけで、彼女は電話に出た。
「圭吾。大丈夫?ああ、やっぱり何かあったのね?」
「ああ、涼子の言う通りだ。加奈が連れ去られた。オレも頭を殴られている。場所は加奈の家のそばだ。来てくれ」
「もちろん、すぐに行くわ」
オレは、血の付いた手で、チェイサーの開きっぱなしのボンネットに手をかけると、渾身の力で立ち上がった。震える手で、携帯のボタンを押す。
「加奈さんの、お母さん?」
「ええ、そうですけど」
「警察に電話して下さい。彼女が連れ去られました」
「え?なんですって?」
「加奈さんが、鈴原に連れ去られたんです。僕の車を奪って逃走しました」
そこで、息を吸い込んだ。一気に話すのもつらかった。相手は、取り乱して耳元で叫び声を上げた。
「オレは殴られて何も出来なかった」
絞り出すように言った。伝えて置かなくていけない。オレの責任、だと。何か電話の向こうでわめいた。
「とにかく、警察に電話を。加奈は必ず見つける。奪われた車はプレリュード。黒。ナンバーは・・・」
それだけ告げると、電話を切った。オレは、携帯をポケットに仕舞うと、工具箱を探した。このバッテリーの駄目になった車を動くようにしなくてならない。涼子のバイクで充電するとしても、まずはボルトを止め直さないと。
工具箱は見当たらず、オレは悪態をついた。ジャンプコードは、バッテリーにつなぎっぱなしになっていたから、そいつはいいが。
オレはチェイサーのキーを引き抜いた。キーは付けっぱなしだった。なんでまた工具箱だけ・・・。
そうか。あいつが殴った凶器は、オレの工具箱の中にあったものだったってわけか。そういうことだろう、たぶん。
チェイサーの車載工具に目当てのサイズの工具があることを祈りながら、鍵を回した。トランクが開き、中を懐中電灯で照らし出した。バッテリーが上がっているから、ランプはつかなかったからだ。異臭が漂って来た。オレは、照らし出されたトランクの中が、真っ茶色に変色しているのを見つけた。大量の血液の乾いた跡だった。
三十分ほどで涼子がやって来て、バッテリーに充電した。その間中、涼子は薄気味悪そうにトランクを覗き込んでいた。
「用意が出来た。行くぞ」
「乗りたくない、わ」
オレはため息をついた。
「仕方無いだろう。お前のバイクじゃ霊視しながら追跡できない」
「だって、これ・・・」
「犬か猫だろ。我慢しろよ」
「分かった」
涼子はトランクをバタンと閉じると助手席に乗り込んだ。オレはオートマチックのギアをガチャガチャと切り替えるとアクセルを踏み込んだ。
「人間の血なのよ、あれ」
「何?」
唐突に涼子が言って、やっぱり薄気味悪そうに振り返った。
「何人もいる。若い女性ばかり」
「だって、お前・・・」
そこで、オレは、はっと気がついた。そうか。羽根だ。
車に疎い涼子が、リアウイングなんていう言葉を知っているはずがない。ましてや、それを、羽根、と呼ぶはずが無い。そんな呼び方をするのは、オレみたいな車好きだけ。
涼子が羽根と言うからには、それは羽根だったのだ。
そして、鈴原の背中には羽根があった。鷲の大きな羽根が。
「苦しそうな声が聞こえる。恨みのこもった苦しそうな声」
涙を堪えるように涼子が声を詰まらせた。オレは、奥歯を噛み絞めて車を走らせていた。
「すまんが後にしてくれ。今は加奈を見つけなくちゃいけない」
「分かってるわ。彼女達も、そう言っている」
「どっちだ?」
交差点に差し掛かり、オレは言った。
「右」
涼子は、間発入れずに答えた。オレはハンドルを切った。
「もっと早く走って」
涼子が叫んだ。
「急がないと、加奈が殺される。あいつは、殺してから・・・」
その先は言葉にならなかった。オレはアクセルに力を込めた。
「どっちだ?」
「左」
タイヤが悲鳴を上げて、車が傾く。後輪駆動のチェイサーは、早くアクセルを踏み過ぎたオレの足に逆らうようにスピンしはじめた。オレはとっさにカウンターを切って、グリップを取り戻す。
「次は?」
「三つめ、右」
異常犯罪を犯すやつは、それより以前に、似たような犯罪を犯している。例えば、学校の鳥小屋に忍び込んで、そこにいる生き物を惨殺したり、野良猫をつかまえて切り刻んだり、だ。
だが、そんなことをしたことがあるからって、全部が全部、人間を殺すようになるってわけじゃない。普通のやつは、妄想はしても実行はしないものだ。
つまり、やつは普通じゃない。
涼子が見た光景は、首を切って殺し、そのうえ犯し、腹を裂き、そのまだ生暖かい肉を食い・・・。
そんなことが出来るやつは人間じゃない。世間では、そういうのを快楽殺人と呼ぶが、何が快楽だ。くそったれ。
やつらは精神異常なんかじゃない。もともと感情ってやつが無い人種なんだ。人の痛みが分からない欠陥人間なんだ。そんなやつは・・・。
「もっと急いで」
涼子が金切声を上げた。車は山道に差し掛かっていた。オレは、精一杯急いでいた。
「もうすぐ追い付くわ。あいつは殺す相手が怖がるのを楽しんでいる。加奈はまだ生きている。でも、もうすぐ車を止める」
「分かってる」
オレは叫んだ。ガードレールにテールをこすった。くそ、なんなんだよ、このブカブカのサスは。乗り心地はいいかもしれないが、飛ばすようには出来て無い。
「この先の影」
涼子がつぶやいた。オレはおもいっきりアクセルを踏み込んだ。
「見つけたぜ、鈴原」
見慣れたプレリュードのテールが目に飛び込んできた。
「加奈を助けて」
「分かっている」
オレは答えたが、涼子はオレを見ていなかった。ただ、真剣な面差しで前方を行くプレリュードを見ていた。
「そう、今だわ」
突然、涼子がつぶやき、プレリュードの後輪が滑り出した。
オレは、あっけにとられて、その様子を見ていた。
ブレーキが二、三度点滅し、続いてスピンすると、黒いプレリュードはガードレールにバンパーをこすって停車した。はっと気が付いて、オレは急ブレーキを踏んでチェイサーを止める。タイヤが大袈裟な音でアスファルトに噛み付いた。
チェイサーの鈍重な車体が身悶えしながらプレリュードのすぐ後ろで停車する。
オレは「壊れろ」とばかりにドアを蹴り開けて飛び出した。すぐさま全速力で暗闇を走り抜け、プレリュードに駆け寄った。崖のガードレールに塞がれた運転席側を無視して、助手席のドアノブを引き開けた。
「加奈は?」
そこには誰も乗っていなかった。奥を覗くと、運転席では、呆然とした顔で鈴原が中空を見つめていた。
「くそ、加奈は何処だ?」
叫ぶと同時に、後部座席で呻き声がした。オレは手を伸ばし、シートの左側に付いているレバーでシートを倒すと後部席から縛り上げられた加奈を引っぱり出した。
「もう、大丈夫だ。大丈夫」
オレは、加奈を道路に立たせると、抱きしめた。
見たところ無傷のようで、口の戒めを解き、再び抱きしめた。
ぎゅっと、加奈を抱きしめると、ほっとした。よかった、彼女を守ることが出来た。オレは、大きく息をつき、暗い空を見上げた。
その時、どさっというような音がした。
とっさに目を戻すと、呆然としていたはずの鈴原が加奈の背中をはさんで向こう側のアスファルトに立っていた。
「殺すしかないな」
鈴原は、冷たく言い放った。その手できらっと何かが光った。次の瞬間、やつは加奈の背中に向かって突進した。
オレは、とっさに加奈をかばおうと体をひねったが、やつはナイフを突き立てようと迫っていた。
「駄目!」
涼子の声がして、その瞬間、加奈の背中にナイフが達した、と思った。オレは無理矢利、軽い女の体をなぎ倒すようにひねり、加奈を道路に放り出す。縛られたままの加奈は、「きゃあ」とか言いながら倒れた。擦り傷くらいは我慢してくれ、と思いながら、すぐさまオレは体制を立て直し、鈴原の足元に飛びついた。
柔道の要領だ。やつは足を取られてバランスを崩し、その場に背中を下に倒れこんだ。その手から、ナイフがこぼれ落ちた。オレはそれを拾って力任せに投げ捨てた。ガードレールの向こう側。
鈴原は、起き上がろうとしたが、それよりも早く、オレは振り向いた。やつが膝を立てたところでオレが一歩踏み出し、鈴原の顔がひきつった。
「ふざけるなよ」
オレは、そう言い捨てると、怒りにまかせて、その顔に足蹴りを入れた。鈴原は、くぐもった呻き声をあげると、アスファルトに沈みこんだ。気を失ったようだった。
仕方がないだろう。こんな時に、力の加減なんか出来ない。
それに、万が一、それでやつが息を引き取ったとして、別にオレは後悔もしない。
ぜいぜいという呼吸が、耳に届いて、それが自分の息だと気が付いた。体力は、明らかに落ちている。中学まで習っていた空手も、腕がだいぶ落ちた。
オレは、大きく息を吐き加奈に向き直った。
「大丈夫か」
そう言うと、加奈は涙目で頷いた。
「縄をほどくよ」
そう、オレが言うと、加奈の目から涙がこぼれ落ちた。いつもは憎たらしいガキだ、とかなんとか思っていたが、そういうところはかわいらしい、とふと思った。ふと、そんなことを考える自分が、おかしくなった。
「あ、縄を切るのにナイフを使えばよかったな」
オレはガードレールの向こう側を見ながら、照れ隠しにそう言った。
苦労して、縄を解く。
手が痛くなってきた。
「圭吾さん、頭から血が出てる」
ようやく外れた縄の跡がついた手首をさすりながら、加奈が言った。そう言われて、オレは自分の頭の痛みも思い出した。そっと触ると、血は固まって髪の毛がバリバリになっていた。
「だいぶ、切れているな」
ハゲになったらどうするんだよ、まったく。
涼子が近寄ってきて、加奈の足の縄を解くのを手伝ってくれた。それから、倒れたままの鈴原をちらっと、見遣ってつぶやいた。
「どうするの?この男」
「どうしようもないだろう?警察を呼べよ」
涼子は頷いて、携帯を取り出そうと鈴原に背を向けた。その瞬間、それまでまったく動かなかった鈴原が、うなり声を上げて涼子に襲い掛かった。
いったい、なんなんだ、この男は。
「このやろう」
オレは、そう叫ぶと、とっさに右足を踏み出し、涼子と鈴原の間に飛び込んだ。伸ばした鈴原の手が涼子のシャツに達する直前、オレは、鈴原の左手をつかんだ。が、勢いは弱まらない。鈴原の右手が光った。
「ナイフ!」
オレが叫ぶのと、鈴原が悲鳴を上げるのが同時だった。
その時、オレには何が起こったのかわからなかった。いや、その場の誰も、何が起きたのか説明できるものはいなかっただろう。それは、強烈な出来事だった。
考えを整理できる頃になって、思い返した上で言えるのは、こういうことだ。
涼子にナイフが達しようとした、その瞬間、涼子の周りに真っ黒な影が沸き上がり、鈴原は弾き飛ばされた。十メートルくらい、吹っ飛んで地面に叩き付けられた。
「おい、大丈夫か・・・」
オレは思わずつぶやいた。鈴原が吹き飛ばされた瞬間、その力の凄まじさは、右手をつかんでいたオレ自身がよくわかっている。その瞬間、やつの腕は内部から爆発したのか、と思ったくらいの勢いで鈴原は吹き飛ばされた。反動で、オレはその場に尻餅をついたくらいだ。
「なんだ、なんだよこれは」
闇の中で、そう、鈴原がうろたえる声が聞こえた。
そして次の瞬間、誰も乗っていないはずのチェイサーのエンジン音が高まった。
「何?」
振り返るとチェイサーは鈴原に向かって突進し、ヘッドライトが男の姿を浮かび上がらせた。その時、鈴原の恐怖に洗われた表情が目に焼き付いている。
タイヤがホイールスピンする「キャキャッ」という音とともに車はオレ達の脇を走り抜けた。「ぐしゃ」という音と同時に、あっという間もなく鈴原は、そのバンパーに押しつぶされた。チェイサーは、それでも勢いを失わず、鈴原をひきずったまま「ガーン」という耳をつんざくような大音響でガードレールを押し潰し、そして、車は横向きになった。大きく湾曲したボンネットの上から胸から上だけを覗かせた鈴原は左手を力なくボディーに叩き付けた。ぎ、とか、ぐ、とかいう声を発し、そして力を失い虚空を見つめて首は垂れ下がるように横向きになった。
すべてが、一瞬の出来事だった。
オレは涼子を振り返った。
「おまえ・・・」
涼子も、呆然と、それを見ていた。
「違うわ。わたしじゃない。わたしには、そんな力、ない・・・」
「じゃあ・・・」
そう言って、再びオレはシュウシュウと音を立てるチェイサーと、その向こう側の瀕死の男の方を見た。
「いったい何が起きているんだ」
そう、オレが口走ると、加奈がつぶやいた。
「あの車、たくさん人が乗っていたわ。みんな赤い服を着て・・・」
事件の処理には苦労させられた。
何もかもが、理屈で片が付かないことだったし、説明のしようがない。第一、オレにだって何がなんだかわからない。
後で分かったが、被害者は全員、赤い服を着ている女性だった、とのことだ。
どうして赤い服の女ばかりが狙われたのか、それは今となっては分からない。救急と警察が到着する前に鈴原は死んでしまったし、もし、生きていたとしても、合理的な説明はしようがない。どっかの精神医学者が適当な理由を考えたが、それが本当かどうかはわからない。
涼子は、しばらくした良く晴れた午後に、つぶやいた。
「加奈に、古い事件を思い出させたのも、たぶん、あの女の人だった、と思うわ」
そいつが、涼子の思い込みに過ぎないとは思っていた。
けれども、オレは何も言わなかった。