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エターナルホワイトアウト(完結)

 七階まで上ると、息が切れた。廊下からドアを開くと、そこにはベッドのマットレスが通路を塞いでいた。厚みのあるマットレスの長い方の一辺を左右にして、片側の壁に持たせかけるようにして狭い廊下を塞いでいる。誰かが意図的に、その先へ進ませないようにしているとしか思えなかった。

「本当にここか?」

 オレは、振り返って涼子に尋ねた。

「そうよ」

「しかし、どうやって向こうへ行けばいいんだ?」

 オレは、通路を塞ぐマットレスに手をかけた。水分を含んで予想以上に重く感じられた。しかも、よく見れば布団やシーツが隙間にねじ込まれている。そいつもぐっしょりと濡れて、壁に凍り付いていた。動かすよりも無理矢利乗り越えていった方が早いような気がした。

 ライトで照らし出すと、厚みのあるマットレスの上側にはどうにか一人通れるくらいの隙間がありそうだった。

「涼子、一人で待っていても平気か?」

「ええ。大丈夫。何かあったら大きな声で呼ぶから。すぐに来てよ」

「ああ」

 オレは、マットレスの上に足をかけ、斜めになった天井との隙間を抜けることにした。マットレスは凍っていたが、嫌な匂いがした。出来れば、あまり触っていたくはなかった。

 体重がかかるたびに中のほうから凍らなかった水分が、ぐしゃぐしゃと湧き出してくるマットレスの上を通り過ぎると、三階の廊下よりもきれいな内装が目に入った。振り返ると、さっき抜けてきた隙間から、涼子が照らす明りが見えた。

「涼子」

 オレは大きな声で、そう言うと、その声は廊下中に響き渡った。

「なに?」

 向こうから声が返ってきた。

「調べてくる。すぐに戻るから、待っていてくれ」

「わかったわ」

 しっかりとした声で涼子は返事をした。さすが霊能者、か。普通、こんな場所で一人にされて怖がらない人間はいない。まあ、下の階で喜々として写真を撮っているやつは別だ。

 暗闇に目を戻すと、やはりいくつかのドアが開いていることに気がついた。さて、何処から調べるか。オレは、一番手前のドアに手をかけた。

 ドアの向こうはガレキの山だった。不要になった備品を投げ込んだのだろう。足の踏み場もない。オレは、その部屋を後回しにした。次のドアを開けると、そこは暗いが、普通に見えた。明りさえあれば、一晩だけなら寝ていられるかもしれない。

 オレはごめんだが。

 部屋に入り、バスルームを覗く。放り出されたシャワーヘッドが蛇の頭のようにこちらを見返していた。曇った鏡に写るオレのライトが不気味だ。そこには何も無いことを確認して、奥の部屋に入った。

 ベッドが一つ。キングサイズのやつ。布団も残っていたが、それは破れて中の綿が飛び出していた。

 枕もとのラジオは何かで叩き壊されていた。オレは窓際まで歩いて行って、そこの窓のブラインドが降ろされていることを確認した。ベニアの雨戸のようなものだ。部屋の内側についているが。

 それから同じ様な部屋を三つばかり見て回った。違いは大して無かった。ベッドの上の布団はあったり無かったりしたが、どれも破かれている。こういうところに忍び込むやつというのは、何故か物を壊したがるらしい。

 四つ目の部屋のドアはしっかりと閉まっていた。

 オレは、そっとそれを開いた。その途端、風が吹き抜けた。驚いて一瞬、ドアを閉めようかと思った。ライトで照らし出すと、奥の窓が開いていた。いつの間にか雪はやみ、雲の切れ間に星が見えた。オレは、そっと足を踏み入れた。


 それは、すやすやと眠っているように見えた。

 窓ガラスは割れていたが、ベッドの上の布団は破れもなく、しかも乱れてはいたが、しっかりとベッドの上に広がっていた。

 最初、部屋には何も異常はないような気がした。その部屋の床にはうっすらと雪が降り込んでいたが、壊れている備品もなく、今までに見た部屋の中で、一番きれいにも見えた。

 窓から外を眺めると、街の明りがきらきらと光り、雪の中に幻想的ですらあった。

 雲の切れ目には星が輝いていて美しい。街は静かでゆっくりと時間が流れていくようだった。

 オレはため息をついて振り返り、部屋を後にしようとした。

 その時、オレはようやく気がついたのだ。ベッドの中に誰かがいることに。

 ライトの明りに照らし出されたのは、黒い髪の毛だった。オレは、心臓が飛び出るかと思うくらいに驚いた。だって、そうだろう?予想はしていたといっても、こんな廃虚の中で髪の毛を発見すると、どうなるか。それは小さな頭だった。

 そうやってどのくらい立ちすくんでいただろう。

 誰かがオレの隣でストップウォッチを持って立っていたなら五秒、と言ったかもしれないが、オレにはもっと長く感じた。どうするべきかはわかっていた。オレの目に写る物体が、マネキンかなにかではなくて人間だということを確かめるべきだ、とわかっていた。

 だが、その前に涼子を呼んだほうがいいんじゃないか?一人でこれに触れていいのだろうか?

 その答もわかっていた。誰かを呼びたいのは怖いからで、順序からいけば、まずは確かめるべきだった。

 オレは意を決した。これが誰かのタチの悪いいたずらではないことをたしかめなくていけない。そっと足を踏み出す。まさか、手を伸ばした途端に布団が跳ね飛んで、顔の崩れた化け物がその手を食いちぎろうと飛びかかってきたりはしないよな。

 布団に手をかけて、そっと引っぱった。

 それは、眠っているように見えた。

 おだやかな顔で目を閉じていた。オレは、一瞬、それにみとれていた。ライトの明りに照らされて、あまりにも白い肌は、すっきりとした黒い髪の間からおだやかに寝息を立てているようにすら感じられた。

 しかし、すぐにオレは気を取り戻した。

 マネキンなんかではないことは明らかだった。布団を戻し、その場から後退りしてドアに向かった。写真で見た少女だった。そして生きていないことも確かだった。


 ドアを出ると、走り出した。

「涼子」

 オレは大きな声で呼びかけながら、通路をふさぐベッドまで走った。

「涼子?」

 ベッドの端に足をかけ、よじ登ると不安定な、そして踏み込むたびに沈み込むマットレスの隙間を通り抜けた。向こう側に飛び降りると、もう一度呼びかけた。

「涼子」

 だが、返事は無かった。

 やはり涼子も普通の女の子だったのかもしれない。怖くなって階下に降りたのかもしれない。とにかく、オレも下に降りたほうがいいだろう。

 階段へのドアを開くと、オレはライトの明りの中で出来る限り急いで駆け降りた。


 五階のところで、下から上がってくるライトが見えた。

「涼子?」

 そう声をかけると、向こうも気付いたようだった。

「市倉だ」

 オレは、その場で足を止めた。相手が踊り場を曲がって上がってきた。ライトは一つだけだった。

「市倉か。涼子は?」

「え?一緒じゃなかったのか?」

 不思議そうにやつは言った。

「いや、途中まで一緒にいったんだが、ベッドでバリアがしてあったんだ。それでオレだけが中へ入った」

「じゃあ、あの子は?」

「それを探していたんだが」

「こっちには来ていないぞ」

「じゃあ、上に行ったのか?」

「たぶん、そうだろう。ところでどうしたんだ?顔色が悪いぞ。七階で何か見つけたのか?」

「ああ。死体をな」

「なに?」

 驚いて、市倉が大声を出した。

「もともと、オレ達は、それを探していたんだ。仕事でな」

「仕事だと?」

「ああ。霊能事務所をやっているんだ」

「霊能事務所だあ?」


 説明している場合ではなかったから、オレと市倉は手分けして探すか、二人一緒に探すかを話し合ったが、二人一緒に探すことにした。涼子が見つかったとき、今度はお互いを探す羽目になるのも面倒だった。

「とりあえず、携帯に電話してみたら?」

 市倉が言い、オレははっと気がついた。

「そうだな。どうしてもそれを忘れるんだよ。携帯ってのに慣れてないんだろうな」

「は。現代に生きていないな、お前は」

 コートのポケットから携帯を取り出し、オレはコールした。

「出ないな」

「車に置いてきたのかな」

「有り得るな。あいつ、バッグを持っていなかったからな」

「じゃあ、とりあえず上に行くか?」

「そうだな」


 階段を再び上りながら、オレは何か忘れているような気がした。

 何故、涼子はいなくなったのだろう。

 もちろん、あいつが普通の女ではないことは知っている。はっきり言えば、あいつの行動を予測することは出来ない。二人で買い物に行ったとしても、ちょっと目を離した瞬間にいなくなるような女だ。子供よりもタチが悪い。

 だが、そういうことではないような気がする。何かがおかしい。

 市倉は、先に立って、どんどんと階段を上っていく。

 こんな時、涼子はどうするだろう?今までなら、涼子はどうしたのだろう?

 あいつは、いつも危機が迫ると現われた。

 加奈が連れ去られたときもそうだった。まるで、その危機を予測したように現われて、オレを操った。呪いをかけられた女性の時もそうだ。オレが見つけるよりも先に、問題の子供を見つけていた。

 犯人は、まるで涼子に呼び寄せられたように現われた。

 市倉は、どんどんと進んでいく。七階を通り過ぎ、八階を通り過ぎた。何処まで行くのだろう。

 あれは偶然だったのだろうか。

 必然のように犯人が現われて、すべてが一瞬で解決するような、あれは偶然だったのだろうか。

 涼子には不思議な力がある。オレには信じられない。当然だ。オレには、そういう力がないからだ。体験出来ない感覚は信じられない。だが、もしも涼子の力が本物だったとしたら。すべては偶然ではなく、涼子の起こした事だったとしたら。事件は運良く解決したのではなくて、涼子によって解決されていたのだとしたら。

 もしも、そうだったとしたら、涼子は必然的に姿を消したことになる。彼女はたまたま何処かへふらふらと行ってしまったのではなくて、何か理由があっていなくなったのだ。

 市倉がドアを開いた。そして、そのドアから外へ出た。続いてオレも外へ出た。そこは屋上だった。雲の合間に月が出ていて、そこはとても明るかった。

「桜井。きれいな夜景だぜ」

 市倉が、そう言って、オレを手招きした。

 涼子、何処にいる?何故、お前は姿を消したんだ?手招きされるままオレは雪の積もった屋上を歩き出した。

「もっとこっちへ来て見てみろよ。すごいだろ」

「ああ、そうだな」

 市倉は何を考えているんだ?今は、そんなことよりも涼子のことが・・・。屋上の端まで歩き、空を見上げる。美しい景色が眼下に広がる。白く光りを反射して、そこは夢のような景色だった。

「な、すごいだろう?」

 そう言いながら、市倉が近寄ってきた。しかし、そんな場合じゃないんだ。今は涼子が何故いなくなったのかを・・・。その途端、オレは「危ない!」と言う涼子の声を聞いた。

 驚いて振り向くと、まさにその時、市倉がオレに向かって両手を突き出したところだった。

「何をする?」

オレは、とっさに市倉を押し戻すようにして、勢いが余ってそのまま雪の上に転がった。

 わけがわからなかったが、市倉はオレに馬乗りになると殴りかかってきた。

「なんだ、どうしたんだ?」

 オレは、腕を振り回す市倉をつかみ、それを必死で受け止めた。

「死ねよ。桜井」

「なんだ、何を言っている?」

 オレは市倉の腕を離し、殴られて気が遠くなった。

「死ね、死ね、死ね」

 めちゃくちゃに腕を振り上げる市倉に、オレは何度か殴られていたが、両腕でそれを防いだ。深く積もった雪が、オレ達の動きを制限し、転がったままでは空しか見えなかった。意味がわからなくて、オレは呆然と守勢に回るしかなかったのだ。

 市倉は、オレに馬乗りになり腕を振り回す。オレは、顔の前に両腕でバリアを張る。

「死ね」

 そう言って、市倉は一瞬だけオレを抑え付けていた腕を緩めた。やつはポケットから何かを取り出そうとしていた。そして、それがキラリと月明りを反射した。

「死ね」

 やばい、やつは本気だ。

 急にオレは、必死になって満身の力をこめ、やつを押し退けようとした。不意をつかれたかのように、市倉はバランスを崩した。ふっと抑え付けていた圧力が軽くなる。オレは馬乗りの市倉を弾き飛ばそうとして、寝転んだ姿勢のままで足だけを縮め、続いてやつを跳ね飛ばすように勢いよく両足を、その腹に叩き込んだ。

 それはゆっくりとした動きだった。

 ぐっと、市倉の何枚も着重ねした腹に足がめりこんで、それから反動でやつの体が宙に浮いた。

 それからオレの視界から消えると「ザ、ザ」という雪が崩れる音と、市倉の悲鳴が聞こえた。

 仰向けのまま、オレは後退りしながら立ち上がろうともがいた。深く積もった雪が、頭の上からこぼれおちた。慌ててそれを払いのけてばたつきながら両手を使って起き上がる。中膝をつくような態勢になって、それからようやくの思いで立ち上がった。

 市倉の姿は無かった。ただ、屋上の端にいたオレには、その一辺に崩れた雪のへこみが見えただけだった。

「落ちたのか?」

 オレは、二、三歩踏み出そうとして、踏み留まった。こんなに積もってていては、何処までが屋上の床なのかわからない。ぎりぎりまで進んで行って下を見下ろすなんて出来そうにも無い。


 オレは確かに涼子の声を聞いた。

 だが、その声は何処から聞こえたのだろう。どう考えてみても、それはオレの頭の中で響いたように感じられた。

「まさか」

 オレは、階段を降りながら、頭を振った。パラパラと雪が落ちた。襟にも袖にも雪が詰まっていて、恐ろしく冷たい。だが、寒さは感じていなかった。ただ、寒さではない何かによって、オレは震えていた。

 顔のあちこちが熱かった。たぶん、明日にはひどい色になるだろう。両手は傷だらけだ。感覚もない。にぶい痛みが腕や肩や足にあって、それはずきずきと音をたてて時間とともに強くなっていった。市倉・・・いきなり殴りかかってきた。意味がわからなかった。その憤りが転落したのかもしれないという不安を退けていた。まさか、やつもまた何者かに意識を乗っ取られていたとでも言うのだろうか。

 だが心配すべきはそれだけではない。涼子を探さなくてはならない。

 一つの疑問が心に浮かんでいた。涼子は市倉に連れ去られたのだろうか、と。辻褄があわない疑問なのは百も承知だ。だが、おかしなことにオレの心にはそんな言葉がグルグルと回り始めていた。

 オレは霊能者じゃない。そういう感覚があることさえ信じない。だが、涼子と一緒に解決したいくつかの事件のように、それが偶然ではないとしたら涼子がいなくなったのにも理由がある。すべての出来事は、少なくても涼子と体験する出来事は、何かの意味が有る。これまでの事件では、犯人は解決の時に現場に現われた。

 それも涼子の能力だったのだろうか?ならば、市倉が愛香を誘拐して殺したのか?

 そこでオレは、はっと気がついた。

 階段で出会った時、やつは何と言った?オレは、ベッドに遮られて、と言ったのだ。ただそれだけのことで、やつは「七階で何を見つけた?」と言ったじゃないか。

 やっぱりやつは、犯人なのだ。それが、法的になんの根拠もないことは知っている。

 何故かそんなふうに思えた。理由はない。

だが、涼子なら、それだけで充分だと思うに違い無い。それに、オレも今ではそう思っている。そうでなければ、やつがオレを殺そうとする理由がわからない。


 オレと市倉が出会ったのは五階のドアの前だった。

 だとすれば、涼子が市倉に連れ去られたのは四階よりも下の何処かだということになるだろう。オレが、七階で四つの部屋を探し回っていたのは、せいぜい二十分くらいだったから、その間に出来ることといったら知れている。たぶん、何処かの部屋にでも縛られているのだろう。

 もう一つの可能性もあったが、オレはそっちは考えないことにした。

 まずは、携帯電話を取り出して警察に電話をかけた。少なくても、ここには二つ、死体がある。警察が動くには充分過ぎるほどの物体だ。それに、オレ一人よりも、涼子を探してくれる人員は多いほうがいい。

 次に、もう一度涼子の携帯電話にコールした。

 ひょっとしたら、涼子は携帯を持っていたのかもしれない。彼女自身が口を塞がれて話せないとしても、呼び出し音は聞こえるはずだ。

 四階のドアまで来て、オレは考えた。ドアを開けるが、呼び出し音は聞こえない。もっとも、廃虚とはいえ、こういうホテルだから防音はしっかりしているのだろう。

 いや、冷静に考えるのだ。

 市倉は、三階でうろうろしていた。前にもこの廃虚に来ているとしても、はっきりと状況がわかっているのは三階の方だ。それなら三階に涼子を隠したと考えるほうが正しい。

 オレは、ドアを閉め、三階に降りた。

 それが理屈にあった行動かどうか、すでに自分では判断できなかった。


 警察は、緊急出動したわけではないだろう。

 もはや、死体は出来上がってしまっているのだし、急いでも仕方無い。そのうえ、この雪だ。しかも田舎だ。到着までには時間がかかるかもしれない。

 警察は、待っている時には現われないものだ。

 三階の廊下は暗くて、ゆっくりと進むしかなかった。手前の部屋から順に開けては、携帯で呼び出す。それから、一通り中の様子をチェックする。今夜は、こんなことばかりしている。しかし、十部屋すべてをチェックしたが、涼子の姿は何処にも無かった。

「何処にいるんだ、涼子」

 オレは、何かが胸の奥から込み上げてくるのを感じていた。目を閉じると、頬を熱いものが流れ落ちるのを感じた。

「涼子」

 何処にいるんだ。

 警察は何をしているんだ?早く涼子を見つけないと。

「涼子」

 悲しみが体の中から沸き上がってくる。そう、涼子はいつもこれを感じていたのだろう。誰かが苦しんでいる、そういう思いが、彼女の中に入り込んでしまう。毎日、誰かの悲しみが涼子の心に入り込んでいく。いつも、いつも。

 こんな雪の日は、誰もが優しい気持ちになるんじゃなかったのか、涼子。どうしてこんなことが起きるんだ?答えてくれよ、涼子。

 オレは目を閉じた。

 真っ暗な廃虚の中で、ただ目を閉じて心を開く。もしもオレに、そういう能力があるのなら、涼子が言うように、誰にでも、その力があるのなら、涼子、何処にいるのか教えてくれ。

 ただ静かな、雪の夜の静かな静寂だけが聞こえる。

「何処にいるんだ、涼子」

 オレは目を開けた。ただ、何も考えずに足を踏み出す。きっとそれが正しい方向だと確信して足を踏み出す。

 廊下を通り抜け、ドアを開き、階段を駆け降りる。二階のドアを無視して一階の従業員室のドアを開いた。

 そして、ついにオレは彼女を見つけた。


 涼子は床に倒れて動かなかった。

 オレは何も考えられずに駆け寄って、彼女を抱き上げた。涼子は目を開けなかった。抱き上げたオレの手に、温かいぬるぬるしたものが感じられた。

「そんな」

 返事をしたじゃないか、涼子。屋上では、オレを助けてくれたじゃないか。

「涼子」

 力無く、涼子はオレの腕の中で両手を下げたままだった。

「涼子」

 抱きしめると、涙がこぼれた。

 その時、涼子が声を出した。

「涼子?」

 そっと目を開くと、弱々しく微笑む。

「圭吾、やっと来てくれたのね」

「ああ、そうだ。声が聞こえた」

「うん。圭吾もようやくわかってくれたのね」

「ああ」

 それだけ言うと、涼子は再び目を閉じた。

「おい、目を閉じるな」

 再び、涼子は目を開き、それからもう一度だけ微笑んだ。

 そして、再び閉じると、もう二度と開かなかった。


 オレは涼子を抱えて外に出た。

 もう、手遅れだとわかっていた。彼女の体は、すでに冷え始めていた。死んでいるのは明らかだった。たぶん、オレが涼子を見つけた時には、彼女は死んでいたのだろう。さっきの会話は、涼子のメッセージ。死んでいるのに話せるなんて信じられないが、もはや、それもどうでもいいことだった。

 外へ出ると、市倉の車が止まっていて、オレは、それを思い切り蹴りつけた。

 ボディーが凹んで、その音は雪に吸い込まれた。オレは息を吐き、そのまま自分の車の方へ歩いた。

 助手席を開け、そこへ涼子を横たえる。

 運転席に回ると、キーをひねった。バッテリーが弱っているはずのエンジンは、素直にかかって、ファーストアイドリングを開始した。

 ドアを閉め、オレはボンネットに腰をかけた。エンジンの振動が腰に伝わってくる。車内灯のついたガラスの向こうには涼子が眠っている。

「寒く無いか?」

 そう、言ってはみても、涼子は顔を上げもしない。

 オレは、そっと目をそらした。

 廃虚のホテルは、目の前に黒々とそびえたっていた。

 涙がこぼれそうで、オレは空を見上げた。廃虚の屋上に何かが動いたような気がした。

 目を凝らすと、それが錯覚だと思った。

 あいつは、オレが突き落とした。せめて、自分の手でやつを殺してやれたことが救いといえば救いだ。できれば、もっと苦しめてやりたかったが。

 ぼやけた廃虚が、奇妙な形で歪んで見えた。

 あの、屋上から、あいつは何処へ落ちたのだろう。

 涙を拭くと、顔に血がつくのがわかった。今では、そんなことも気にならない。あの一角から転落したのだろう。

 そんなことを考える自分が、おかしい、と思った。現実を受け入れるのが嫌で、そうしているのだ。考えまいとしているのだろう。

 あの一角から転落して・・・。

「あ」

 その下には七階の天井があった。ホテルは、七階までが各フロアに十部屋だが、その上は半分の面積しかない。

「どういうことだ?」

 どういうことでも無い。やつは地面に落ちていなかった。悪い奴ほど運がいい。

 オレは、走り出した。やつが生きているかもしれない、と思っただけで、オレは頭にきた。絶対に殺す。そういう思いが頭の中に溢れていた。

 雪のせいで思ったようには走れない。それでもオレは、フェンスにたどりつき、コーナーをまわった。

 その瞬間、赤いランプが目に飛び込んできた。

 とっさに、避けると、そいつがインプレッサだとわかった。

「このやろう」

 オレは、車に飛びかかろうとして、足を滑らせた。四駆のセダンは、フェンスに車体をこすりつけながら走り去ろうとしていた。

 オレは、自分の車に走った。雪のせいで思うように走れず、オレをいらつかせた。

 インプレッサは走り去っていた。自分の車のドアを開け、乗り込むとギアを一速に叩きこむ。チェーンを巻いたタイヤが激しく空転した。それでもプレリュードは走り始めた。ギアを切り替え、ちらっと助手席を見た。涼子が揺れていた。オレは、手を伸ばし、涼子にシートベルトをつけてやった。

 市倉は慌てていたのだろう。あちらこちらの壁や電柱に車体をこすりつけながら田舎道を走っていく。オレは、すぐに追いついた。

「さあ、どうするよ」

 二速のまま、怒りにまかせてアクセルを踏み込むとインプレッサのリアにめりこんだ。後ろからの衝撃で、やつの車は斜めに滑った。反動でこっちも姿勢を崩す。それでもやつは車を止めなかった。オレはハンドルを忙しく左右に切って車体をまっすぐに戻すと、再びアクセルを踏み込んだ。

 どすん、という衝撃でインプレッサのテールライトが割れてライトが消えた。オレはアクセルを戻さなかった。プレリュードはフロントを横滑りしてやつの車も後部を軸に回転した。オレはそのままハンドルを切って車をスピンさせた。雪の上で、それは思ったとおりに滑っていった。

 やつの車は運転席をこっちにむけて滑り、こっちのフロントと相手のリアはくっついたままくるりと回った。プレリュードとインプレッサは真ん中で折れた一本の棒のようような形で重なりあって、ドアとドアをぶつけた。プレリュードのボンネットの隣にはインプレッサの後部があり、運転席同士が隣り合う形になった。

 どしん、という衝撃でようやく車が止まると、オレはひびの入ったガラスから向こうを見た。やつもこっちを恐怖に満ちた顔で見返した。ほんの数十センチのところにやつはいた。

「殺してやる」

 オレは、ガラス越しに怒鳴り、向こうの車にぶつかって開かないドアを諦めて助手席の涼子のシートに手をかけた。涼子を踏まないように足を伸ばし、助手席のドアノブに手をかけた。

 がちゃ、とドアが開き、外の冷気が流れ込む。さらに足を伸ばして涼子を乗り越えようとした、その時、ぐっと涼子の手がオレの腕を掴んだ。思わずびくっとして涼子の顔を覗き込んだ。涼子は目を閉じて穏やかな顔をしたままだった。だが、オレの腕にはしっかりと涼子の手があった。

「涼子、行かせてくれよ」

 オレがそう言っても、涼子は何も言わなかった。


 パトライトが点滅していた。

 車を捨てて外に飛び出した市倉は、すぐに警察官に捕えられた。

 すべての事情聴取が終わり、オレは涼子が即死だったことを知った。だから、あの暗闇で涼子が目を開けたはずがないし、車の中でオレの腕を掴めたはずもない。

 けれど、警察官が手伝ってオレの腕から涼子の手を引き剥がしたのは事実だし、それから、警察のベンチで何度も涼子の声を聞いたのも本当だ。

 涼子は、誰も恨んでいない、と言った。こうなるのが運命だった、そう言って弱々しく微笑んだ。

 それでもオレは、市倉を殺したいと思っていたし、それは、愛香の母親だって同じだっただろう。理由もなく殺人を犯したやつが、のうのうと生きているなんて絶対に許せなかった。他の誰でもなく、オレの涼子を殺したやつが生きているなんて許せなかった。

 それでも涼子は、首を振った。

 誰かを殺しても、なんの役にも立たない。怒りは消えない。復讐は、どんな形で行っても報われない。そう、彼女は言って手を振った。

「時々、会いにくるから」

 そう言って涼子は再び微笑んだ。


 しばらくは、何も手につかなかった。誰の慰めも聞きたくなかった。

 ただ、毎日を涼子が再びドアを開けて入ってくることだけを願って生きていた。この世の全ての悲しみがわかったような気になっていた。誰かの悲しみが、自分の心に流れ込んでいるのを感じた。そして、何日か振りに窓を開けたとき、そこには溶け残った雪があった。太陽の光りを浴びて、それは輝いていた。

 オレは、涼子の声を聞いたような気がした。それから様々な人の笑い声を。涼子もその一人だった。


読了ありがとうございました。

この作品は、ずーっと前に書いたものの、わりと不評であったため、そのままPCの中で眠っていたものです(ブログにはアップしたことがあったかもしれないけど・・・記憶が不確かだ)

ハードボイルドな形式でホラーを書いたらどうなるか、みたいな感じで書き始めたのですが・・・

ホラーにハードボイルドは合いません、という結論に達しました・・


つたない作品を最後までお読み頂きまして、

まことにありがとうございました。

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