REVERSE 02
「桜さん。もっと強気になりましょうよ」
後輩くんは、私にはついていけない人だ。
だって、この後輩くんは、私のことを下の名前で呼ぶ。私は、先輩だっていうのに、後輩くんのことを下の名前でなんて呼べない。苗字に「さん」付けしている。
こうして下の名前で呼べるのって、海外生活が長いからかな? とか思ってみたけど。私はれっきとした日本人。やっぱり恋人でも無い異性に下の名前で呼ばれるのは抵抗がある。
「あ、あの……」
「なんですか? 桜さん」
ほら。後輩くんは、私がオドオドとして声をかけてもニコッと笑ってこちらをみてくる。そんな、キラキラした笑顔を向けてくると、こっちの心臓が痛くなる。
チクチクと痛む。注意することに抵抗を覚えてしまう。
「そ、そのさ。さ、桜さんっていうのは会社では、やめてくれる……かな?」
「えっ。なんでですか?」
「ほらっ。他の人は私のことを鈴木さんって呼ぶし。あなただけ、私のことを下の名前で読んだら……ねぇ」
私は今、どんな顔をしているのだろう。こういう言葉をいうだけでも心臓はバクバクするし。異性に下の名前で呼ばれる事に戸惑っているし。あぁ、きっと耳まで真っ赤なんだろうなぁ。だって緊張しているのがわかるもん。
でも、私たちは社会人だから。求められる礼節やら、礼儀や社会常識がある。女性のことを下の名前で呼ぶっていうのは、そういう社会通念という枠の外にあるんだと思う。
「いえ、桜さんだけでは無いですよ。下の名前で呼んでる人は他にもいます」
彼は、そんなことを言いながら、誰のことを下の名前で呼んでいるのかを懇切丁寧に話してくれる。
下の名前で呼ばれていたのは自分だけでは無いっていう。がっかり具合と、実は同じ会社でも下の名前を知らない人がいたことへのショック。
なんというか……複雑だ。
「そういう問題じゃなくて。その。ーー」
「他の人と同じがいいって事ですか?」
後輩くんは、私が言いよどんでいたことをはっきりと言ってくれた。言われたら、言われたで、自分の汚さを反省する。そうやって、言いよどむことで私は彼が自分で切り出してくれることを期待していたのだと思う。だって、彼は外資系に勤めていた人だ。頭の良いに決まっている。だから、わかってくれると。
わかってもらっても、言って欲しくなかった。
「うん……」
「そっか。ごめんなさい。鈴木さんの気持ちを考えずに呼んでしまって」
彼が私を「桜さん」と呼ばなくなった。呼ばなくなってしまえば、やっぱり寂しい。
「ごめんね。わがままで」
これで良い。と言い聞かせる私と、やっぱり他の人とは違って欲しいと願う私。わがままだ。
人に嫌な事を言わせて。嫌な思いをさせて。嫌な空気にさせて。
私は人に嫌なことしかしないのに、自分勝手。そんな自分が大嫌いだ。
おまけに、後輩くんといる時に自分の悪いくせが出てしまっている。あぁ。穴があったら入りたい。
もう、自分という空間から出たくない。
「いいんですよ。わがままなぐらいで。スズさんはもっとわがまま言っても許されます」
そんなわがままも、後輩くんは許さなかった。
見上げると、後輩くんは少し困った顔でこちらを見ている。
「だって、スズさん。会社でいつも頑張ってるじゃないですか。頑張る姿をみて、俺は刺激を受けています。スズさんが頑張った事が会社で評価されたら俺は嬉いし、チームだって喜んでます」
困った顔をしたいのはこっちの方だ。だって、なんで後輩くんに私はいきなりこのような事を言われないといけないの? わけわからない。わがままでいていいだなんて。わがままでいたら、人の迷惑になる。人の迷惑を顧みないからわがままになるんだよ。
そんな事を言いたいのに、私の気持ちは、嬉しさの方が先走って、頬が緩くなってしまう。
「スズさんは、どんなに怒られてもへこたれずに、前向きに頑張る姿。俺、大好きっすよ。だから、もっとそのスズさんでいて欲しいし。今日、怒られたのを見て、スズさんんイイところが取られそうな気がしたんです。それで、俺、謝りに来たんですよ」
会社までの距離はあと少し。会社に戻れば、またあの上司と顔を合わせることになる。普段は憂鬱だけど、この後輩くんは不思議だ。褒められてすごく嬉しい。
褒められて、手放しで喜べる。
きっと、これを癒し っていうんだと思う。
「あの。ーー君」
私は、初めて後輩君の事を下の名前で読んだ。私が下の名前で呼ばれて嬉しかったように、彼も下の名前で呼ばれたら嬉しいと思ったからだ。
でも、悲しいかな。私の声は彼に届かなかった。
地震だ。とてつもなく大きな地震。何かに捕まっていないと、立っていられない。
「スズさん」
後輩君が差し出す手が見えた。あぁ。そうだ。あの手に捕まろう。そう、手を差しのばしたはずだったんだけど。
後輩君の手は私の目の前で音もなく消えてしまった。
「えっ」
後輩君の手が消えたということは体も消えていて。地震が治った時には、もう、彼という存在は消えて無くなっていた。




