あいつのことが好きだった
女は家路を急いでいた。
勤め先から自宅マンションへと帰る途中、背後に自分をつけてくる人間の気配を感じた。
日は落ち、辺りは街灯もない。幸い、一般住宅の明かりがある。
女は身の危険を感じながらも、後ろを振り返ることはない。
何故なら、後ろを振り返り、背後の人物と目でもあったらどうなるか、予想できるところが恐ろしい。
なら何故、走って帰ろうとしないのか。
理由は複数ある。
この女、足は遅くないが、速くもない。相手は男、すぐに追い付かれてしまうと思ったのだ。
女は歩みを速めた。だが、気配との距離感は、あまり変わらないように思える。
逆に気配は、徐々に近づいてきているような気もする。
女は今までの人生で、所謂、危険な目というのにあったことはない。
それでも不安には違いない。女は鞄から携帯電話を取り出し、友人にかけた。
「・・・なに?」
特に用事もなかったが、後ろの人物への牽制として、女はこれぐらいしか思いつかなかった。
電話をした以上話さないわけにもいかない。女は友人に最近のタレントの話や、仕事の愚痴など思いつく限りの話をした。
そのうち、マンションが見えてきたころ、友人に用事だかで電話を切られた。
なんだか急に静かになった気がした。
女には自分の足音と、後ろの人物の足音しか聞こえていない。
もう一度誰かに電話をかけようか、悩んだ。
辺りには誰もいない。電話の相手だけが、自分が襲われたときに助けになるだろう。
そう思うと電話をしたくなるが、そうこうしているうちにマンション入口へとついた。
マンションの入口にはオートロックや監視カメラなどはない。
なんというか、いよいよもって女は身の危険を感じた。
入口を入っても後ろの気配は消えず、足音もするからだ。
女は階段とエレベーター、エレベーターを選びボタンを押す。
連打。上を連打連打。女はひたすらボタンを連打した。
チンという音と共にドアが開く。半分開くか開かないかを、体を横にして滑り込ませる。
中に入ったら4階を押した後は閉まるボタンを連打。
カチカチカチ・・・
黒い人影がどんどん近づいてくる。走っているのだろうか。だんだん、ハァハァ・・・という息遣いも聞こえてきた。
早く閉まってほしいという女の願いを無視するかのようにドアは閉まってくれない。
そうこうしているうちに黒い人影がエレベーターの中に入ってきた。
女の心臓はビクリと反応した。
「6階押してくれる?」
知らないおばさんだった。
ウォーキングでもしてきたのか、スポーツウェアに身を包み、なにより汗だくだった。
ともかく、女はホッとした。
廊下を歩いているときも、自分のしたことが馬鹿馬鹿しく思えて仕方がなかった。
自分の部屋に入ったとき、人がいることに気付いた。
女は不意のことに一瞬驚いたが、恋人であることに気付いた。
・・・元、だが。
「もう来ないでって言ったでしょ。」
女は呆れたように言う。先日別れたばかりだった。
「なんで僕と別れるなんていうんだ。」
「気持ち悪いから。マザコンだなんて聞いてなかったし。」
そう言ったとき、女は男の手に包丁が握られていることに気付いた。
女は一週間後、仕事の無断欠勤を不審に思った上司に、死体で発見された。
その後逮捕された元恋人の男は、
「あいつのことが好きだった」
と刑事に言ったとか言わないとか。