それぞれの幸せ1
「私は、確かに郁のことを恋人に抱く感情は持っていない。でも、私は幸せだった。それなのに、どうしてその幸せを壊そうとするの……? 郁が私に恋愛感情を抱いてないのは知ってる、それに郁が自分の感情に疎いのも、不器用なのも知ってるよ? だけど、私は郁じゃないと駄目なの。
そんな郁だから、私は付き合ってと頼んだの。今更、私を見捨てるの、あの先輩みたいに!」
意志の宿らない目で、こちらを見た。
ゾッとした。まるで、意志の宿らない生きているだけような感じがして、鳥肌が立つ。
憎しみも、悲しみすらも宿らない美歌さんの目を見て、この人が抱く心の闇の深さを知った。
その深さに、言葉を失う。
だけど、郁人さんだけは違った。
「俺は素直に生きると決めた、本当に好きな人と付き合って、気持ちを素直に伝えたいと思った。
見捨てる訳じゃない、むしろ美歌の幸せを願ってるからこそ、俺じゃ駄目なんだよ。
美歌、もうその我儘を聞いてあげることは出来ない。俺は不器用だから、傷つけないで美歌の幸せを優先することが出来ない、だから俺のこと恨んでくれて良いから、好きな人と傷つけ傷つけられることを恐れずにもう一度素直に人を愛して欲しい」
強い意志を、真っ直ぐに美歌さんにぶつけた。
その表情に少しだけ鼓動が早くなる。
……羨ましい、そう思った。
この人に想われる人がどんな人なのか、どうしてかとても、とても気になった。それに、私は郁人さんにも幸せになって欲しいとそう思う。
「なら! 好きな人が郁だって言っていたら、郁は私の側に居てくれた? 私は嘘ついてでも、郁の側にいたい。私は好きな人じゃなくて、郁じゃないと駄目なの……。もう傷つきたくない、裏切られたくない。愛されなくて良いから、むしろ今の私は愛がない方が良い! それが私の幸せなの……、だから私は好きな人でさえたくさん嘘つける。そんな奴を誰が好きになってくれると言うの?
誰も、そうありたい私の気持ちなんてわからないのよ! 理解してくれようともしないわ!」
傷つきたくない、その気持ちはわかる。
誰だってそうだ。
だけど、美歌さんの言い方はまるで、自分だけが酷い目にあったと言うような悲劇のヒロインのような言い様。
……裏切られるのは確かに辛い。
だけど、誰が死んだ訳じゃないのにね。
それで、家庭が壊れかけた訳でもないのに、誰にも自分の気持ちはわからない? 辛い思いをしたのは、美歌さんだけじゃないのに彼女は周りを何故見ようとしない?
由浅さんだって苦しい思いしてきたんだよ? それなのに、話さないで、誰も自分のことを理解してくれないだって? それは当たり前でしょう、美歌さんの気持ちは美歌さんにしかわからないのだから、何も話さないで理解してもらおうだなんて都合が良いんじゃないか?
私は苛つき、思わず言った。
「そりゃ、理解してくれませんよ。だって美歌さん、話そうともしてないじゃないですか。
理解してもらおうと努力してないじゃないですか。それじゃ、誰も理解しようともしてくれない人の多いとも思いますよ、理解してもらおうと努力してない人の話を聞くほど優しい人間ばかりじゃないと思うけど?
まあ中にはいますよ、すごく優しくて理解しようとしてくれる人。でもさ、いつまで経ってもそんな態度を頑なにしていたら、いつか離れていくのは当たり前でしょう? 変わろうとしないのに、理解して欲しい? それは都合が良すぎるんじゃない?
私だったらいつか見離します。残酷なことをしてるのはわかっていても、信じてもらえないのは辛く、悲しいことだと思います。つい最近までの私は、親身に相談に乗ってくれる吉昌先生も、良い態度とは言えない対応しても笑顔でいてくれる由浅さんも拒絶してました。今まで優ししてくれる人なんていなかったから、助けてくれる人もいなかったからそんな二人が信じられませんでした」
声が震えてきて、一回話すのをやめる。
そして勇気を掻き集めて、すぅっと息を吸って私は美歌さんの目をみてこう言った。
「私は幼い時、母を亡くしました。
唯一の味方、そして私が好きな時に笑える状態であるための砦だった母。私は、周囲から見れば優秀な人間だったらしいのです、だから嫉妬をたくさんされ、味方が誰もいませんでした。私、不器用ですからどう味方を作っていいのかわからなかったですし、味方を作ることも諦めました。父は私を見ようともしてくれませんでしたしね。
優秀、それは所詮私じゃない人間の評価です。私は性格面に劣等感を感じていました、それに才能があったとしてもその人が幸せになれるとは限りませんし、それなのに嫉妬をしてきた彼女らが羨ましかった。だって、その時の私は人間らしさがなくて、負の感情でさえも抱けることが羨ましかったんです。当時、私には羨望と諦めしか感情を抱いてなくて、そのうち羨ましがることも諦めました。
夢を見ることも諦めました。ほとんどのことを諦めた時、私は吉昌先生に助けてもらった。そして、吉浅さんにも助けてもらったんです。だから、助けてくれる人達のために、そして私のために変わりたいと思いました。裏切る人ばかりじゃない、そう思います。
友達なら、親友なら信じてあげてください。それが美歌さんが変われるチャンスになると私は思います。
出来るなら傷つけたくない、それは誰だって思ってますよ。だけど、完全に誰かを傷つけないのは無理なんです。現に、あなたが言い始めたことにより、郁人さんも由浅さんも傷つけた。それに誰かを傷つけること、誰かに傷つけられることを恐れているのはあなただけじゃないし、それに辛い思いを、苦い思いを、悲しい思いをしてきたのは美歌さんだけじゃない!
完全に他人の考えは理解は出来ませんけど、理解しようと努力することは出来ます! その気持ちを見て見ぬ振りをしてきたのは美歌さん、あなたの方だと思います」
ここまで自分の意見、言ったのは初めてのことだった。いつもは淡々とした口調なのに、少しだけ声に怒りの感情を込められたのは母さんが亡くなってから数回もないことだ。
……母さん、私は変われてますか?
内心、静かにそう聞いた。
答えは返ってこないけれど、私はそれで満足だった。だって、優しい母さんなら変われてるって言ってくれているような気がするから、それで良い。
「……あなたに何がわかるのよ……」
「それがいけないって言ってるんです」
私は美歌さんの言葉を否定した。
すると、その言葉を言った途端、美歌さんは怒りからか、顔を真っ赤に染め上げて……。
「わかってるよ! このままじゃいけないことくらい! だけど、変わるのが怖いの!
また、恋に盲目になり過ぎて、郁のことを信じられなくなるのが怖いの。……恋に依存し過ぎてしまうのが怖いのよ! だから、本当に好きな人と付き合わないとそう決めた! それで、郁を縛るって言うのはわかってた。いつか解放してあげないとってわかってたけど……、その日が来るのが何よりも怖かった……。
辛い思いをしてるのは、私ばかりじゃないって知ってるの、わかっているの! でもね、由浅に会って、純粋な想いに触れてもう一度恋をしたい、恋をしようって何度も思ったけど、あと一歩が踏み出せなくて、傷つくのが怖くて傷つけるのが怖くて、だから郁に甘えてしまって、私を好きでいてくれる人を結局傷つけてしまった。申し訳ないって思うけど、自分の身を優先してしまう私が、誰かに好かれて、愛し愛される資格なんてないはずなのにね……?」
恋したことがないから、私には美歌さんの気持ちはわからない。だから、下手にそうですねとは言えない。
……軽々しく言わない。
だけど、これだけはわかる。
「人に嫌われること、恐れていない人は誰もいないと思います。それが人らしさなんだと私は思いますよ。
それに、美歌さんを好きになるかどうか決めるのは相手の方です。あなたが愛される資格があるか否かを考える必要なんてないんです。あなたに惹かれる部分があったからこそ、好きで居てくれるんです。あなたの幸せを心から祈るんです、例えそれが叶わない恋だとしても。その気持ちだけは、どんなに相手を傷つけたとしても否定しては駄目だと私は思います。
もう、あなたを傷つけたあの先輩はいないんです。美歌さん、自分の気持ちに嘘をつかないで。
これ以上嘘を塗り重ねないでください」
……美歌さんも、不器用だなぁ。
私と、郁人さんと同じく。
「郁人さん、行きましょう。美歌さんは一度、由浅さんと二人で話し合う必要があります」
「……そうだな」
そう言って、二人からの制止を聞かない振りをして、私達二人はこの喫茶店から一時的に出た。
「一時間経ったら戻ります」
そう言い残して。