夢見ぬ乙女は夢を見ない3
吉昌先生は、私のことを静来と呼ぶ。
だけど、人前ではそう呼ばない。
別に人前でそう呼んで欲しい訳じゃない、だけど苗字で呼ぶ時の吉昌先生はとても悲しそうな顔を時々、本当に時々するのだ。
どうして、そうは聞かない。
私が聞いてはいけないのだ。
私だって、話していないのだから。それに、一線を引いておかなければ……。
私は、あの二人に弱さを見せてしまいそうになる。だから、私のことを話してはいけないの。
……頼りにしたくなってしまう。
だけど、それは駄目。私は、夢を見ることは諦めた。……いや、どうやって夢を見て良いのか忘れてしまった。
「静来、今日は進路の話はしない」
そう言われたので驚いた。では、何故進路の資料を探していたのかとそう考えながらも、驚きを表情で表現出来ず無表情になってしまう。
それを分かっているのか、吉昌先生は少しの間だけ苦笑した後に直ぐに真剣な表情へと変わった。
「これを見てくれ」
そう言って、差し出してきたのはとある大学のパンフレット。今まで、一度も勧められたことがない大学のものだった。その大学の名前を見て、私は自分の意志関係なく言ってしまう。
「吉昌先生の母校……」
そう言えば、吉昌先生は懐かしげに、だけど何処か悲しげに笑って、「良く覚えてたな」と小さく呟いた。
「そう、ここは俺の母校。そして俺の嫁の母校でもあるんだ。うちの嫁、静来のような性格をしててなぁ、だからつい静来にお節介を焼いちゃうんだ」
そう言って、吉昌先生は無理して笑った。
……まさか、と思った。
そう思った瞬間にヒュッと喉が鳴る。
「嫁はな、由浅の妹を産んでから二年後に乳がんで亡くなった。ピアニストとして活躍するために、嫁はたくさんの努力をしてやっと認められた時に」
それを聞いた瞬間、一瞬だけのことではあったものの、息する仕方を忘れてしまいそうになった。
……なら、なんで?
なんでそんなに笑っていられるの?
そう思いながらも、声が出なかった。
「嫁が冷たくなって、もう一生喋らなくなった時、俺は表情筋が動かなくなった。笑えなくなって、悲しいのに泣けなくなって、生活は荒れたよ。
俺はね、元々は俳優だった。舞台を中心に活動していたからテレビにはあまり出ないし、気づかない人の方が多いと思うけど、舞台が好きな人の中ではなかなか有名な方だったと、のちに舞台仲間からそう聞かされたのは懐かしい思い出だ。
俳優辞めてさ、ショックで仕事もろくにしなくなってから二年が過ぎた頃、由浅が必死に俺に笑いかけてきたんだ。あの子も悲しいはずなのに……。
「母さんは星になって僕らを見守っているんだ。もし、僕だったら泣いている姿を見たくはないから。笑っていて欲しいから、だから僕はたくさん笑う。父さん、悲しいならたくさん泣いていて良いよ。父さんが笑えるまで僕が代わりにたくさん笑うから」とそう言われたんだ。
まだ、小学生にもならない時だったのにはっきりとそう言っていた。幼稚園に入る時から、良く本を読む子だった。だから、塾に行きたいと言われて好きに通わせていたら、親バカだと思うかもしれないが、賢い子に育っていた。
夢見がちな子だけど、本当の意味で賢い子だと思う。俺が苦しい時、いつもあの子は助けてくれた。
今の俺がいるのは、あの子のおかげ。
それと、今こうして生徒である静来と話していられるのは、嫁が「あなたの教え方はわかりやすいから教師の勉強しておくのも損じゃないんじゃないかしら?」って勧められて、鵜呑みにして学んだおかげなんだ。俺は弱い、たくさんの人に支えられて今まで生きてきたんだ」
悲しげに笑っていたのが、花芽さんの話になった途端、愛しげに優しげな微笑みを見せてくれた。
内心、そんな悲しげな表情なんて見たくないと思っていたから、いつもの微笑みが戻って良かったと思った。
だけど、上手く声が出なくて、それを上手く言葉にして伝えることが出来なかった。
「あの子と関わることで静来が変われるきっかけを作ってくれると思う。だから、恐れることはない。
あの子は人以上に人の痛みが分かる子だ、静来を傷つけるようなことは滅多にないと思う。由浅は絶対に、静来のことを裏切ったりはしない。無理に心に踏み入れることもしない、だからたまにで良い、由浅の話に付き合ってあげて欲しいんだ。
初めてだった。由浅に妹がいるって言っただろ、あの子は狂気に飲み込まれてしまったんだ。
二歳の時、由浅の妹……卯翠で自分の母親と永遠に会えなくなってしまった。だから、そのせいで卯翠だけはいじめられたことだったり、それに対する孤独であの子の心は壊れてしまったんだ。
卯翠は、由浅に嫉妬した。自我がはっきりしている時まで側にいることが出来た兄を。……ある日、嫉妬を抑えきれなくなり、卯翠は由浅の首を絞めた。
今は卯翠は嫁の母親のところにいるよ。
だから、由浅は……。静来の話を聞いた時、静来が何かに耐え続けていることに気づいたらしい。あ、でも、静来の考え方に惹きつけられたのは事実みたいだがな。
大胆なことに、あの日待ち伏せをした。
静来、由浅はお前の気持ちを完全に理解出来ないと理解してる。無理に静来の良いように合わせようとしないだろうと思う。
だけど、静来の考えを出来るだけ理解してくれようとしているだけは保証しよう。
だから、天邪鬼なままで良い。
完全に信頼しようとしてくれなくて良い、だけど由浅の良さを見て見ぬ振りをすることだけはしないと約束してくれないか?
由浅は本当に静来と仲良くしたいと思っているんだ、その気持ちだけは信じて欲しい。この前確認した、「卯翠に出来なかったことを静来にしてやろうと思って近づいたなら近づくな」そう言う意味を遠回しに含ませたことを言ったんだが、逆に怒られてしまった。由浅に怒られたのは片手で数えきれるくらいだったか、だからそれだけ真剣に静来と向き合うつもりなんだよ」
その言葉に、私は言葉を失った。
吉昌先生の過去の話も。
花芽さん……ううん、由浅さんが過去どんな思いでいたのかを知って、私は何も言えなかった。
吉昌先生が俳優だったってこと、あまり対して驚かなかった。普通にしていても人とは違う何かを、何か惹きつける何かを吉昌先生は持っているから。
今の吉昌先生がいるのも、今の由浅さんがいるのも、辛いことも悲しいことも嬉しいこともたくさんあって、それを乗り越えてきたからこそ、今の彼らがいるんだと思った。
だから、辛い過去をどうでもいいと無理に思う必要はないんだとそう吉昌先生の話を聞いて気づいた。
「吉昌先生、私変われますか」
「変われるよ。だって静来は夢を見ないって決めたんだろ。だから、そう言ったと言うことは……、有言実行するってことだろう? だから、夢見がちな息子の相手して、人と話すことに慣れることから始めような」
「……はい」
私が変われるかとそう聞いた時、変われると吉昌先生は断言してくれて。
吉昌先生の言葉に返事をした時、いつもより少しだけ、声に感情を込められたような気がした。