新しい日常のはじまり
「イヤァァァアアアアア――――――――――――――ッ」
うら若い乙女の断末魔の悲鳴が木霊する。
もし、この悲鳴が上がったのが夜だったり、あるいは音源が路地裏のような場所だったならば正義感の強いローズは放っておかなかっただろう。
しかし、時刻が朝で、場所が西方軍司令部の中となれば暴漢の可能性は皆無である。しかも、悲鳴の主が誰なのかも、その彼女に悲鳴を上げさせたのが誰なのかも知っているとなればなおのこと。
ローズは立ち上がろうという素振りすらみせず、ただ執務机で書類に走らせていたペンを止め、冥福を祈るように数秒だけ黙祷。その後何事もなかったかのように再びペンを動かし執務へと戻った。
「あのぅ………………姉様」
悲鳴の残響が消え去るまでたっぷり一分近く固まっていたエバー・ゴールド少尉が恐る恐るローズに話しかけた。
「なんだ?」
「本当に……よかったんですか?」
何を、とエバーは言わなかったが、そもそも事の発端がほんの数分前であり、その現場がこの執務室なので言及する必要もない。
「かわいそうだがしかたない」
元々、口数の少ないローズは顔をあげさえせずに一言そう答えただけで済ませた。
上官にそう言い切られてしまえばそれ以上エバーに言いすがることはできない。本当にいいのかなぁ、と思いながら開け放たれたままの執務室の扉をただ眺めるしかなかった。
そうして、エバーが呆けていたのはおそらく三十秒に満たないだろう。しかし、
「暇そうだな」
ローズに冷やりとした声で告げられてエバーが我に返る。
「すっすみませんッ!」
「呆けてる暇があったらさっさとその見積り終わらせなさい。仕事は山ほどあるんだ」
山ほど、というのは比喩ではなく現実だ。エバーに割り振られた分だけでも書類は山と表現して差しさわりがない。しかし、エバーの表情には眼前に山と積まれた書類に対する辟易は見られない。それどころかやる気に満ちてさえいる。
軍の書類は閲覧権限が厳しく決まっているものも少なくない。士官学校を卒業したばかりのいわば見習い期間である准尉には手伝いたくとも手が出せなかった。しかし、今のエバーは少尉に昇進し、仮とはいえ副官に任命されているので一通りの書類には目を通せる。手探りで仕事を覚えながらなので効率は悪いが、それでも見ているしかなかった初夏を思えば微力でも力になれているという充実感が勝っていた。
「ハイッ」
勢いよく答えてエバーが仕事を再開する。
エバーが仕事に戻ったのを確認して再び書類に視線を落としたローズの口元にわずかな笑みが浮ぶ。が、その直後、
「ローズッ!」
先ほどの悲鳴の主が今度は怒りの咆哮を上げて突進してきた所為で下を向いたままの顔に浮かんでいた笑みはすぐさま消え失せ、代わりに眉間に鬱陶しさを表すシワが刻まれる。
「なん……――ッ!」
あまりの大声に眉間にシワを寄せながら持ち上げたローズだが、その姿を見た途端、今度は込み上げてくる笑いの衝動に堪える羽目になった。
「何?」
怒り心頭のスカーレット・ラフレーズ少佐がドスの効いた声で問う。
「感想があるなら聞くわよ?」
と、言われても笑いを堪えなければならないような惨状に素直にコメントできるはずもなく、さりとて普段から舌足らずなローズには即座にうまい言い回しも思い浮かばない。
それでも友情の力か、単なる自制心の賜物か、ローズが笑いを漏らすことはなかったが、同じようにスカーレットの現状を目の当たりにしたエバーは笑いを堪えきれなかった。両手で口を覆って額を机に押しつけるようにして溢れてくる笑いを堰き止めようと努めていたが、漏れ出た笑いだけが響く気まずい数秒の後、
「……す……涼し……そうだな」
他には言葉を思いつかずローズはそう表現した。
「ええ、おかげさまでね!」
しかし、今のスカーレットには嫌味にしか聞こえない。怒りか、羞恥か(おそらくはその両方)で顔を真っ赤にしながらスカーレットが精いっぱいの皮肉気を込めて返す。
ローズが、涼しそう、と遠回しに表現したスカーレットの現状は一言で言ってしまえば丸坊主である。ポニーテールに結っていた自慢の長髪は見る影もなく刈られ、しかも、抵抗の証か妙なムラがあり、それが一層情けない。
「他人の所為にするとは情けない」
遅れて執務室に戻ってきた加害者――もとい執行人の一人であるヴァイオレット・ティリアン大佐が嘆く……というよりその厳格な口調で叱責する。
「准将の所為ではなくアナタ自身の責任でしょう、少佐」
「――ッ」
ヴァイオレットの声に反応して振り返りはしたが、スカートは何も言い返さず押し黙る。
「わかったらさっさと仕事に戻りなさい。じゃれている暇はないはずでしょう。アナタもですよ、少尉!」
火の粉が抱腹絶倒していたエバーに飛ぶ。
「はひ……クク……す……すみま……クク……せん」
それでも笑いの収まらないエバーにため息を一つついてからヴァイオレットは自分の席に戻って仕事を再開する。
まだ怒り冷めやらぬ雰囲気のスカーレットも、ヴァイオレットのいる前でこれ以上言い募ることもできないと判断したらしく、ローズを恨みがましく一瞥してから荒々しく自分の席に腰を下ろした。
「ふぅ」
柄にもなくローズの口から深いため息が零れる。
なぜスカーレットがヴァイオレットに丸刈りにされたのか?
発端は五日前に遡る。
イースウェア軍との決戦の日から十日経ったその日、ようやく警戒態勢が解かれローズ率いる第二旅団は南塔の防衛を引き継いでクレプスケールの司令部に戻ってきた。そこで追加の物資輸送部隊を率いてきたスカーレットと合流した。
「ヴィオラ、彼女が招聘したスカーレット・ラフレーズ少佐だ。スカーレット、こっちが副隊長のヴァイオレット・ティリアン大佐だ」
「ご紹介に預かりましたスカーレット・ラフレーズです。よろしくお願いします」
「よろしく、少佐」
ローズが両者を紹介した後、スカーレットからあいさつし、ヴァイオレットもそれに応じた。ここまでは普通の流れだったが、
「少佐中央軍ではどうか知りませんが、西方軍では軍規は厳しく守られています。西方軍に転属してきた以上軍規は守ってもらいます。名家の出だろうと准将の友人であろうと特別扱いは致しませんから、そのつもりで」
特別扱いはしない、という釘刺し。
ヴェニティーの直属上官として厳しく接したために左遷されたというヴァイオレットの経歴を考えればその一言はそれほどおかしいものではない。それに西方軍ではヴィクトール主導の下貴族派を一掃するために慎重な人事を行っている。ローズもヴァイオレットと話し合って今が多少厳しくとも採用する人材は慎重に選ぶことに決めていた。
だから、ローズはこのときヴァイオレットがスカーレットの髪を見咎めてのものだということに気がつけなかった。
「は、はい」
ヴァイオレットのある種高圧的な態度にほんのわずかに眉間を狭めた以外には感情を表さずにスカーレットが答えた。
「まあ、少し頭は固いが悪いヤツじゃないから」
少ししてヴァイオレットが遠ざかってからローズはそう囁いた。
二度目は上々とはいかなかった初顔合わせから三日後――つまり一昨日。
「ラフレーズ少佐!」
間の二日間病み上がりのヴァイオレットには半ば強引に休暇をとらせていたのだが、二日で充電して体力の回復した彼女は戻って来るなり姑のようなうるさい小言がさく裂させた。
「何ですかその格好は!?」
たしかにその日のスカーレットは、髪は結った――というよりは梳く暇なくただまとめただけのボサボサ、軍服もシワだらけという惨状でヴァイオレットでなくとも少し眉が釣りあがる程度には乱れていた。
「……すみません」
スカーレットも自分の身なりが酷いことを自覚していたので素直に謝ったのだが、
「すみませんではありません! 将校は兵に手本を示さなければならないのですよ!? それをアナタは……」
「ヴィオラ」
それでも説教を続けようとするヴァイオレットをローズが制止した。
「スカーレットは普段はちゃんとしているんだ。ただ、こっちに越してきたばかりのところにこの仕事量でペースがつかめていないだけなんだ。だから、少し猶予をやってくれ」
別にスカーレットが友人だから弁護したわけではない。王宮勤めの近衛騎士であったスカーレットが身なりにルーズなわけがない。本当に仕事量押され、新しい環境に戸惑う中で崩れてしまっているだけなのだ。
「……わかりました。准将がそうおっしゃるなら今日のところは大目に見ましょう」
旅団長が呼び寄せた友人を麾下に加えたばかりか、甘い対応をとることは規律の乱れに繋がるので許容したくはないのですが、という抗議の視線をローズに突き刺しながらもローズの顔を立ててヴァイオレットはその場を収めた。
「ですが、その髪はどうにかなさい! もし、明日改善がみられなければしかるべき対応をとります。いいですね!?」
最後の『いいですね!?』はスカーレットだけでなく、ローズにも、二度目はありませんよ、と念を押していた。
「……了解しました」
スカーレットはちゃんと答え、ローズは仕事に戻ることで肯定を示した。
昨日は事務仕事ではなく外での仕事を割り振られたスカーレットとローズと会議に出ていたヴァイオレットは顔を合わせることなく過ぎた。
そして、今朝(およそ十分前)
「少佐、一昨日私が言ったことを覚えていますか?」
眉間にシワを寄せたヘビが睨みつけならが静かに問い、
「……はい」
身を竦ませたカエルがバツの悪い声で答えた。
「ですが、昨日はその任務が遅くまでかかってしまい……」
「言い訳無用! 大体本来なら昨日の時点で改善してくるように言ったはずです!」
一喝されてスカーレットがさらに小さくなった。
「ついてきなさい」
命令され、それ以上言い訳することもなくスカーレットは立ち上がった。
「姉様、大佐が言ってた『しかるべき対応』って……新兵のアレですか?」
ヴァイオレットとその後ろに鬱々と従って執務室を出ていくスカーレットを見送ってからエバーが尋ねる。
「? アレはないだろう。別にスカーレットは軍規違反したわけじゃない」
「でも、スカーレットの髪長さ的にアウトじゃないですか?」
と、エバーに指摘されてはじめてローズはスカーレットの髪が軍規に違反していることに思い至った。
ルディア軍の軍規では男女問わず髪は肩に掛かってはいけない決まりになっている。もちろん伸ばすことも認められているが、その場合はヴァイオレットのように職務中は肩にかからないように結わなければならない決まりになっている。この規則はあのヴェニティーでさえ(少なくとも他の将校の目がある場所では)守っていた。
スカーレットは長髪をポニーテールに結ってはいたが、結ってなお肩甲骨まで届くほど長いのだ。
「あ――」
まるで頭を抱えるような位置で髪をかきあげる手を止めローズが呻く。
「気づいてなかったんですか?」
「あの姿でマーガレットの近衛やっていたのに慣れていたからな……」
「スカーレットさんは自覚して……」
「ない……だろうな」
ローズの知る限り、スカーレットはほぼポニーテールで統一していたし、中央軍司令部に報告に行った時もそのままで咎められることもなかった。それに思い返せば、王宮を警備していた近衛騎士たちも髪型はかなり自由だった。中央軍も西方軍も軍規は同じはずだが、おそらく軍規違反が半ば公然と認められているのだろう。
「…………」
数拍、頭を痛めるように髪をかきあげながら考える素振りを見せてから、ローズは自分の中で結論を出してそのまま仕事を始めた。
「姉様、止めに行かないんですか?」
「ああ。ヴィオラが全面的に正しいし、それに誰でも経験することだからな」
そして、直後にあの悲鳴が聞こえてきたわけである。
「まったく何なのよっ! あのお局大佐はっ!!」
久しぶりに三人そろっての家路を歩きながらスカーレットがヴァイオレットの前では口にできなかった不満をぶちまける。
「わかったから声を落としたら?」
「ローズ、貴女も薄情じゃない!?」
「私もアナタの髪が軍規違反ってことは気づかなかったんだ。それに軍人なら誰でも一度はその頭を経験するんだ薄情ってほどじゃないだろ」
「そーですよ、スカーレットさん。私も姉様もみんな士官学校に入ったときに丸刈りにされたんですから気にすることないですって」
エバーも慰め、なだめようと試みるが、朝スカーレットの頭を見て抱腹絶倒した人間が、気にするな、などといっても説得力は皆無である。
「アラ? エバーはやさしいわねぇ」
ローズに噛みついていたときとは打って変わって背すじが凍るような笑みを浮かべながらエバーの髪を一房すくいあげ、
「なら、エバーも私に付き合って同じ髪型にしてくれる?」
「え……あの……それは……」
「こら、エバーを巻き込むな」
本気ではなかったのだろう、ローズが注意するとスカーレットはすぐにエバーに絡むのをやめたが、ガックリと肩を落とした。
「この年で、一人丸坊主ってもう一種の晒し刑よ、これ」
たしかに少佐という中堅の階級で丸坊主は一種の懲罰だった。
せめて騒動が司令部の外で起こったなら自主的で済んだはずなのだが、悲鳴を上げるほどの大さわぎを起こしてしまったので昼過ぎにはほぼ司令部中にヴァイオレットが何らかのバツとしてスカーレットの髪を刈ったという話が広まってしまったのだ。
「髪型くらいで大袈裟な」
しかし、ローズはあえて一笑する。
「髪なんてすぐに伸びるし、みんな見慣れれば笑ったりしなくなるでしょ。私が士官学校に入ったときだって二人ともノーリアクションだったじゃない」
「そりゃ貴女はね!」
一緒にしないで、とスカーレットが抗議したが、ローズはそれにとりあわず、前方を見据えて目つきを険しくする。
エバーもスカーレットも問うことなく視線の先を追ってその理由を理解した。
今は無人であるはずのローズ屋敷から炊事の煙が上がっているのだ。屋敷は街から少し離れたところにある。
「盗賊? それとも空き巣かしら?」
「わからない」
普段なら街の周辺や街道沿いは軍が定期的に警邏をしているが、つい半月前まで厳戒態勢で今も内側に向ける余力のない西方軍は街道や街周辺の警邏がおろそかになっているためどちらの可能性もあり得る。
「街に戻って応援呼んできますか?」
「いや、私たちで確認してからにしよう」
三人とも軍人で、しかもローズとスカーレットは腕に覚えがある。もし、盗賊だとしても十人程度なら十分叩き伏せられる自信があった。
正面から見えないように迂回して門を避けて壊れている塀を乗り越えて庭に入る。
「塀くらい直しなさいよ」
手入れされた屋敷で暮らし慣れているスカーレットが呆れたように囁く。
「うるさい。今はいいだろそんなこと」
慎重に手近な窓の一つから屋敷の中を覗いてみるが誰も居ない。
しかし、煮炊きの煙が上がっている以上、キッチンには誰かいるはず、と考えてそのまま屋敷の裏手へと回わると、トントンと何かを刻む音が聞こえてきた。誰かいることは間違いない。
そっと窓から覗き込むと、
「クーシェ?」
中では負傷し、入院中のはずのクーシェ・ソレイユ少尉が料理に勤しんでいた。
「あれ? ロー姉そんなとこから覗き込んで何してんの?」
「今日退院だったのか?」
表に戻るのも面倒だったのでそのまま勝手口から入り、事情を聞く。
「うん。ギプス取れるまではまだかかるけど抜糸は済んだし、杖あれば日常生活できるからって許可降りたから」
先の戦いでクーシェはエバー同様一個小隊を率いて最前線の避難誘導の警護についていたが、その任務の最中敵兵に襲われた。そのとき、クーシェは村の子どもを庇って敵兵の間に割って入り傷を負い、さらに村人の避難の時間を稼ぐために戦ってメイスの一撃を受けて足を骨折していた。しかし、その甲斐あって村人は全員無事。部隊も負傷者を出しただけで何とか撤退することができた。
「言ってくれればエバーだけでも休ませたのに」
「だから言わなかったの。忙しいのに休んでまで手伝ってもらうようなことじゃないし。着替えてきてくださいもうすぐできるから」
「なんか手伝う?」
ローズに続いて入ってきたエバーが片脚を引きずって台所に立つ親友を気づかって手伝いを申し出る。
「じゃあ、着替えてからでいいから運んで。この足だと運ぶのはちょっと」
「ほーい」
と、答えエバーが駆け出した。
「スゴイ豪華ね」
ズラッと並んだ料理を見渡しスカーレットが素直な感想を述べ、
「私の退院祝い兼スカーレットさんの歓迎会のつもりで腕を振るいました」
クーシェがグッと力こぶを見せるようなポーズで誇り、
「祝われる側に料理を作らせて……なんだか悪いな」
ローズがケガ人に料理させたことに罪悪感を覚え、
「いいんですよ、姉様。どうせ大半がクーシェのお腹に入るんですから」
エバーがサラッと片づける。
名家出のスカーレットが豪華と表現しただけあってクーシェが作った料理はかなり豪華なものだった。もちろん、宮廷料理のような豪華さではないが、それでもちょっとした祝い事並みの料理が所せましと並んでいる。軽く十五~二十人分はあるだろうか。
「好きで作ったんだから気にしないでください」
「わかった、じゃあ……」
グラスを持ち上げ、
「クーシェの退院とスカーレットの西方軍転属を祝してカンパイ」
「「「カンパイ」」」
「おいしい! クーシェは料理上手なのね」
「食べることが楽しみですから。だから入院中はつまんなくて」
「ひもじくての間違いでしょ?」
女四人の食卓はのっけから会話が弾む。クーシェは入院中の出来事を話し、ローズたちは最近司令部であった事件を語って聞かせた。
そして、食事が終わりに差し掛かったとき、
――退院おめでとう
静かな声が四人の頭の中に響く。
「ありがとーアルさん。アルさんもお帰り」
――ただいま。ところでローズ、オレを除け者にして宴会か?
少し拗ねたふうにアルコンティアが問う。
「そんなわけないだろ。事情はわかるだろう」
――冗談だ
まったく、と苦笑する。
――よかったな
アルコンティアが今度はローズにだけ囁く。
(ああ)
クーシェが無事退院し、スカーレットもいろいろあるが西方軍に馴染みはじめ、こうして他愛もない話に花を咲かせて食事を楽しめる。何もかもうまくはいっているわけではないが、それでも今はこれ以上は望めない。
ローズの新しい日常が少しだけ騒がしく始まった。
あらすじのところにも書きましたが、花粉症シーズンを乗り切るまで更新ペースを十日に一度に落とさせてくださいm(_ _)m




