第十九章 決戦
「動くなとはどういう意味です、准将」
「そのままの意味だ、サンドル中尉。出撃は許可しない」
サンドル中尉は緊急動員によって招集された部隊の一つを任されている。その彼女が出撃許可を求めてきたのは南塔奪還から一夜明けた日の朝。しかし、その要請をローズは『動くな』の一言で斬って捨てた。
「なぜです!? このままでは地域一帯の住民たちが……」
「生きている住民の大部分はすでに避難を終えている。あえて残っている者、非難できない者ももちろんいるだろうが、彼らのために国民全員を危険に晒すわけにはいかない」
「確かにそうですが……」
「くどい。挑発に乗るな。打って出ても勝ち目はない」
ルディア軍もイースウェア軍もお互い攻めるに攻められず、後続の到着に命運を委ねている状況だが、状況はまったく同じではない。
ヴェニティー率いるイースウェア軍先陣は昨日の戦い――特にアルコンティアの奮闘によって三千の兵を失い、その数はおよそ五千に減じ、攻めるには戦力が不足している。これとは別に飛竜部隊二千がいるが、こちらはクレプスケールの西方軍司令部を牽制しているので即座には動かせない。
対して、ローズ指揮下のルディア軍は第二旅団の残兵が千数百、ウンディーネの騎士団がおよそ百、それに緊急動員でかき集められた兵がおよそ二千で合計三千五百に足りない。数の上では南塔に籠もって守りに徹する分には十分だが、その実は寄せ集め。配備を定め、守りに徹すればともかく、打って出て柔軟に素早く指揮に従うなど到底不可能だ。
「では……このままユルレモント一帯を焼き払われるのを黙って見過ごせと!?」
感情剥き出しで訴えるサンドル中尉の言葉にローズの眉間にシワが刻まれる。
サンドル中尉の言葉の通り、イースウェア軍はルディア軍を南塔から引きずり出すために一帯に火を放つという手段に出た。今も今朝方放たれた火が黒煙を上げ、燃え広がりながら、麦を消し炭に変えている。
もちろん、ローズは両軍の戦力――その内実の違い考えればイースウェア軍が何らかの徴発によってルディア軍を塔の外に誘い出そうとすることは予測していた。しかし、それに対応することは現実的に不可能だ。侵攻からすでに八日。当初の略奪虐殺を免れた住民たちはすでに避難を負えている。住民の生命が守られるならば物的損失は堪えるしかない。
「一帯の田畑を焼かれたら生き延びたとしても住民たちは……」
「さっきも言ったはずだ。打って出ても勝ち目はない、と。出撃は許可しない。二日後の決戦に備えてやることは山積しているはずだ。戻って士官としての務めを果たせ」
不満を隠そうともせずにサンドル中尉が形だけ礼をとって退室すると窓辺に行き、黒煙たなびく東の空を眺める。
(誰が好きで野放しにしておくものか)
安心して留守を預けられる副さえいればローズ自身が駆けつけたい。アルコンティアの戦力は守りでは活かせないが、攻めなら活きる。単騎でも火をつけ、国土を荒らし回る連中を蹴散らすことができる。
「行っちゃダメですよ、准将」
心を見透かされたような忠告にギクリとして、振り返ると、
「ノワ!?」
扉のところにここのいるはずのない後輩の姿に思わず声のトーンが上がる。
「言っておきますけど、ちゃんとノックはしましたよ? でも返事がなかったんで勝手に入らせてもらいました」
「立ち聞きの言い訳もあるなら聞いておくぞ?」
「立ち聞きなんて人聞きが悪い。あんな風に言い争ってたら聞きたくなくても聞こえます」
「……ではどうしてここに?」
「学徒動員で補給部隊を任せられまして。受け取りのサインをお願いします」
通常ならば輜重部隊の隊長がサインして終わりだが、混成部隊なので指揮系統の混乱を避けるために書類関係は現場最高指揮官のローズに集約している。差し出された書類を受け取り、目を通していく。
「准将の判断は間違ってません」
書類に目を向けたままのローズに向かってノワが淡々と告げる。
「今、寄せ集めのこの部隊は准将なしでは立ち行きませんし、全軍で打って出ても通常の戦力だけで考えれば勝ち目はありません。准将とユニコーンの戦力は未知数ですが、指揮を採らなければならないことを考えると単騎の方がマシです。ですが、ユニコーンの力を見せつけられた後でわざわざ挑発行為に出るということは……」
「何らかの罠がある、と考えるのが妥当だな」
アルコンティアの力は確かに一騎当万。しかし、所詮一騎でしかない。一万の軍勢に一太刀浴びせても一人が欠けるだけだが、単騎ではそこでお終いだ。その存在を認知した上で、わざわざ挑発する以上備えがあるとみるべき。
「ええ、ですから行くべきではないですよ」
「相変わらず、意見具申には容赦がないな」
准士官とは思えない上から目線の口ぶりに、自分には可愛く思えるこの生意気さがエバーとの不仲の原因なのだろう、と思い苦笑してから。
「ノワ、何か策があるか?」
まだ、士官学校を卒業してもいない准士官――それも卒業を危ぶまれる劣等生に策を請う姿など見られるわけにはいかないが、幸い部屋には二人しかいない。
「ありません。……というより准将の策が最善です。勝つためには、ですが」
「? 勝つためではなければ何か策がある、というような言い方だな」
「ええ、先輩が考えてること、は予想がつきますから。だから、もう一度言わせてください。行っちゃダメですよ、准将」
あえて人称を変えて、しかも、最後に階級を強調して立場を再認識させる言い方にはさすがに嫌味を感じるが、
「なら、答えを聞かせてくれ」
「わかりません」
ノワが思考を先読みしているのならば、その答えも当然用意しているはず……だったのだが、返ってきた答えが意外過ぎて、思わず眉をひそめてしまった。
「本当ですよ。ユニコーンの戦い方を一度も見たことありませんし、そもそも、有名な捉え方でさえ力押しか色仕掛けか、なんですから有効な対策なんてあるのかな? ってのが正直なところです」
「そうか」
罠の正体を看破できないことも二の足を踏む要因だ。わかれば違った対応をとれるかもしれないが、わからないでは動くに動けない。
「でも、それでいいんです。打って出なければ少なくとも負けはないんですから」
「ああ、二日後までは、な」
考えたくはないが、二日後、もし援軍より先にイースウェア軍本隊が到着したら? たった三千五百余りでは正面の敵だけでも長くは持ち堪えられないだろう。まして、挟撃されたら数時間で落とされるかもしれない。
(そのときは覚悟を決めるしかないな)
しかし、物事は得てして悪い方へと転がるもの。
「間に合わなかったか……」
犇めきながら迫りくる敵軍を睨みながらローズがつぶやいた。
先陣の強襲から十日目のこの日イースウェア軍本隊が姿を現すことは予想通り。予想の範囲だが、その中で最速と言える。何しろ時刻はまだ早朝、西を睨むローズたちの背後では、まだ顔を出さない朝日がようやく空に広がる闇を薄くしはじめたところだ。
「戦備はどうだ?」
「兵も矢も西方のありったけをかき集めてあります」
物資も人員も集められるだけ集めた、という単なる事実も答える人物によっては皮肉に聞こえることもある。今もそうだった。
「なんですか?」
「いや、病人まで駆り出してるんだ。聞くまでもなかった、と思ってな」
気心が知れていることもあるが、頼りになる部下の存在に対する安心感にローズが必要以上に素直に答えると、
「病人扱いは止めてください」
と鼻息荒く答えたのは過労で倒れていたヴァイオレットだ。
「退役軍人や予備役兵はもちろん、市民の手まで借りているんです。現役の軍人が少しの体調不良くらいで寝てなどいられません」
まったくもってヴァイオレットらしい生真面目な答えに苦笑する。
彼女は病み上がりの身体を押して昨日駆けつけてくれた。もともとただの過労なので十分に休養をとれば数日で動けるようにはなるだろうが、それでも復帰するなり前線に駆けつけるのは無茶と言えるだろう。
「しかし、ヴィオラが来てくれて助かった」
ひとしきり苦笑してからローズがそう呟いた。
「私一人ではこの時点で詰みだったが、お前がいれば手の打ちようはある」
「お一人で出撃されるつもりですか?」
ノワとのやりとりはもちろん、打って出るつもりがあることなどヴァイオレットには話していない。しかし、ローズの性格とアルコンティアの戦力を知っているヴァイオレットが数少ない選択肢からそれを見落とすはずがなかった。
「ああ」
南塔は塔と呼称されているが、城壁塔を軸にした砦だ。クレプスケールの巨大城壁とは別に南塔を囲む城壁が存在する。しかも、北側はクレプスケールの巨大城壁、南側は山肌に沿うように城壁が築かれ、大軍で陣を敷くことはできず、通過しようとしても城壁から狙い撃ちされるため敵は西側からしか攻めることができない。その造り上、正面からの攻撃には並み以上に堅牢だが――
「ここは国内側からの攻撃は想定していないからな。奪取にはその造りが味方したが、挟撃されたらひとたまりもない」
一度言葉を切り、正面から押し寄せる敵軍を一瞥してから踵を返す。
「悪いがここの指揮は任せる」
「お気をつけて」
ヴァイオレットに指揮権を委譲し、自身は背後の敵の足止めにあたる旨を部下たちに伝達してからアルコンティアのいる厩(今回は非常時なので我慢させた)へ向かうと、愛騎に鞍を着け、出撃の準備を整えたウンディーネの騎士たちが勢ぞろいしていた。
「何をしている?」
「オレたちもご一緒しようと思ってな」
ローズの詰問にリーダー格のカープが代表して答える。
「余所者のオレたちはいても足並みあわねえし、弓も苦手なんでな」
「それならお得意の騎馬戦に出るっていう准将のお手伝いをしようってことになったのよ」
カープの後を引き受けて、メディーズという女騎士が続ける。
「ありがたいが……わかっているのか? 敵は五千だぞ、たった百騎では……」
死にに行くようなものだ、という言葉は飲みこんだが、それでも意図は伝わったはずだ。
しかし、カープはカラカラと笑う。
「単騎で行こうってヤツが何言ってんだよ。それにコイツらだってユニコーン程じゃねえが強えし、オレたちも腕に覚えはあるからな。なあ?」
愛騎の首筋を叩きながらカープが居並ぶ仲間に呼びかけると「オオッ」「任せとけ!」「もちろんよ」と覇気に満ちた声が応える。
「な?」
それでも一応は軍人ではなく、客分の彼らを必要以上に危険な戦場に連れていくことに躊躇いを覚え、ローズが決断しあぐねていると、気にするな、とでも言いたげに首を竦めてカープが笑う。
「それにアンタには族長との約束を果たすまで死なれるわけにゃいかんからな」
単なる有志ではなく、ウンディーネの騎士としての務め、という建て前まで用意されて断わる理由など無い。
「……わかった。ありがたく、力を借りさせていただく」
城門が開き、わずか百騎足らずの騎馬が駆け出す。
本隊の到着に即応できるように近くに陣を敷いていた敵軍を通常の馬よりもはるかに早い騎馬の集団が視界に捉えるまではあっという間だった。
「止まれッ!」
「? どうした?」
騎馬の足を止めながらカープが叫ぶ。
彼も訝しむのも当然だ。敵が馬防柵や塹壕などの野戦築城の策に出ていない限りは速度を活かした突撃速攻で先手を取って一気に敵軍を掻き乱し、主導権を握る。特に捻りはないがローズ自身が提案した作戦。その要件は満たしている。敵は野戦築城も壁盾を装備した防御陣を敷いていない。それどころか三日月型――あるいは鶴翼の陣とでも言うべき陣形を敷いている。おそらく突撃を迎え撃ち、包囲殲滅するつもりだろう。しかし、
「オレたちの突破力ならいけるだろ?」
アルコンティアを駆るローズは言うまでもなく、ケルピーを駆るウンディーネの騎士たちも相当な突破力を持つ。寡兵でも突破して敵陣を分断することは十分に可能だが、
「あの陣形に分断は無意味だ」
「どういう……」
「連中、分断されたフリをして二隊に別れて進軍する腹だ」
三日月型の深く誘い込むような陣形は包囲しやすいが、陣の厚みがなくなり、突破、分断される危険も高くなる。
「私たちは連中を足止めするつもりで出てきたが、連中も私たちを足止めする気だ。私たちが突撃分断すれば一隊を南塔へ向けて突撃させ、もう一隊が私たちの足を止めに動くだろう」
「だけど、睨み合ってるわけにはいかないでしょ?」
ローズたちに気がついた敵が動き始めたことに気がついたメディーズが問う。
三日月の陣形を崩して、両端を伸ばし、ジワジワと迫って来る。このまま黙って見ていても包囲されるか、あるいは敵が自ら別れて通過していくのを見過ごすことになってしまう。
「双頭の蛇……か」
双頭の蛇――二つの頭が攻防を担当するために攻防に隙が無い陣形だが、一方で双頭の息を合わせることが難しく、扱い辛い陣形でもある。しかも、先ほどまでの三日月型の陣形同様、突破力のある敵には双頭が噛みつく前に胴を両断される危険も孕んでいる。
兵力があれば分断した上で両方を攻めることもできる。あるいは時間を稼ぐだけならこちらも横に長い陣を敷いて双頭の両方を抑える手もある。しかし、百足らずの兵では完璧な対処はできない。
(速力でねじ伏せる……か)
分断し、二隊に別れたら足止めの一隊も突破し、速やかにもう一隊を追撃する。言葉で言うのは簡単だが、無茶がすぎる作戦だ。敵は五千――別れても二千五百の敵をすぐに突破しなければならない。しかも、敵にはアルコンティアの存在も計算の内のはず。
――オレならやれるぞ
任せろ、と自信に満ちた心が伝わってくる。
深呼吸して、胸いっぱいに空気を吸い込み、最大限の覇気を込めて叫ぶ。
「突撃!」
ローズの号令を合図に一斉に駆け出す。勇んだアルコンティアが格の違いを見せつけるように白い光の槍となって双頭の蛇の腹に突き刺さろうとした――そのとき、逆に敵陣から十数名の騎影が躍り出てローズを迎え撃つべく突撃してきた。
(何をバカな)
最初にローズはそう思った。アルコンティアの突進に堪えられる存在などそうはいない。まして、たった十数の騎馬に何ができるのか?
しかし、そんな疑問は直後騎馬の乗り手を見とめた瞬間に吹き飛んだ。
待て、と叫んだわけではない。
それどころか念じたつもりさえなかった。
しかし、ローズの無自覚な心の声を拾ったのか、それとも慮ったのか、アルコンティアが突撃の足を止めた。
ローズはアルコンティアに対して敵がどんな策を用意しているのか想定できなかった。Aランク相当の高位妖魔ユニコーンの力は万の兵に匹敵する。魔法の知識技術を用いるとしてもアルコンティアは野生の感とでもいうべき感覚で魔力を察知できる。罠があっても回避できる、そう考えていた。
しかし、必ずしもアルコンティアを止める必要はない。乗り手が突撃を躊躇すればユニコーンの力と相対せずに済む。
そして、ヴェニティーにはそれに関して二つのアドバンテージがあった。
一つ目は、ローズはヴェニティーの存在を知らず、逆にヴェニティーはローズの存在を知っているということ。つまり、ヴェニティーはローズの性格、気質を考慮して作戦を立てられるが、ローズはそうした予測や絞り込みができない。
そして、二つ目のアドバンテージとしてローズの気質――あるいは弱点と言い換えてもいい――を突くカードをヴェニティーは持っていた。
「カルメル……バロー……」
呼びかけるともなく、ローズが呟く。
二人だけではない。同じく躍り出た面々は皆一か月前マーガレット護送任務を共に務めた仲間たち。
親しくはない。カルメルもバローも同じ西方軍だが顔を知っている程度の関係でしかなく、近衛騎士から出向してきた面々に至ってはあの数日だけの付き合いでしかない。
それでも自分の指揮下にいた。そして、指揮下で死なせてしまった、とそう思っていた仲間たち。その生存を知った喜びがローズの心に驚きのさざ波をたてた。
しかし、ほんの一瞬とはいえ呆然と足を止めてしまったローズに対して彼女たちの足は止まるどころか鈍りさえしなかった。カルメル、バロー、それにラフォレという近衛騎士がローズに斬りかかった。
「待てッ!」
左右から襲い来るカルメルとラフォレの剣をローズが双剣で受け止めながら呼びかける。
無駄とは知っている。知っていても反射的に叫んでいた。
カルメルたちの首には黒錆色の首枷が重苦しい縛めとなって巻き付いている。スカラヴィア・デスモスの隷属下にある者は主の命令には決して逆らえない。死ぬまで戦え、と命じられれば文字通り、死ぬまで戦い続けるしかない。
(どうする?)
カルメルたちの姿を目視してから停止していた思考の歯車をようやく回し始めた。
しかし、すでに遅かった。
アルコンティアが突破口を作り、そこに突撃することで数の不利を補うのがローズの作戦だった。だが、その要であるアルコンティアが足を止めてしまってから十秒近くが経過していた。戦場において致命的なタイムロス。追いついてきたウンディーネの騎士たちも各々近衛たちと切り結び足を止めてしまう。
速力という唯一の武器を殺されたローズたちに双頭の蛇が牙を剥き襲いかかる。
「アンタの作戦見事にハマったな」
少し離れたところで早くも勝ち誇ったように男がヴェニティーに向かって語りかける。
「当然でしょ」
今回の答えには一切の揺らぎもなかった。ヴェニティーは確信していた、部下の生存を知れば、ローズなら間違いなく足を止めると。
五年前、ヴェニティーが士官学校の五年生、ローズが四年生のときの合同演習のことだ。ちょうどエバーとノワが諍いを起こしたようにヴェニティーとローズ作戦について意見を違えて言い争ったことがあった。
一部の味方を犠牲にすることを当然と犠牲と考えたヴェニティーにローズが食ってかかったのだ。結果としてヴェニティーの策は間違っていなかった。犠牲を厭わなくともヴェニティーの指揮で勝利をあげることができた。
だからこそ、あのときの記憶が鮮明に残っている。
人の上に立つ者に課せられたもののなんたるかも知らない庶民出の小娘が生意気なことを言って。結果的には自分が正しかった私が正しかったじゃないの、と。
その記憶があったから、ローズなら味方が生きていることを知れば、即座に斬って捨てるような決断はできない、一瞬躊躇すると確信が持てた。まして、裏切り者ではなく、無理矢理支配されている者なら助けようとさえ考えるだろう、と。
そして、ローズはヴェニティーの予測通りの反応をした。
「所詮、お前はその程度なのよ、ラズワルド」
わずかに口角を上げ、咆哮と剣戟の騒音に掻き消され誰にも聞こえない程度の小さな声でヴェニティーが呟いた。
多勢に無勢の戦いの中でローズとウンディーネの騎士たちはよく戦っていた。激突から三十分あまりが経過しても、強者ぞろいのウンディーネの騎士たちは誰一人欠けることなく戦い続けていた。
しかし、体力にも、集中力にも限界がある。
(覚悟を決めるしかない)
アルコンティアの力を抑えるために、ローズを取り囲んで離れないカルメルたちに対してローズはここまで防戦一辺倒の戦いを続けていた。スカラヴィア・デスモスは首に嵌められている。多対一で、目まぐるしく動く標的の首を、切り落とさずに首枷の一点だけを狙うことなど不可能に近い。まして、カルメルたちは少数精鋭の護衛任務に抜擢されるだけの腕の持ち主立ちだ。
「アルッ!」
ローズの決断も、その意味も文字通り心の通じているアルコンティアにはわかっている。その上で、なおアルコンティアが問い返す。
――いいのか?
それはそのままローズの心に迷いがあることを示していた。
カルメルたちも、カープたちも命を預け、預かった戦友だ。優劣などない。
しかし、ここで攻撃を躊躇ってこの戦に負けたら?
それでカルメルたちは喜ぶか?
わざわざ力を貸してくれたカープたちを無駄死にさせる気か?
犠牲を良しとして犠牲を出したことはないが、それでも避けて通れなかった犠牲はいくらでもある。マーナガルムとの戦いで散って行った者たちのように。
それを今回に限ってできないのは未熟さ故だ。眼前にいる、手を伸ばせば助けられる、という可能性がちらつくだけで決断が揺れているに過ぎない。
だが、ローズが決断を遅らせた分だけウンディーネの騎士たちが追い詰められる。
「構わない! やってくれッ!!」
己の迷いを振り切るために叫んだローズの声を置き去りにして、アルコンティアとローズの姿が掻き消える。一瞬を置いて爆発的な衝撃と砂塵が巻き起こり、ローズたちを包囲していた敵兵がまとめて吹き飛んだ。普段はローズの身を気づかって力を抑えているアルコンティアが初速から全速を出したのだ。
怒号と剣戟の音が飛び交っていた戦場が水を打ったように静まり返る。
アルコンティアが停止してから、急加速で遠退いた意識をはっきりさせるためにローズがかぶりをふって頭の血の巡りを整える。さっきまで自分たちがいた場所は小規模爆発でも起こったように地面が抉れ、その爆心地から現在地までの直線上に道ができていた。道の左右には吹き飛ばされ折れ重なる敵の兵馬。
人外の力をまざまざと見せつける光景に敵兵が逃亡しなかったのは勇気でも、意地でも、自棄でもなく、単にスカラヴィア・デスモスの隷属下で逃亡できないからにすぎない。
しかし、逃げ出せずとも軍奴たちの心を折るには十分な効果があった。
人間がマリオネットになったかのように動きを鈍らせた軍奴たちにウンディーネの騎士たちが反撃する。流れの変わった戦いの渦中にローズとアルコンティアも再び飛び込む。
「ラズワルド准将!」
アルコンティアの一駆けで再び数百の敵を吹き飛ばした直後、聞き覚えのある声がローズを呼んだ。
「バロー」
吹き飛ばされた衝撃か、あるいは落下際に悪い落ち方をしたのか腕が痛々しくひしゃげているが、間違いなくバローだった。しかし、先ほどまで彼女の首に嵌められ、彼女の自由を奪っていた枷はない。
「アンタの知り合いみたいだから趣味の悪いアクセサリー外してやったら『ラズワルド准将のところへつれてけ』って言うもんでよ」
バローを自ら前に乗せて連れてきたカープが、面倒なヤツを助けちまった、とでも言いたげに調子で肩を竦めながら説明する。
「カープ……」
ありがとう、と言いかけたローズの言葉を遮り、バローが叫ぶ。
「准将、オーリュトモスですッ!」
それだけでは意味が理解できるはずもない。反応できずにいるローズにバローがもどかしさも露わに続ける。
「オーリュトモスが生きて、敵に、イースウェア軍についていましたッ! 私たちが捕まったのもヤツが私たちの正体を敵に教えたからですッ!! 私とカルメル大尉が偵察部隊で城壁付近の地理に精通していることを教えて道案内させたのも、敵がユルレモント地域の地理に通じているのもアイツがいるからです」
バローは何を言っている?
必死の形相で叫ぶバローに対して、それがローズの率直な感想だった。
当主シヤン・オーリュトモスが塞ぎ込んだために一族が分裂状態にある、と中央で噂話程度にはローズも聞いていた。しかし、いくら当主が失脚したとはいえ、名門オーリュトモス家が敵を呼び込むほど追い込まれているわけではない。追い詰められた者の裏切り警戒してヴィクトールはそこまで貴族たちを追い込まなかったし、追い込むこともできなかった。軍の重要ポストからは失脚させたが、中堅ポジションにいた者たちまでは手を出すことができなかったし、家財を没収するなど軍に関わらないことではほとんど手を出せなかったのだ。
しかし、バローの接いだ言葉がローズの理解の歯車を動かす。
「准将! オーリュトモスが生きていたんですッ!!」
「生きて……いた?」
オーリュトモス家で軍に属する人間は少なくない。五か月前の遠征でも何人も戦死した――したことになっている。本来なら今のやり取りだけでは彼女を連想できても、限定できるはずがない。しかし、長年の関係からローズは自然とその名前を口にした。
「ヴェニティー・オーリュトモスが……か?」
バローが頷いて正解を示したことでローズの中でようやく今までのことが一本に繋がった。
護送任務の偽装がなぜあれほどあっさり看破されたのか。なぜ、ローズ、マーガレットと繋がりの深いスカーレットだけを――まるで二人を誘い出すエサのように――闘技会に出したのか。なぜ、今回の戦いでイースウェア軍がこれほどルディアの地理に精通した戦いができたのか。そして、どうしてローズがカルメルたちへの攻撃を躊躇うと確信していなければ成り立たないこの作戦をイースウェア軍が採れたのか。
周囲を見渡し、この戦場を見渡せる地点、三か所に目星をつける。
「アル」
静かにアルコンティアを呼ぶ。ローズが口にしたのはそれだけだが、アルコンティアには怒りに煮えたぎるローズの心と命令が伝わっていた。
――見つけたぞ、ソイツともう一人いる
「そのまま捉えておけ」
ちょうど、十日前のように血が昇り、ローズの口調は自然と命令口調になっていた。
「絶対に逃がすな」
――わかった
しかし、激発すれば戦場を放り出して向かってしまいそうなまでの怒りを抑えて、見張ることだけを命じたローズにアルコンティアは素直に従った。
そこからのローズとアルコンティアの戦いぶりは三日前の必死の戦いぶりに勝るとも劣らないものだった。いや、少なくともローズに限っては三日前よりもはるかに激しいものだった。鬼気迫るという形容がピッタリはまる戦いぶりはおそらくローズの内に秘めた感情が闘志ではなく、殺気だったからだろう。
――ヤツが逃げるぞ
アルコンティアが足を止め、ヴェニティーの逃走を伝えたのはその荒れ狂う嵐のごとき戦いぶりでイースウェア軍の八割以上を行動不能にした頃だった。
「チィッ!」
ジレンマと苛立ちからローズが舌打ちする。
残りの敵兵は五百以上千以下と言ったところ。未だウンディーネの騎士たちは一人も欠けていないようだが、押しつけていくのは気が咎める。やるとすれば誰か数名に追わせる方が現実的だし、そうするべき。
「メディーズ!」
ちょうど手近にいたメディーズを呼び止め、
「向こうの高台にいる敵の指揮官が逃亡を図っている」
追ってくれ、と言うべきだったし、そういうつもりだった。
「私はそっちを追う。ここは任せた」
しかし、ヴェニティーとの因縁がそうさせたのか、まったく逆の言葉が飛び出した。
「ハイよ!」
自分の口から飛び出た言葉に驚く間もなく返ってきた勢いのある声に後押しされて、アルコンティアに追撃を命じる。ユニコーンの脚力は数分とかからず普通の馬に乗っていたヴェニティーたちの背を捕らえ、そのまま前に立塞がる。
「「……………………」」
立塞がったローズも行く手を阻まれたヴェニティーも何も口にすることなく、ただ睨み合う。ヴェニティーに付き従っていた男が叫んだ「チクショォッ」という悲鳴の残響とその馬蹄の音意外何も聞こえない。下の戦場の音は吹き下ろす風が押し戻しているらしい。
先に口を開いたのはローズだった。
「危険地帯から離れた場所から指揮だけ、か……相変わらずだな」
心の底からの嫌悪と嘲弄。ローズがここまで感情的に交わる相手は好悪合わせてもそう多くはないだろう。
「お前こそ相変わらず前線で身体を張って指揮をするのが好きのようね。そんなことだから目の前のことに囚われて全体を見損なうのよ」
高みから見下しきった冷笑を浮かべて蔑む。
「そうかもしれないな」
事実、さっきカルメルたちへの攻撃を躊躇ったばかりに作戦を台無しにしかけたばかりだ。三日前も目の前の敵にばかり目が行き自軍の状況を把握し損ねて危うく――いや、アルコンティアがいなければ間違いなく負けていた。しかし、
「だが、負けた上、部下を見捨てて逃げ出したヤツの言葉じゃ重みがないな」
「黙りなさい」
ローズの負け惜しみにヴェニティーの冷笑が醜く歪む。
「一軍を率いる者の命は軽々しく失われるべきではないのよ。将が生きていれば軍は立て直せる。貴族が、王が生きていれば国を立て直せる。雑兵の命と同等に計られるものではないのッ。お前のような庶民にはわからないでしょうけどね」
「売国奴が将や貴族を語るのか?」
ローズは当然ヴェニティーの首にも黒錆色の首枷が嵌められていることに気がついている。誰の、かはわからないが、支配下にあることは間違いない。売ったのではなく、抗えない命令に従わされ、嫌々やったことかもしれない。
しかし、ヴェニティーの目に宿る光がそれを否定している。憎悪、娼嫉、嫌悪、厭悪――敵意を超えて殺意に近い暝い意思の宿った双眸が、命令で従わされているのではなく、自らの意思で動いていることを物語っている。
「一応聞いておいてやる。従わされているだけなら解放してやる。そうでな……」
ローズが最後通牒を言い終える前にヴェニティーが激発した。
「情けをかけるつもり!? お前がァ!? 私にィ!?」
感情のままに吐き出す言葉に合わせて打ち込まれた三連撃を難なく捌く。
「遅いッ!」
士官学校時代のジョストや剣術の大会でもいつもそうだった。訓練不足としか思えない鈍く軽い剣。三撃目を弾き返し、返す刀でその右腕を斬り飛ばす。
「ギャッ」
短い悲鳴を上げ、落馬したヴェニティーに駆け寄る。
ローズが近づいても身動き一つしない。落馬の衝撃か、あるいは腕を斬り飛ばされたショックか、意識を失っているらしい。ヴェニティーの服を割いて、止血をし、ベルトで足を縛って動けないようにしてから立ち上がる。
「逃げた男の方を追うぞ」
再びアルコンティアの背に跨りもう一人の男を追撃に向かった。




