第十八章 十九日目――闘技会当日
その日、アンフィテアトルムは客席が満席になったばかりか、立ち見まで出るほどの近年まれにみる大盛況となっていた。
娯楽というのは安定的に同じ物を提供しつづけ、それに興を見出すものと常に斬新さと一層の刺激を追及してエスカレートしていくものとに別れるが、闘技会は明らかに後者である。前座として行われる野獣狩りも以前はトラやオオカミ、ライオンなど通常の獣だけだったが、徐々に過激になり、近年では下級の妖魔まで利用するようになっていた。
それは奴隷同士の戦いや罪人の処刑も同じ。
故に敵国ルディア王国の、それも近衛騎士として名高いラフレーズ家の者の処刑という刺激は客寄せにはちょうどいい好材料となり、周辺の領主はもちろん一般の市民も挙ってチケットを買い求めた。
観客たちの開会を待ちわびる観客たちの喧騒と熱気はアンフィテアトルムという釜の中に滾り、空まで立ち昇るほど高まっていた。
「ふぅー……まったく、血を見るのが好きな連中だ」
もっとも高級なボックス席に座り、サーヴァケットの領主ゴールズワージーがひとりごちる。優に五百年以上の年月を生きているはずの魔術師だが見た目は齢五十ほどの初老の老人だ。
「己が危機に晒されるならば金どころか他者の命を売ってでも永らえようとするクセに他人の血を見ることには金を払ってでも押し寄せる愚かしい連中だ」
「おいやでしたら私たちにお任せになってくださればよろしいのに……」
ゴールズワージーの斜め後ろに立つ青年が喧騒の中から師の言葉を聞き取り、告げる。
「あんな大層な土産をもらった手前そうもいくまい。それより例の品、彼の御仁にしっかと渡したのだろうな?」
「もちろん使いは果たしましたが……」
何やら言い難そうに口ごもる青年に「何じゃ」とゴールズワージーが促す。
「その……よろしかったのですか? あの試作品は師匠の長年の研究の成果です。それを渡してしまって」
「構わぬよ。どうせワシもそう長くはない。研究の成就はならぬと悟った。お前たちに研究もワシの役目も継がせる気はない。彼の御仁がワシの生ある内に約束を果たしてくれさえすれば何も望むまい。その一助となるのならば試作品をくれてやるくらい何のことはない」
「しかし、諸侯にこのことが知れたら……」
「諸侯にもワシは裁けん」
気だるげに断言するだけの根拠がゴールズワージーにはある。青年もそのことを知っているからそれ以上そのことについて言及することを止め、代わりに話題へと話しを移す。
「諸侯にも裁けない貴方様がなぜ自らお出でになるのです? ゴキブリ野郎の土産だけならば直弟子の一人で十分誠意を示せると思いますが」
「彼の者が本当に噂通りユニコーンを従えているならばお前だけでは討ち取れまい?」
「本当に討ち取る気なのですか?」
青年が驚愕と焦りに声を上ずらせながら問い返す。
正直、女騎士など青年から見ればどうでもいい存在だ。彼は一人でCランクの妖魔を討ち取った経験もある魔法使いだ。どれほど剣腕を磨き、相性のいい相手を選んだとしても破魔矢や退魔の剣なしではEランクにも苦戦する騎士などという存在は歯牙にもかけていない。
しかし、ユニコーンを相手にするとなれば彼はおろか師であるゴールズワージーでも一人では無理だ。結界に閉じ込めようにも風にも勝るスピードを捕らえることはできず、矢を射かけようとも無敵の矛たる角の一振りで打ち払われる。
今回は敵の正体がわかっていて準備万端迎え撃てるとはいえ、それでも憤怒の権化たる一面も持つユニコーンと本気で相対すれば何が起こるかわからない。
彼自身はともかくゴールズワージーがこの戦い死ぬ可能性が希薄なことは星を読めばわかる。だが、だからといって無理をするべきではない。星は未来を照らし、示すがそれは絶対ではないのだから。
「…………いや、いくら貴重でも土産一つで危険を冒す気はない」
弟子の青年がホッと息を吐いたのも束の間、だが、とゴールズワージーが続ける。
「駒は多いに越したことはなかろう」
「駒になりますかね。所詮ルディアの人間ですよ?」
疑問を差し挟んだのは青年ではなく、少し斜に構えた響きある少女の声だ。間をおかず後ろの通路から声の主が姿を現す。
「ニコラ、準備の方は?」
「万端です。その女が来ても確実に捕らえられます」
口では「捕らえる」と言ったが、その目も、身に纏う雰囲気も「殺せます」という本音が滲み出ていた。
「ニコラ、お前の気持ちもわかるが目を曇らせるなと言っておるだろう。魔の道を究めたくば己が目で見て、耳で聞き、肌で感じ、直感で悟れ、と。先入観は直感を惑わすだけだ」
「……本当に駒になると思っておられるのですか?」
師の言葉にニコラと呼ばれた少女が不満げに再度問う。
「さあな……見てみねばわからぬ。しかし、大妖を従えるほどの器ならば聞く耳の一つ二つ持っていようて。後は彼の者次第。駒と成れば良し、成らぬでも問題は無し。しかし、盲目な愚者が過ぎた力を持っているならば……」
言葉を紡ぐことに疲れたようにゴールズワージーは言葉を切った……が、ややあって続きを口にした。
「……もし、そうならワシの大望の脅威になりかねん。その場合は多少無茶をしてでも殺さねばなるまい」
ニコラは殺すこともありうるという師の言葉に満足そうに口角を上げたが、青年の方は思わぬ言葉に驚き、師を諌めようと口を開いたが、その声は闘技会の開始を告げる銅鑼の音に掻き消されてしまった。正面を向いたままの老師はそのことに気がついていたがあえて聞き返すことはしなかった。
銅鑼の残響が鎮まるとラフレーズの目の前で鉄柵が上がった。
背後に立つ兵士たちに槍で追い立てられて闘技場へと進み出たラフレーズは武器らしい武器の一つも持たされていない。辛うじて両腕に篭手、両足に脛当という防具を許されているが、それとて枷のように手足にぐるりと巻き付く金属の重量を考えれば防具としてのメリットと重石としてのデメリットが微妙なところだ。
それもそのはず。なぜならば、これはあくまで公開処刑であり、野獣妖魔相手に罪人が逃げ惑い、足掻く様を見て楽しむためのものだからだ。
次いで、地鳴りのような揺れとともに闘技場の敷石がゆっくりと下がり、地下の暗い闇がぽっかりと口を開ける。
闘技会では最初に罪人と野獣や下級妖魔を戦わせる。闘技場の地下に造られた妖魔や獣用の檻の蓋に通じる敷石が口を開けた。獣相手でも素手では勝ち目などほとんどないのに下級とはいえ妖魔相手に武器無しの人間では勝ち目などあるはずもないが、日光耐性の無い下級妖魔は強い陽射しの下では陸に打ち上げられた魚の如くすぐに弱ってしまう。
妖魔が弱り息絶えるが先か、罪人がそのあぎとにかかり食い千切られるが先か、これはそういう趣旨の見世物なのだ。
獣ならば飛び出してくるのだろうが、地獄の門さながらに口を開ける地下の檻から何も出てこないところを見ると妖魔なのだろう。闇の中に浮かぶ双眸は瞳孔を細め不気味に光るだけで全く動く気配がない。
「エラさんもそうだけど人が苦しむ様なんて見てて何が楽しいのかしら……理解に苦しむ悪趣味だわ」
妖魔の双眸に射抜かれ背筋を震えわせながらラフレーズが毒づく。
ラフレーズが他所事に思考を向けられる程度に動く気配のない妖魔に苛立った観客の野次の竜巻が巻き起こった。野次の竜巻に引きずり出された――わけではなくおそらく槍か何かでせっつかれて、妖魔が嫌々顔を覗かせる。
顔を表した妖魔は一言でいえば猫だ。きっと十分の一スケールならば愛らしいと思えるだろうが、大きく欠伸した口が一口で人間の上半身を丸呑みできそうな大きさでは愛らしいなどとは思えない。頭の大きさから推定すれば優に体長三メートルはあるだろう顔を見て可愛いと思えるのは愛猫家でもそうはいないだろう。
「ギニャアアァァァ」
巨体に似合わぬ甲高い咆哮は金属を擦り合わせたような不快な振動をもたらす。
(逃げ回ってはダメ)
本能が感じとった恐怖に敏感に反応して一歩下がりかけた足をラフレーズは半歩のところで押し止めて、自分に言い聞かせる。
巨大猫の妖魔が顔を覗かせている穴からラフレーズまでは二十メートル程度しかない。おそらく妖魔が襲いかかれば一跳びの距離。
本能は逃げろと訴え続けている。
しかし、ラフレーズはそれを黙殺した。
ラフレーズとて助かる可能性があるのならば逃げる。ここが戦場やどこぞの森で野生の妖魔に出くわしただけならばどれだけ不様だろうと足掻けるだけ足掻く。
しかし、ここは周囲を囲まれた闘技場で逃げ場などなく、これは生死を賭けた闘いではなく、単なる見世物でしかない。
例え妖魔相手に逃げ切り、生き延びたとしてもその疲労も癒えない内に武器を持たされた奴隷たちとの戦いを強いられる。そして、それを切り抜けても今度は奴隷兵たちが刑の執行を執り行う。逃げ道などなく、逃げる分だけ、足掻いた分だけこの低俗なイベントを愉しんでいる下種どもを歓喜させるだけ。
どうせ助かりようがないならば最初の一噛みで潔く果てた方がいい。
それがラフレーズにできるささやかな抵抗だった。
(大丈夫……私が死んでもマーガレットの側にはローズがいる)
尋問官や獄吏の会話からマーガレットがまだ捕まっていないこと、ローズもどうやら逃げ果せていることは知っていた。マーガレットと新米士官のエバー、クーシェの三人だけでここまで捕まらずにいられるとは考えにくい。ローズはマーガレットたちと合流していると確信が持てる。
(悔しいけど貴女なら任せられる)
ローズを信頼できること、任せることができてしまうことは悔しいが、これ以上自分にできることはないこと――それどころか、自分が生きていては害なだけ。今自分がマーガレットたちをおびき寄せる“餌”として使われていることもラフレーズは知っていた。
ローズたちが罠にかからず、ラフレーズが今日の前座の生き延びれば敵はもう一度くらいはラフレーズを囮にしてみようと処刑を延ばすかもしれない。
しかし、そんなことをしてわずかばかり永らえて何の意味がある?
ローズはこんな見え見えの罠に飛び込んでくるような愚は侵さない。
しかし、他人が自分のために犠牲になることを良しと思えないマーガレットがローズの制止を振り切り来てしまうリスクがゼロとは言えない以上ラフレーズがすみやかに死ぬことは意地であると同時に最後にできる奉仕でもあった。
(マーガレットを頼むわよ、ローズ)
巨大妖猫が早く終わらせたいとばかりに背を丸めて跳躍の予備動作に入ったのを見とめ心の中でラフレーズが呟く。
わずかなタメをおいてクロスボウの矢のように跳躍し、一瞬でラフレーズの視界は鋭い牙に縁どられた口腔の闇で占められた。
士官学校入学を前にして近衛騎士に抜擢されたと母から告げられた時の喜び。
することの無い山の屋敷ではじめて覚えた恋心、虚無感、今となって感じる後悔。
引き続きマーガレットの近衛騎士であることを許されたときの歓びと安堵。
マーガレット、ローズと共に山荘や黄昏の城の街で過ごした日々。
ローズとヴィクトールの出会いの騒動。
三人の輪にミエルが加わって騒がしくもそれまでになかった時間。
王都へ戻れという王の命令にマーガレットが嫌がるマーガレットを説得したこと。
王都へ戻ってから退屈を持て余し、度々街へ降りるようになったマーガレットを連れ戻すことが日課のようになったこと。
妙に緩やかな一瞬の間に流れていった思い出が王都に戻ってからの時間だけあまりに短く感じられたことに表現しようのない感情が湧き起こる。
(…………ああ……そうか……)
眼前に迫る牙を他人事のように見つめながらラフレーズは自分の感情の一端を理解した。
(私もあのころが一番楽しかったのね)
王都に戻ってからはマーガレットの傍らで政争とも権力闘争とも縁遠く平穏に過ごした。しかし、その「平穏」は「忘れ去られた」とも「相手にされなかった」とも言える。最近こそジョアシャンから求婚され政争とも無縁でいられなくなってきたがそれまでマーガレットの逃走以外に何かに思い悩んだ記憶もない。そして、悩みもない代わりにローズたちと過ごしたときのように大声で笑ったり、騒いだりした記憶もない。
ようやく、マーガレットと思いの一端を共有できたことに喜び、そして、嘆息する。
ローズはマーガレットを救っただけでなく、彼女の世界を広げたのだ。婚約者くらいしか大切な人がいなかったマーガレットの箱庭のような世界にローズが現れ、村の子どもたちとの交流も持たせ、街での生活に触れさせて。王宮での生活が寂しいもの、退屈なものに思えるほどマーガレットの世界を鮮やかにしたのだ。
並べるはずがない。王宮に戻ってから仕来たりに縛られ、マーガレットに新しい世界の一つも見せることができず、彼女の退屈を知った気になって全く理解していなかった自分がマーガレットの中でローズと同等の存在になどなれるはずがない。
(私っていつも気づくのが遅いのよね)
結局、認められなかったことを再度自覚し、それが自業自得だと理解しているから余計に情けなかった。
「悔しいなぁ」
もはや回避も間に合わないほどまで迫った牙を前に、諦めと未練が言葉となって口を吐いて出た。
瞬間、牙もその奥の闇も消えて一瞬ラフレーズの視界が白く染まった。
その意味を理解する間もなく、衝撃に吹き飛ばされて転がり、痛みと視界を覆う粉塵、聴覚に押し寄せる突風の残響と瓦礫の崩落音、地鳴りのような水音で生きていることは理解したが何が起きたのか全く分からなかった。
「間に合わないかと冷や汗をかいたぞ」
晴れていく粉塵向こうに薄っすらと見える騎影から良く知った声が投げかけられる。耳を疑いラフレーズが反応できずにいると一陣の風が吹いて粉塵が取り払われ見間違いようのない姿が現れた。
「なっ……なんで来たのッ!? マーガレットを放り出して私なんかを助けに来るなんて何考えてるの!? 貴女がマーガレットの側にいると思ったから安心できたのにッ!!」
「私がマーガレットを危険に晒すとでも?」
心外だ、という心境を顔と口調に露わにしてローズが問う。
「マーガレットは今朝ブルトルマン行きの船に乗せて送り出した」
「だからってなんで……これが罠だってわからない貴女じゃないでしょ!?」
もちろんわかってる、とローズは答え、
「わかった上で私がマーガレットに頼んでここに来たんだ」
(どうする!?)
四日前気を失ったマーガレットを背負って西地区へ移動し、手ごろな宿をとり、二人部屋のベッドにマーガレットを横たえ、マリ、エバー、クーシェにそれぞれ任務を与えて送り出してからローズはそれまで平常心を保つために押し止めていた思考の歯車を回し始めた。
(どうしたらいい!?)
懊悩を抱えたままベッドに横たわるマーガレットに目を向けた。
気を失ったままの親友の寝顔を見て、マーガレットを無事に送り届ける、という使命と決意を思い出し、それが辛うじて正常な判断を下せる思考レベルを保ってくれた。
(どうしたらいい? 答えなど決まっている)
マーガレットを護り、送り届けることが任務で護衛団は皆そのために犠牲になる覚悟をしていた。マーガレットの近衛騎士であることを何より誇りにしているラフレーズの覚悟は自分以上かもしれない。そのラフレーズ自身がマーガレットを危険に晒すなど彼女がもっとも忌避する事態だ。仮にリスクを冒して助けたとしても怒りこそすれ喜びはしないだろう。
それでも。
そのことを理解してなお、迷わずにはいられなかった。
(これ以上……マーガレットが耐えられる?)
ただでさえ、自分を送り届けるための犠牲にマーガレットは少なからず責任を感じている。その中でもラフレーズは十年間傍らに居続けた最も親しい存在だ。その彼女が目の前で殺されようとしているのを黙って見ていられるだろうか。
「やつれたわね」
汗で張り付いた前髪を梳きながら呟いた。
やつれた、という表現は少し過ぎているかもしれない。射し込んで来る西日が顔の陰影を強調し、病的な印象を与える白髪が拍車をかけているとはいえ王女である彼女を知らなければやつれたとは思わないだろう。
しかし、出立前に比べて明らかに痩せていることは間違いなかった。男装作戦を提案したときやそれを実行して脱出に成功したときは明るく振る舞っていたが、この十日間歩き旅で運動量は増えているのに目に見えて食が細くなっていた。街の熱気と臭気に当てられても吐かずに済んだのはもしかしたら吐くものがなかっただけかもしれない。
そんな精神的に追い詰められている状況下で再び親しい者が公開処刑されるという事実を前に彼女が耐えられるだろうか?
それに今を耐えられたとしてもマーガレットの心に安寧は訪れない。マーガレットが輿入れするブルトルマン帝国は彼女にとって仇の国。夫の最有力候補モルゲンュテルン元帥はまさに仇そのもの。心許せる者はおろか、憎悪の対象の懐で知人一人いない孤独な檻に皇妃という名の人質として囚われる。
そんな人質同然の輿入れをしようというときにもマーガレットはローズとミエルのことを彼女なりに考えてくれた。歩き旅、安宿という王女には到底あり得ない旅でも文句ひとつ言わなかった。
(……なのに……私はマーガレットに何をしてあげた?)
無論、ここまで安全に歩を進めることができたことに関して作戦や情報収集など尽力している。しかし、それはあくまで軍務。戦力としての価値は厳密にはアルコンティアの力。
親友として何をあげただろうか?
ミエルを同行させたことを責め、半ば無視するように避けて、和解したあともせいぜいできたことと言えば囮にならず一緒に旅を進められたことくらい。それも彼女の奇策に因るものだ。実のところ気遣うどころか要らぬ心配をかけていただけで何一つマーガレットの助けになれていない。
――少しくらい心を軽くしてあげたい
そう思い、そして、決めた。
だから、目が覚めたマーガレットに開口一番尋ねた『ラフレーズを……スカーレットを助けたい?』と。マーガレットの答えはウィンであると同時にノンだったが、そのマーガレットにやらせてくれ、と親友として頼んで作戦を押し通した。
だから、これは任務ではない。
ローズ個人としてのわがまま。
正規の護衛が三人になった状態で多少危険は減ったとはいえマーガレットを放り出してただ一人の団員の救出に赴くことが軍人として間違っていることは百も承知。それでも、親友の心の安寧のためにできることをしてあげたい、というひどく個人的で不合理なわがまま。
「…………貴女が……頼んだ?」
ラフレーズには理解できなかった。
これがミエルならローズが動く理由はラフレーズにもわかる。しかし、ローズに自分を救いに来る理由があるとはラフレーズには思えなかった。仲は悪くない。マーガレットの奔放さとミエルの無法さに振り回され翻弄される側という意味では似た者同士でよくわかりあっていた面もある。だが、かなりの時を一緒に過ごしたとはいえ、ローズが個人的な感情でマーガレットを放置してまで助けに来る理由はないはずだ。
「…………なんで……?」
「アナタの公開処刑を知ったとき、マーガレットは気を失うほどショックを受けていた。酷い言い方かもしれないが、アナタのためじゃなくマーガレットのために助けに来た」
「私なんかいなくたって貴女が側にいればマーガレットは……」
自分で口にした言葉にラフレーズが唇を噛む。
「私がアナタを助けに行くと言ったときマーガレットがどれだけ喜んだと思う? どれだけアナタの誇りを慮って私を止めたと思う? 自覚がないなら言っておく、マーガレットにとってアナタもなくてはならない存在なのよ、スカーレット」
「…………ホントに……?」
ほんの少し前新たに自分ができなかったことに気づいて打ちひしがれていたラフレーズはローズの言葉がすんなりとは信じられなかった。
「ウソを言ってどうする? 私がここに来たのが何よりの証拠だ」
ラフレーズの目から溢れた涙が頬を伝う。ようやくローズの言葉を信じたラフレーズが何か言おうとした直前、彼女の手足の防具から鎖が生えて四肢を縛り、バランスを失ったラフレーズが転倒する。
「感動の再会はそのくらいでいいかな、お嬢さん方?」
バシャッという水音とともにゆったりとした、それでいてどこか冷たい印象の声が投げかけられた。
「できるならこのまま私たちがここを後にするまで待って欲しかったんだがな」
ローズが手綱を引くまでもなくアルコンティアが体勢を整える。
「そこまで紳士にはなれんよ。君を捕らえるのがローチ将軍からの依頼なんでな」
ゴールズワージーの言葉に呼応して闘技場と客席を隔てるように薄い金属の刃が生え、竹のようにしなり、闘技場の中央付近で頂点を一つにした。
(まるで鳥籠だな)
捕らえるという言葉を象徴するかのような罠にふと思考がゴールズワージーの告げた一言へと傾く。
(私を捕らえるのが依頼……か)
言葉を脳内で反芻し意味を考えそうになり、慌ててその言葉を頭の片隅に追いやる。
(今は眼前の敵に集中すべきだな)
アルコンティアの速力を以てラフレーズを攫って即座に離脱するというのが最善の策だった。だが、闘技場と客席の間あたりに半球状の結界が張られているらしい気配をアルコンティアが感じとった時点でその作戦は諦めた。
結界を突破してなお捕捉されないだけの速度を維持するにはアルコンティアが全力に近い速度で突破するしかない。しかし、そんな速度で客席を突っ走れば相応の被害が出る。敵国の民、それも流血を好んで身に来るような下種とはいえ、市民を犠牲にすることはできる限り避けたかった。
だから、市民を護る結界に逆に賭けることにした。
(足場は大丈夫か?)
――今はまだ、な
先ほどローズたちが突入してきたのは軍奴の訓練や歴史的海戦の再現演劇として模擬海戦を行う際に闘技場に水を引き入れるための水路だ。堰を破壊された水路からはリオペルス湖の水が濁流と化して流れ込み少しずつ闘技場を巨大な溜め池へと変えていく。
「終わるまで溺れるなよ」
両手両足の防具から生えた鎖に縛られ身動きの取れないラフレーズにそう告げたのと同時にアルコンティアがローズの指示なく動き、直後、さっきまでローズの頭があったあたりを礫が撃ち抜いた。
「アンタさぁ~バカでしょ?」
ゴールズワージーの弟子らしい魔女が浮遊させた岩塊の上に乗り、さらに自らの周囲に破壊した水門の破片と思われる礫をいくつも浮遊させ、それをローズたちに飛ばして攻撃しながら挑発する。
「それともルディアの人間は『ユニコーンの傲慢』って物語も知らないのッ!?」
告げるとともに振ったタクトのような杖の動きに合わせて浮いていた礫が弾丸のように加速する。
(下級魔法とはいえ呪文なしでの連続使用か……厄介だな)
呪文を唱えるだけで発動できるような下級魔法は今少女が礫を飛ばしているような単調なものがほとんどで、煩わしいがそれだけならば脅威にはならない。それを休ませず使わせ魔力が尽きるのを待つか、間を縫って懐に飛び込み近接戦を挑めば事足りる。
しかし、それはあくまで一対一ならの話。
一人が時間を稼いでいる間に儀式や魔方陣、長い呪文の詠唱など手間のかかる中上級魔法を準備されると何が起こるかわからない。まして、今控えているのは五百年以上生きている大魔法使い。時間を稼がれることで高まる危険は並みの魔法使いの比ではない。
(次のを回避すると同時にゴールズワージーに仕掛けるぞ)
――ああ
飛来した礫を避ける動作をそのままゴールズワージーへの突進につなげる。
そのときゴールズワージーは相手から仕掛ける気配もない内に戦端を切り開いたニコラに内心で臍を噛んでいた。
(ニコラのヤツめ……)
ゴールズワージー自身ニコラがアクティース教とその教えに従って六百年の長きに渡りイースウェア公国と対立し続けるルディア王国に並々ならぬ憎悪を抱いていることを知っていた。彼女は必死に繕っていたが、時にはその憎悪が暴走していたことも承知していた。
しかし、その暴走を繕っていた理由が自分に対する恐怖や警戒ではないもっと暖かい感情に根付いていることも知っていた。だから、見て見ぬフリをしてきた。今回それほどの憎悪を内包した彼女を連れていたのもよもや自分の目の前で暴走するとは思わなかったからだ。
それがまったくの読み違いであったことに対する哀しみと驚愕でゴールズワージーの対応が遅れた。ユニコーンの速度と揺れる精神状態では一定以上の魔力と集中を要する詠唱破棄の魔法は間に合わなかった。
「くっ!!」
それでも積んできた経験の差か、ゴールズワージーはアルコンティアの初動を見た瞬間に己への攻撃を覚り、回避した。
(アルの突進を読んだのか!? さすがに大魔法使いということか……だが、甘いッ!)
辛うじてアルコンティアの突進の直撃を回避してもそこはまだローズの剣の間合いだ。市民を巻き込みたくないなどと口にするローズだが、それでも目の前の敵に情けをかけるほど甘くはない。またそんな余裕がないことも自覚していた。すれ違いざまにゴールズワージーの首を狙って水平に剣を奔らせる。
ギャリィィィインッ
「チッ」
舌打ちとともに切っ先の血を振り払う。ローズがゴールズワージーの首を落とすつもりで振るった剣は寸でのところでゴールズワージーが滑り込ませた杖によって軌道を変えられ、杖の上二割りほどを切り落とし、ゴールズワージーの首を掠めるに止まった。しかし、少なくない出血量は頸動脈を多少なりとも傷つけたことを示していた。
「「師匠ッ!」」
魔女の少女ともう一つ青年らしい声が悲痛な叫びをあげ、刃の鳥籠と並行して闘技場と客席を隔てていた結界が解かれ、声の主らしい青年が闘技場に飛び降りてゴールズワージーの元へ駆け寄る。
「させるかッ!」
「こっちのセリフよ! よくも師匠を!!」
言うや否や再び浮遊する礫を操ってローズたちの行く手を阻もうとする。しかし、先ほどローズたちは彼女の攻撃を回避しつつ、交差してゴールズワージーに仕掛けた。つまり、魔女の少女とローズたちはゴールズワージーと駆け寄った青年魔法使いを挟んで対峙している。さすがに少女も位置関係まで考慮しないほど愚かではない。飛来する礫は先ほどまでの直線弾道ではなく、曲線軌道。
だがそれではアルコンティアの速度は阻めない。
手負いのゴールズワージーしか目に入っていなかった青年魔法使いはアルコンティアの突進を避けることができず吹き飛ばされて壁に叩きつけられた。
「レイ兄!」
魔女の少女の叫びがいつの間にか静まり返っていたアンフィテアトルムに木霊する。
少女の叫びの残響が消えるのと入れ替わりに観客たちがざわめきはじめた。彼らはあくまで他人の血が流れるのを見物しに来ているだけ。自分たちの居る客席は安全だと信じているから妖魔がいる闘技場を間近にしても平然としていられたのだ。
そして、それはローズが乱入し、予定された見世物から本物の戦闘へと事態が変わっても同じだった。彼らはゴールズワージーが、大魔法使いである彼とその弟子がかかって乱入者の一人も討てないなどいう事態は微塵も想定していなかった。だから、誰一人慌てることなく席に座ったまま実戦を眺めていることができた。
しかし、ゴールズワージーが負傷し、レイと呼ばれた青年は壁に打ちつけられどうやら気を失っている。そして、少女の叫びはそれがスリルを出すための演技ではなく現実の窮地であることを如実に示していた。
徐々にざわめきが大きなうねりとなり、最前列に陣取っていた一見して贅を尽くした生活を送っていることがわかる貴族らが奴隷や従卒に守られながら逃げ始めると、それを機に観客たちは我先にと押し合いへし合い逃げ始めた。
ローズがあまりに愚かしい光景に呆れているとアルコンティアがブルリと身震いした。そのおかげで戦場で敵から注意を逸らすという愚行を犯したことに気がついて慌てて少女に向き直ると、
「…………くも…………よくも」
ほんの数秒にも満たないわずかな間だったはずだが、そのわずかな間に少女は何か呪文の詠唱でもしていたのだろう。少女から滴る憎悪が波を立てているかのように少女を中心に溜め池と化した闘技場の水面に波紋が広がっていた。波の源は大地震の前兆のように不気味に振動する瓦礫や敷石だ。
「よくも二人をォォオオオッ!!」
少女の絶叫とともにガラスが急激な温度変化で破裂するように彼女の周囲の瓦礫、敷石、石という石が爆散した。
――大丈夫か?
礫の嵐が過ぎ去るとすぐさまアルコンティアが問う。
「ああ、なんとか……な」
縦横無尽な回避運動に若干酔いながらローズが答える。一瞬の油断もアルコンティアが野生の感覚で魔術の予兆を感知して桁外れのスピードで回避してくれたおかげでかすり傷程度で済んだ、自分は。
と、そこで今の無差別攻撃でミエルは大丈夫か? と慌ててミエルが転がっていた辺りに視線を向ければとりあえず元気にもがいている。
――しかし、無茶苦茶やる小娘だな。俺たちはおろか仲間も市民も関係なしだぞ
アルコンティアの言葉に周囲を見渡せば爆散した礫は闘技場と客席を隔てる刃の格子を掻い潜り観客たちも襲っていた。血を流して倒れる者、瓦礫に潰され呻く者、果ては慌てて逃げる中で礫が狂乱の逃走に拍車をかけた所為か転倒して他者を巻き込み将棋倒しになっている者もいる。
「不味いな……」
素早く周囲の様子を把握して少女に視線を戻す。浮遊する岩塊の上に乗った魔女の直下は敷き詰められていた床石が剥離し、それを支えていたはずの地下の柱や奴隷、罪人、妖魔を閉じ込めるための牢屋や檻を隔てる壁の残骸が剥き出しになっている。その残骸も爆心地はほぼ皆無で中心から半球状に抉り取られて無くなっており、まだ闘技場の床(地下から見れば天井)が残っている縁からは闘技場を満たしていた水が滝となって流れ落ち、地下を水没させつつある。
――何がだ? 作戦通りでいいだろう
確かに水路を突き破ったのも、それによって闘技場が一面水浸しになり足場が悪くなることもローズが立ていた作戦の内だ。そればかりか詰めにはアルコンティアに床を踏み抜かせて地下牢を水没させるつもりだったことを考えればむしろ手間を省いてくれたとさえ言える。しかし、
「この先も想定通り事が運んだとして……あの魔女が私たちを狙うのを諦めてくれるとは思えないんだが……」
半径十メートルはあろうクレーターの上に浮かんでブツブツと新たな呪文の詠唱をはじめて次の魔法の準備に入っている魔女の目は憎しみと怒りでギラギラと輝いている。
ローズ以外を断固として背に乗せないアルコンティアでラフレーズを救出するにはやり方が限られる。最も楽なケースとしてラフレーズが動けるならば戦いながら撤収するということもできたがそれも追撃を受けないためには相手の足を止める必要があった。
ラフレーズが芋虫同然にもがいている現状でも大まかには変わらない。あの状態のラフレーズを救出するためには一度アルコンティアが足を止め、ローズが降りて、ラフレーズを担ぐなり、拘束を解くなりして逃げられる状況を整えなければならない。
そのチャンスを作るため作戦であり、敵との応戦はあの青年魔法使いのような伏兵がいた場合に備えて目の前の敵を削っておく、その程度のつもりだった。
しかし、魔女の目を見る限り何が起こってもローズたちから注意を逸らしそうはない。
――倒すか?
「ずいぶん好戦的だな。それも選択肢の一つだろうが……簡単じゃなさそうだぞ」
先ほどの暴発である程度怒りを発散し、多少激情が治まったのだろう。魔女はこちらを見据えたまま、先端に赤銅のような輝きを灯した杖をレイピアのように突き出し、ローズたちが動くのを待ち構えている。
(厄介だな)
背を向けてラフレーズを救出するわけにもいかず、かといって少女の明らかに待ち構えているふうの魔女に無暗に仕掛けるのも愚策。しかも睨み合いを続けるわけにはいかない。ゴールズワージーは深手を負わせたとはいえ、高位の魔法使いならば遠からず得意魔法ではなくとも治癒魔法で応急処置くらいできるだろう。
(勝手に進んでしまった作戦のリミットも迫っている……ならば)
声に出さずアルコンティアに指示を出し、アルコンティアも素直に応じる。
(勝った!!)
ユニコーンが前脚をあげた瞬間ニコラは勝利を確信した。いくら神速を誇るユニコーンとはいえ馬型の生物である以上その脚力が活かされるのは前進の時だけ。ならば自分と敵との直線上に罠を張ればいいだけのこと。もちろん迂回して真正面以外から仕掛けて来ることも考慮している。
だから、ユニコーンが敷石を蹴った瞬間に肉眼では追えないほど加速したときも慌てることはなかった。
(どっからでもかかってきなさい)
ニコラは自分の周囲の粉塵に魔力を注ぎ込んで待ち構えていた。その範囲に侵入した瞬間に察知できる。ユニコーンの速力をならば刹那の勝負だが念じるだけで発動できる状態で待機している魔法が遅れをとるとは微塵も思っていなかった。
全球状に展開した粉塵の外側がユニコーンと女騎士が駆けた余波で揺れる。
「攪乱のつもりッ!?」
周囲を駆けまわるだけでユニコーンは一向に攻めて来る気配を見せない。
ユニコーンが駆けることで撒きあがる水しぶきが視界を遮り、切り裂かれる風の音で聴覚もあまり期待できない。だが、それでは手負いの二人を狙うと見せかけてニコラを誘い出すことにもできないし、なによりユニコーンはニコラの周囲を駆けているだけだ。
(師匠やレイ兄を狙うってわけでもない……一体何が)
何が狙い、そう心中でニコラが呟いた瞬間、直下から自分に向かってくる存在を感知した。
(下!? でもまだ風が……そうか! ユニコーンが抜けてもすぐには収まらないくらい強い旋風を起こしてから一瞬で足元の死角入り込んで仕掛けるつもりだったのね。でも、私の勝ちよッ!!)
すみやかに待機しておいた魔法を発動した。
ニコラの周囲を満たしていた粉塵の結界がそのまま敵に向かって一斉に収束していく。一粒一粒は砂粒程度。しかし、それ故に軽く、少量の魔力でも簡単に操ることができ、何より早い。そして、煉瓦でも陶器でも元は粘土、つまりは小さな砂粒の集合体だ。収束し押し固めれば文字通り岩の如き硬さとなる。身体を直接岩の硬度で押し固めれば例え高位妖魔といえどスピード型のユニコーンのパワーでは抜けられない。
獲物を逃すことなく砂粒が押し固めていく手ごたえが伝わって来る。
「ザマー」
ザマーミロ、という嘲弄を浴びせようとしたニコラの口は背後で自分の足場となっている岩塊を踏んだ澄んだ蹄の音を聞いた瞬間に閉じられた。
「やはり罠だったか」
魔女の周囲に魔力が充満していることはアルコンティアの感覚が捉えていた。
それによってローズは罠を確信したし、それがおそらく懐に飛び込んだ瞬間に発動する類であろうことを予測した。
だから、当初の作戦を現状に合わせて多少応用することにした。
妖魔は光を嫌うと同時にその多くが水を嫌う。嫌わない類の妖魔だとしても水棲妖魔でなければ大抵は溺死する。故に引き込んだ水で闘技場を満たし、妖魔を捕らえている地下の檻へと流し込むことを思いついた。
もちろん妖魔を捕らえている檻は特殊な錬金鋼を用いた檻だろう。しかし、どんな生物もただ捕らえられているだけで餌も与えられる状況と水が溢れ溺死の恐怖が迫る状況とでは逃げ出そうとする必死さも、発揮する力も比べものにならない。
その上、天井の闘技場ではアルコンティアと魔術師による戦いが行われれば被害で多少なりとも堅牢さが損なわれる。もし、それでもダメそうならばアルコンティアが敷石を踏み砕けば天井の穴から逃げ出そうとすることは間違いない。何体いるかは運任せだが低級でも数体から十数体の妖魔が這い出してくれば高位魔術師といえど対処に追われる。
その混乱に乗じてラフレーズを救出するのが当初の作戦。
その作戦を少し変えた。魔女の直下に開いた大きなクレーターはいくつもの檻を破壊し、妖魔を解き放っていた。しかし、日の光を嫌う性質と頭上にいる強大な気配によって動き出す気配はなかった。
そこで強大な気配の源であるアルコンティアがクレーターの周囲を駆けまわり、粉塵と水しぶきを撒きあげることでわずかながらにも光を遮り妖魔が出てきやすいようにした。さらにクジラなど大型の捕食者が小型の被捕食者の回りを回ることで上へと追い立てるのと同様に周囲を駆けるアルコンティアの気配で下級妖魔を追い立てた。
つまり、魔女の罠に飛び込み哀れにも石像に変えられたのは地下牢の妖魔の一匹だ。
「やはり罠だったか」
「なッ……!!」
淡々と告げたローズの言葉に振り返った魔女が驚愕に目を見開く。その瞳は八割は驚愕が占めているが残り二割は怒りと憎しみの色を失っていない。
(私怨はないが容赦はできないな)
心のわずかな躊躇いを振り払って剣を薙ぐが――、
「クッ」
横から飛来した鉄矢を躱すためにアルコンティアが体勢を変えてしまったため、ローズの剣は魔女の構えた杖を両断するに留まった。しかし、杖を失ったためか、斬りつけられた動揺ゆえか、今まで宙に浮いていた岩塊は浮力を失い落下していく。
堕ちていく岩塊からクレーターの縁に着地し、鉄矢の飛来した方向へ視線を向ける。
「一人倒したと思ったら一番厄介なのが復活か」
クレーターの対岸で玉虫色に輝く金属質の杖を突き、血色の悪い顔色ながら強い存在感を放ち立つのはゴールズワージーだ。襟元を血で染め、首に生々しい刀傷を残しているものの、傷口はすでに塞がっており、眼光もしっかりとした意思を帯びた輝きを保っている。
「提案がある」
先ほどの鉄矢には殺気がなかった。だから、直前まで反応できなかった。それに最初にラフレーズを鎖で縛り上げたときも存在をアピールする前に奇襲を仕掛けた方がよほど効果的なのにゴールズワージーは先にラフレーズを縛ったばかりか、ローズの前に降り立ってもすぐに仕掛けもせず話しかけてきた。
もし、戦意が薄いなら乗って来る可能性は十分にある。
「聞こう」
――乗ってきた!
という歓喜は綺麗に隠してポーカーフェイスで提案を告げる。
「私とラフレーズを見逃せ。お前の弟子の一人は気絶、一人は地下牢にいつ落ちるかもわからない状態だ。地下の妖魔も檻が壊れ自由を得ているのはさっきの一匹だけではないだろう。私たちと戦いながら弟子二人を救命するのはいくらなんでも難しいはずだ」
この提案はゴールズワージーにとっては損しかない。ローズは当初の目的通りラフレーズを救出して逃げられるが、ゴールズワージーは観衆の前で打倒されたという事実と処刑予定の捕虜を奪い返されたという汚名しか残らない。しかし、弟子を護るために横やりをいれてきた人物ならば応じる可能性はある。
「…………ふん。他人の生き死にを見物に来ておいて己が身が危うくなれば逃げ惑うか」
対岸に立つゴールズワージーはすぐには答えず代わりに観客席から逃げ出す人々を眺めて吐き捨てた。騒めきの中で決して大きくない声だったが不思議とローズの耳にも届いた。
「そんな奴らを相手のために弟子を危険に晒してまで戦いを続ける気はない」
提案を受諾したことはともかく、自分が大立者である奴隷商を悪しざまに言うようすに思わず驚きが顔に出てしまった。
「意外か、提案をすんなり受け入れたことが? それともワシが闘技会を厭うことがかな?」
「……たしかに意外だな。お前は隷属の首輪を創りだし、この街を奴隷商の街として栄えさせている張本人だろう。それが副産業とはいえ奴隷を利用した興業を誹ることは自分の行いそのものを否定するようなものだろう?」
本心からのローズの疑問にゴールズワージーが思わず苦笑して言葉を返せずにいると代わりに憎悪たっぷりの声が代弁する。
「ふっ、ふざけるなっ!」
先ほどまで戦っていた魔女がクレーターの縁にぶら下がりながらムキになって咆える。師が奴隷制の大立者と言われることが許せないらしい。いつ落ちても不思議でない自分の状態よりも師の名誉のために反論することが重要とばかりに捲くし立てる。
「お前たちさえいなければ師匠が隷属の首輪を広める必要も、こんなに苦しむ必要もなかったんだッ!! お前たちルディアさえアッ」
わめきたてた魔女が手を滑らせて片手を放してしまった。
「じっとしてなさい、すぐ助ける。さて、早くお前さんが去ってくれんか? でないと弟子を助けてやれん」
「今あの魔女が言ったことはどういう意味だ?」
「…………奴隷のことに関して言い訳をするつもりも、その権利もワシにはない。ただ言わせてもらえば歴史を築くのはその時代に生きた者すべてだが、記すのはごく一部の者、というくらいじゃ。ニコラの言ったことが気になるなら自分の目と耳で調べるといい」
慙愧の念すら感じられる語り口は奴隷を従える魔法器具を発明し、今なお供給し続けている魔法使いとは思えない――それこそ賢者とでもいうような偉大な印象を受ける。
「さあ、その女を連れて去れ」
それ以上は何を聞いても無駄というきっぱりとした終了の言葉。
釈然としないものはあったが見逃してくれるというのにこれ以上留まる理由はない。
それにクレーターの底では戦い気配が途絶えたことを感じとって妖魔が騒めきだしている。ヤツらが登って来れば身動きの取れないラフレーズを助けるのも一手間だ。
一度アルコンティアを降りると、ローズは縛られたままのラフレーズを麻袋でも担ぐように肩に乗せて担ぎ上げ、再び騎乗し直すとアンフィテアトルムを後にした。




