第十一章 二日目――悲鳴
外遊二日目の昼、一行は休息を摂るのに適した木陰で休んでいた。休息とは言っても単なる馬の給水のような小休憩ではない。護衛団の半数は降り注ぐ日差しを遮るために布を枝で張って天幕代わりにして仮眠を摂っていた。
『ここで休息をとる』
突然停止を指示し、告げられたローズの言葉に、もう? とラフレーズが目を見張った。短い距離や宿場のような安定した休息所があれば変わるが、休憩所の無い馬での長旅は定期的な休息を摂るのが基本だ。しかし、まだ休息をとるには早すぎるのではないか、とラフレーズは考えたのだ。
『今夜は交代でも休息をとれないと覚悟した方がいいからな。ここで仮眠をとっておく。ちょうどいい木陰もあることだしな』
『ですが、昼の中に進んでおかなくていいんですか?』
隊員の一人が尋ねた。
獣人は昼間でも活動するが、妖魔は昼には出てこない。旅では妖魔の危険を避けるために昼に進んで夜は町へ入るか安全なポイントを確保して周囲を警戒しながら野宿する。せっかく妖魔のリスクがない昼に進まず仮眠をとることは一見不自然な指示だった。
『パンティングというのを知っているか?』
質問に質問で返したローズの問いにラフレーズを含め、隊員たちが頭に疑問符を浮かべた。
『犬は走ったあとや今日みたいに暑い日には舌を出して喘ぐような浅い呼吸をしているだろう、あれをパンティングというんだ』
『それがどうしたっていうの?』
『犬や狼の類はほとんど汗による体温調節ができない。だから、パンティングで体温を調整している。それはワーウルフとコボルトも同じらしい。しかし、体の大きさに対して舌の面積の小さいワーウルフとコボルトはそれだけでは今日のような気温の高い日には不十分だから気温の高い昼はできるだけ大人しくしてほどんど活動しないんだそうだ』
この知識は偵察部隊から案内役として同行している隊員も知らなかったらしい。手綱を捌きながら驚きと感心の声を上げる。
『だから、今は一番安全な状況と言える。どうせ進んでも谷の入り口に差し掛かるころには進めなくなるんだ。休める内に休んで今夜を乗り越える英気を養っておく!』
というわけで、護衛団の団員たちは最低限の要員を残して仮眠をとっている。しかし、軍人でもないマーガレットとお付きの女官たちにいきなり休めと言っても無理な話。昨夜は緊張と恐怖で快眠とは程遠かったとはいえ、それでも朝まで休んでいた彼女たちが蒸し暑い昼日中に寝ろと言われても寝られるものではない。その結果――
「お嬢様……どこにこんなものを……」
呆れかえって言葉を失いかけながらもラフレーズはどうにか問いとして意味の通じる程度に言葉を搾り出した。
「あら、こんなこともあるかと思ってこっちの荷物に入れておいてもらったの」
頬をヒクヒクと痙攣させ、前髪から覗く額には青筋が立っている爆発寸前のラフレーズの様子にも慣れきっているマーガレットはさも当然のごとく答える。
ラフレーズの顔面が引き攣っている原因は目の前に広げられているティーセットだ。出立の際、荷は最低限に、と口を酸っぱくして言っておいたはずだが、どうやら女官たちはラフレーズの言葉よりマーガレットのわがままを尊重したらしい。しかも、お茶だけではない。クッキーにビスケット、スコーン果てはラスクやヌガーのような庶民的な物まで多少日保ちのする菓子類が所狭しと並べられている。ピクニックに来たとしか思えない充実ぶりに軽いめまいを覚える。
「あのですね、おじょムゥモゴォオ」
「イライラするときは糖分がいいのよ」
小言を並べようとしたラフレーズの口に巨大な手作りヌガーを笑顔でねじ込んで、塞ぎながらマーガレットが嘯く。
ちなみにティータイムの相手を務めているのは女官たちとラフレーズとエバー、護衛団から二人と先導役が一人。
「どうしたの? 食べて。久しぶりだからちょっと焦がしちゃったけど味は保証するわよ」
進められたクッキーは多少色合いにムラがあり、プロのパティシエや宮廷の料理人の作ではないことがわかるが、焦げたというほどではない。むしろこんがりと言うべき十分に上手な焼き上がりでいかにもおいしそうだ。
「もしかして……これ、王あっ……お嬢様が焼いたんですか?」
もちろん、と得意げにマーガレットが胸を張り、
「意外かしら?」
「え……ええ、あっ、いえ、そんな」
「フフ……いいのよ。私王宮ではすることがなくってしょっちゅう都に下りて街の女の子たちに混ざって話したり、子どもたちの相手をしたりして……そのとき街の名物おばさんから教わったの。子どもたちにあげたりしてけっこう好評だったのよ」
少し寂しそうに笑うマーガレットの表情から目を逸らすように並べられた菓子類に視線を落とし、一つ手に取りかじる。
「美味しいです!」
「よかった。お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞なんかじゃないです! 私お母さんにお菓子作り教わらずに士官学校入っちゃったから料理とか最低限しかできなくて……こんな上手にお菓子なんて作れません」
「あら、じゃあ誰か好きな殿方にプレゼントしたりは?」
「ぜっ全然! っていうかまだそういう相手もいないし……」
「そうなの!? でもエバーはカワイイんだから軍にいればいい寄ってくる殿方の一人や二人はいるでしょ?」
今回の輿入れで落ち込んでいたマーガレットだが、一日経って少し空元気を取り戻したらしく、(やや陰はあるものの)笑顔で話すが、
(王女様ぁあ! この話題ダメですよぉッ!!)
と、エバーは心の内で悲鳴をあげていた。
五人の女官は皆この話題を過去のこととして流せる熟年者だが、護衛団のメンバーはローズ、ラフレーズ、エバーとクーシェ以外は皆二十代後半。十代後半が結婚適齢期、二十代前半でも行き遅れと言われる社会で二十代後半は完璧に婚期を逃した負け犬組。自然とこの話題はタブーとなる。事実、先ほどまでラフレーズ以外和やかなものだったのに、急に纏う雰囲気がハリネズミかヤマアラシのように刺々しいものへと変わっていた。
「ンンッ! お嬢様、軍は結婚相手を探す場ではありません!」
「あ~ハイハイわかってます。わかってます」
ようやくヌガーを飲みこんだラフレーズが空気の変化を察して慌ててこの話題を打ち切ろうと割って入るが、それを鬱陶しそうにいなした上で、
「でも、東西両軍はともかく、中央軍はそういう目的の娘も多いじゃない。大体スカーレットだって軍で出会って結婚するんでしょ?」
マーガレットはラフレーズの話題変更の努力を平然と踏みにじった。
「そうなんですか!?」
ラフレーズが結婚すると聞いてエバーは他の同席者の刺々しい雰囲気も忘れてつい喰いついてしまった。他の面々も全員嫌なことを思い出してしまったという表情でラフレーズへ冷たい視線を送る。
「たったしかに声をかけて頂いてますが、まだ決めてません」
「あら、断わるの? 凄いわねえ」
マーガレットが驚き半分、からかい半分でわざとらしく口元を覆い、クスクスと笑う。
「……凄い?」
名家の出であるラフレーズが「声をかけて頂いている」などと言い、マーガレットが断わることを「凄い」と評するということは政府か軍の高官だろうか、とエバーが首を傾げて考えているとそれを読み取ったマーガレットが説明してくれた。
「スカーレットはジョアに求婚されてるのよ」
ジョアと愛称だけ言われてもピンとくるものではない。第一、軍の高官なら知っているかもしれないが、政府高官や元貴族の名前などだったらファミリーネームを聞いても西方暮らしのエバーにはわからないだろう。
「ジョア……ジョア…………」
しかし、あえて愛称だけしか言わなかったということは知っている名前だと推測し、エバーは知っている著名人の中で該当する名前をたっぷり数十秒かけて記憶の中から検索した。
「ジョア……ってもしかして」
そして、正解にたどり着いた、とマーガレットは確信した。何しろエバーの目が信じられないという風に驚愕に見開かれていたからだ。
「ジョアシャン王子ですかッ!?」
クスクスと笑うマーガレットの様子だけで十分答えになっていたが、ラフレーズがむっつり頷いたことで答えが正解であることが確定し、エバーの眼差しが驚愕から羨望へと変わる。
「なななななんで悩むんですか!? 文字通り玉の輿じゃないですか!!」
「ホントよねえ、王子に見初められることを夢に見て花園の守護者目指す女の子は後を絶たないっていうのに……それとも王位継承争いで兄上とアレクの後塵を拝してる第三王子じゃ不満なのかしら?」
「べっ、別にジョアに不満があるとかではありません!」
部下である隊員たちからの冷たい視線と興味津々のエバーの熱い眼差し、面白がるマーガレットの生温い眼差しを一緒くたに受けてたじろぎながらも副隊長としての威厳を失わないよう精いっぱい平静を保つ努力をしながらラフレーズが答える。しかし、第三王子を「ジョア」などと親しげに呼んでしまっている時点で動揺を隠しきれていない。
「だったらなんで?」
「仕事を続けたいからです」
嫁いで綺麗なドレスを身に纏い、社交界で笑っているだけの自分というものがどうしても想像できなかったし、何より十年前に決めた二つの決意を果たすまで騎士としての自分を捨てる気にはなれなかった。
「えっ? でもスカーレット、貴女は……」
「ええ、近衛騎士は続けられませんが、使ってくれる将軍がいれば軍には留まれます」
「でも、縁談断わってなんてお母様がお許しにならないんじゃない?」
ラフレーズ家は代々近衛騎士を務めてきた名家で、貴族制の時代から騎士の階級でありながらその家名は大貴族に勝るとも劣らぬものだった。その一因は近衛騎士として側仕えすることで王族に見初められ、公妾として王の寵愛を受ける者が多かったことにある。歴代の中には正式な王妃として王の傍らに座した者もいる。そのため婚姻に重きを置くラフレーズ家の考え方は変わっていない。
そして、スカーレットの母にして現ラフレーズ家当主カマローサ・ラフレーズは近衛騎士と王宮警護を取り仕切る中央軍の将軍一人だ。彼女が一言言えば他の将軍たちとておいそれとは逆らえない。娘を使うな、という自分たちに実害の無い話ならまず間違いなく従うだろう。
「ええ、母上には散々妨害されていますが何とか拾ってもらえることになりそうです」
その当てがローズだとはまだ口にしない。
「でも、もったいないなあ」
エバーが自分のことでもないのに未練がましさすら感じられる熱っぽい声で呟く。
「あら、エバーも花園の守護者を目指してる口なの?」
「今は姉様の下に居たいですけど、仕官したときは夢に見てましたよ。だって花園の守護者に入れば王子様や軍、政府の高官、旧貴族の名家の方に見初められることも多いんですよ!? 女の子なら一度は夢に見ますって」
エバーの発言にラフレーズがため息を漏らす。
「確かに西方軍からも毎年大勢の新米士官の娘たちが中央軍への移動願いを出していますね」
ラフレーズが嘆かわしいといわんばかりにため息を漏らしたのに同意するように会話に加わったのは西方軍から先導役として同行しているグレース・カルメルだ。
「そのせいで中央軍は女性軍人の割合が高いですし」
ルディア王国軍全体の職業軍人の男女比は七対三ほどだが、東西両軍では男女比がおよそ八対二と女性の割合が減り、逆に中央軍に限定すると五対五にまで女性の比率が跳ね上がる。元々中央軍は仕官の時点で女性が多い上に東西両軍からも集まるから余計に高くなるのだ。
「実際にはそう甘いものでもないんだけどね」
「そうなんですか?」
「当たり前よ。大体王都に配属される者など中央軍の三分の一もいないの」
中央軍とは言っても王都に常駐できる王都防衛の師団に配属されるか後方勤務の本部勤めにでもならない限り王都に留まることはできない。まして、王宮に出入りし、貴人に見初められたいと思ったら厳しい審査をパスして王宮警護の旅団に配属されるか相当の高官にならなければならない。それでも王族を遠目に見られる程度。王子に見初められるほど近づくことができるのは花園の守護者とごく一部の高官達だけ。
というラフレーズの説明を聞いてエバーが「へえ」と感嘆を漏らす。
「しかも、アレクサンドル様はすでに王太子妃をお迎えになっているし、ジョアは……」
滔々と説明するのに夢中になって失言したことに気がついたラフレーズが慌てて口を閉ざすが時すでに遅し。
「まっ、まあ、それでも頑張れば王子たちや王の寵愛を受けて公妾に取り立てられる可能性は十分にあるけれどね」
周りにいる団員たちを刺激しないように気を使い、オブラートに包んで締め括ったが焼け石に水――いや氷柱にマッチ棒とでもいうべきか団員たちの視線を溶かすことはできなかった。
エバーへの説明では省いたが、王宮警護の旅団は一定の従軍期間を経た者から選抜される精鋭である。その上、近衛騎士に入ろうと思えばさらに身辺調査、適性、実力、もろもろを精査される。時間を費やし、努力を重ねようやく入隊が叶うのは早くとも二十歳前後。
だから、念願かなって入隊したときには女の花盛りを過ぎているという悲しい話は多い。その実例が今ラフレーズたちに氷柱の視線を向けて会話から耳を背けている護衛団の面々だ。しかも、年齢的に彼女たちを寵愛する可能性のある現王ルノワール六世はただ一人の公妾にすべての愛を注いでいるため他の公妾が新たに取り立てられる可能性も絶望的なのだ。
「まあ、エバーは無理に中央軍目指さなくても西方軍で頑張ればいいものね。今の西方軍にはヴィクトール兄上がいるんだから」
「無理ですよ。私みたいな下っ端と司令じゃ接点ないですし……」
「あら、最初から諦めちゃダメよ。それにそんな夢見てたなら士官学校時代にアピールする機会の一度や二度はあったでしょ?」
ヴィクトールは西方軍士官学校に入っていた。いくら王族の所在が開けっ広げにされているわけではないとはいえ、五年も通っていれば第一王子が西方軍士官学校に所属していることくらい広まる。ヴィクトールが士官学校の生徒であった間、中央軍に仕官するのと同じ理由で入学希望者の女の子の割合が増えたことはマーガレットも知っていた。
「それは……私だって最初は夢見ましたし、私みたいな女の子もたくさんいましたよ」
エバーが士官学校に入学した年、ヴィクトールは五年生だった。入学直後は王子と同じ学び舎に入れたというだけでも夢心地だった。しかも、五年生は最上級生として一年生の演習の指導、監督を担うので接点まで持てると知ったときは卒倒しそうだった。それはエバーだけでなく同じような夢を見た女生徒たち全員同じだろう。
「でもぉ、入学一週間でみんな諦めちゃいましたよ」
なんで? とマーガレットだけでなく、ラフレーズたちも首を捻る。入学後一週間では実習はないし、上級生たちから情報が流れ伝わるにしても早い気がした。
「伝統の寮対抗戦ですよ」
ああ、と事情を知っているマーガレット、ラフレーズ、カルメルは納得して頷く。しかし、所属の違う中央軍の面々が聞きなれない伝統に先ほどまでの刺々しい雰囲気を脱ぎ去り、「寮対抗戦?」と疑問の声を上げる。
「士官学校の伝統寮対抗戦、またの名を『パンティー争奪戦』ですよ」
当たり前のように言うエバーに対し、あまりにもバカバカしいネーミングに一同が呆れて「何それ!?」と異口同音に問う。
「中央軍ではないんですか?」
「あんなバカな伝統が他にもあるわけないでしょ!」
ピシャリとツッコんだのは西方軍所属のカルメルだ。
「で、何なのそれ?」
「ええっと寮対抗戦っていうのは……貴族騎士制が廃止され、代わりに徴兵と仕官制度が始まった初めの頃に貴族や騎士の家出身の男子生徒が女子寮に押し入って女子生徒を暴行したのが始まりらしいです」
貴族騎士制度の時代、政治にはごく一部だが女性も参画していたが、軍事に関わる女性は従軍娼婦くらいのものだった。制度が廃され、仕官制度に代わると同時に女性の仕官も認められたが最初からすんなり受け入れられるはずもない。「軍にいる女は娼婦」という考えを捨てていない元貴族騎士の子弟が女子寮に踏み入り、暴行を働いた。裁く側もまだ貴族騎士の影響力を拭い切れていない時代のこと、士官学校は貴族騎士の圧力と仕官制度を形骸化させないようにという上層部からの圧力の板挟みとなった。そこに学生たちの悪行に「騎士としての誇りを持つ者のすることではない」と怒りを示した元貴族が息女を入学させ、男子生徒を牽制することにしたそうだ。
「それで解決したんでしょ? なんで伝統になって残ってるの?」
「それでもすんなり幕引きとはならなかったらしいんです」
ただでさえまだ精神的に未熟な思春期の少年たちが五百年かけて培われた歪んだ特権階級意識に染まっているのだ。そう簡単に矯正できるものではない。しかも、女子の方が数が少なかったため専守防衛に徹するしかなかったことも男子側を助長させた。
「自分がいくら言っても止まらない男子たちの狼藉に例の女子生徒が対抗策に本物の剣を持ちだして男子の側もケガ人が出て、やり返しの応酬になりかけて……さすがにこれ以上はマズいって思った軍が年に一度入学直後の一か月に一回だけ課外訓練って形で認める代わりにそれ以外のときに手を出したら即刻軍紀違反で処罰するってことにしたそうです」
あえて報復の機会を公に認めることでそれ以外の場面での報復を絶対に禁止し、有無を言わせず処断できるようにした苦肉の策だ、と西方軍では言われている。
「で、遺恨を残してる世代が卒業して、怨みのなくなった世代に代わっても戦いはなくならなかったそうです。でも、女子に暴行することを認めるわけにはいきませんから……いつの間にか攻め込んだ男子が女子のパンツを奪っていくって形で落ち着いたらしいです。今ではパンツ獲られた女の子が返してもらう代わりに男子とデートするっていうおまけがついた年一の行事になってるんです」
説明を聞いた面々がくだらないのか、真面目なのかよくわからない伝統行事に呆れ八割、感心二割といったふうな表情で「へえ」と漏らす。
「だから、寮対抗戦話を聞いたときは一年生の女の子みんな窓からパンツぶら下げて『獲ってください』ってカンジで男子が攻め込んで来る日を待ってたんですけど……」
その光景を想像したのだろう、何人かが笑いを堪えきれずに吹きだした。
「笑いますけど私たちはけっこう真剣だったんですよ!」
近衛騎士を志願した面々も自分たちが見た夢と重なるところがあるからだろう護衛団の団員たちはすぐに笑いを抑える。
「で、それがどうして一年生がみんな王子を射止める夢を諦めることに繋がったのよ?」
エバーが思い出して少しむくれたような顔をしてから、
「王子は一年生なんか目もくれずに姉様だけを目指してたんですよ」
寮は縦割り社会の軍という組織の色を反映して一年生がもっとも被害に遭いやすい一階の部屋で、当時四年生のローズは攻め難い四階だった。にもかかわらず攻め込んできたヴィクトールはわずかな手勢を率いて四階まで攻め込むとローズとの一騎打ちに熱中していたのだ。
事実としては、ヴィクトールは一番楽しめ、かつそれ以上ややこしい問題になることのないローズを選び、狙われたローズは一対一の剣腕では敵わないヴィクトール相手に必死に戦っていたのだが、それを知るのは本人たちと当時から二人と親しい級友数名だけである。
「バカみたいにパンツ吊るしてた私たちがそのことを知って隠そうとしたときには別の男子たちに獲られた後で……」
今度は話を聞いていた全員が爆笑する。
だが、当人であるエバーたちにしてみれば笑いごとではない。何しろ「獲ってくれ」とつるしてあったのだから簡単に持っていかれた。そして、獲っていった相手は必ずしもいい男とは限らない。ムサイ男だったり、怖そうな上級生だったり、ということも多かった。一枚だけなら、と諦めようにも集団生活の性で持ち物には名前を書いているし、吊るしてあった部屋もバレているから逃げられない。負け犬は勝者に何も言えず伝統の名の下に強制デートさせられた同級生は数多かった。
「笑いごとじゃないですよッ!! ホントーーーっに恥ずかしかったんですからッ!!」
「ご、ごめんなさい……クク……でも……ププ……その行事がきっかけで結婚するカップルもいるんでしょ? 貴女はどうだったの?」
笑いを堪えきれないマーガレットの問いかけに「知らんぷりしました」と言い放つ。
「ゼーッタイお断りなゴリラみたいな先輩で、他の先輩に聞いてみてもいい評判聞かなかったんでパンツ諦めました」
「でも、持ち物には名前も入れているでしょう?」
カルメルの問いにプイッと顔を背け、
「名前……書き忘れてたんです。それでも部屋で絞り込まれましたけど、同室だったクーシェが『パンツで王子様が釣れるわけないでしょ、ってかそんな王子様願い下げ』って参加してなかったおかげで部屋からもバレずに済んだんです」
「プッ…………クク……クッ……そ、それはクーシェの方が正しいわね」
堪えきれずもう一度、笑いの花が咲く。
「そりゃあ……今思えばバカだなあって思いますけどぉ」
当時は十一歳の少女なりに真剣だったのだ。
「まあ、そのころはそういうバカな夢見る年頃よね」
同病相憐れむというふうに慰めの声をかけてくれたのはヴァレリー・ダカンという女性だ。
「でも、よくそんなバカな行事が続いてるわね」
起源こそちょっとした事件だが、現在では『パンティー争奪戦』などという低俗なネーミングの寮対抗戦は確かにバカな行事と評されてもしかたない。
「ところが、これがそうバカにしたものでもないです」
と、事情を知っているカルメルが呆れ気味に補足に入る。
「男子側が勝利した年にはそのデートで何組かのカップルが誕生して実際に結婚に至るケースも少なくないんです」
何しろ十代後半が結婚適齢期と言われる社会だ。貴重な十代前半の出会いの時期を寮生活の閉鎖環境で過ごすのだからくだらないきっかけでも貴重な出会いの場になる。
「おかげで男子側が勝利する度に卒業生を前に中退したり、入隊してもすぐに退役したり、して西方軍では女性士官があまり長続きしない一因にもなっているんです」
入隊したばかりでまだそこまでは事情を知らなかったエバーが「へえ、そうなんですか」と感心し、マーガレットも「特色があるのね」と呟く中、今まさに結婚と仕事のどちらを選ぶかで悩んでいるラフレーズには疑問が浮かぶ。
「なんでそんなに退役するの?」
中央軍に所属するラフレーズの感覚では婚姻=退役というのは腑に落ちない考えだった。ラフレーズの場合求婚者が王子であるため別だが、中央軍では一般人となら結婚しても仕事を続ける女性士官も大勢いる。
「中央軍と違い西方軍はイースウェア、ブルトルマン両大国と接するルディアの激戦地ですし、二か月前までは牙の城の近辺とそこまでの街道の妖魔退治などそれなりに危険な任務も多かったので結婚すると男性が女性に仕事を続けさせることを嫌って退役を勧める傾向にあります。加えて、女性でなければならない花園の守護者のような役職がないですからと女性士官が無理に留まる理由もないんです」
なるほど、とラフレーズが頷く。
「まあ、それも二か月前までの話です。間もなく中央軍ほどではないでしょうが西方軍も女性士官の数が増えますから」
なぜ女性士官の数が増えるのか、と疑問を感じたエバーがそのことを口に出して尋ねようとした矢先、機先を制すようにカルメルが、
「だから、ヴィクトール様にアピールするなら早い方がいいですよ。せっかくヴィクトール様と懇意なラズワルド隊長の下にいるんだからアドバンテージを活かさないと。まずは顔と名前を覚えてもらうことからですね」
と、エバーをからかうように付け加えて自分の失言から見事に話題を逸らした。
「そっそそそそんな夢もう見てませんよッ! それに司令には姉様がいるじゃないですかッ!! 私なんかじゃ勝ち目ありませんよ」
夢を見ていないと口にした直後に勝算云々言っているあたり夢を見ていないのかどうか微妙なところだが、顔を真っ赤にしてブンブン手を振ってパニック気味に否定するエバーを哀れんだのか、誰もその点を突くことはなかった。
「ローズと兄上はたしかに仲いいけど……」
「恋仲というよりは戦友とか、(いい意味での)ライバルという感じですね」
二人の出会いから今に至るまでの関係を知っているマーガレットとラフレーズが二人の恋仲説に眉をひそめるが、
「え……でも、一月ほど前、姉様と司令が朝の司令部でキスをしてたっていう噂がありましたけど?」
「えっ! ローズが!? 兄上と!?」
一か月と少し前に流れた噂を思い出してエバーが伝えると、驚きと興奮と喜びが絶妙に入り混じった眼差しでマーガレットが喰いつく。すると、火に油を注ぐようにカルメルまでもが「その噂なら私も聞きました」と信憑性を高めるように一言添える。
しかし、ラフレーズは「まさか」と端から信じず、
「どうせ、非礼にもラズワルドがヴィクトール様に掴みかかって、その現場を目撃した誰かが(誤解か悪意かはともかく)噂を流したというのが関の山ですよ」
と、的確に事実を予測した。あまりにあり得そうな可能性だけに意識せずともその光景が脳裏に描かれ「ああ、それ有りそう」とマーガレットも頷く。
「でも、兄上とローズだったらお似合いだと思わない?」
「私もそう思います。姉様と司令だったらお似合いのカップルです」
マーガレットが兄と親友の恋仲が本当だったらいいのにと同意を求めるとエバーがそれに同意する。武勇の人であるヴィクトールの隣には社交界にいそうな優雅な都会のお嬢様よりも凛々しいローズのような麗人の方が似合うような気がした。
「たしかに今や、将軍で救国の英雄ですから王子とも釣り合いがとれますが……」
しかし、王族にも関わらず未だ王太子妃はおろか公妾の一人もいないヴィクトールと色恋沙汰は十歳未満の初心なローズに恋愛というイメージが湧いてこない。それよりは、
「どちらかというとジョアがラズワルドの名声を利用するために言い寄る方が現実的な気がしますが……」
武芸の第一王子、政治の第二王子の影に隠れて有力視されることがない第三王子だが、実は王位継承を狙って着実に勢力集めを進めている。(自分への求婚も勢力集めの一環であるため)そのことを知っているラフレーズが夢もロマンも愛もない現実的な推測をすると、マーガレットがつまらなそうに顔をしかめた。
「あら、ローズに捨てた男を押しつける気?」
「捨ててませんし、押しつけてもいませんッ!」
愚かにも再び自分からジョアシャンの話題を振ってしまい、マーガレットの揶揄の餌食になってしまったラフレーズが噛みつく。
「とにかくローズが起きたらキッチリ問い詰めなくっちゃ」
しかし、扱いに慣れているマーガレットはラフレーズの噛みつきなどどこ吹く風でローズとヴィクトールのゴシップに再び思考を向けていた。
一か月と少し前の噂が消えることなく、それどころかまさかマーガレットの耳にまで届いたなど仮眠中のローズが知る由もなかった。
起きたローズに噂の真偽を迫ったマーガレットがラフレーズの推測通りのつまらない事実に落胆するという一幕はあったが、何事もなく仮眠を終えた一行は日が傾き、気温も下がり始めたころ西へ向かって進行を再開した。
恐怖心は夕闇の薄暗がりも無明の闇であるかのように錯覚させる。
恐怖が黒く上塗りしている夕闇から気配を感じる――いや、そもそも警護の専門家としてほとんど王宮から出ず、張り巡らせる警戒も対人用のものである近衛騎士たちにそう易々と野生に生きる獣や獣人、妖魔の気配を感じとれるものだろうか。できないならば感じている、と思っているこの感覚もやはり錯覚なのだ。
耳が拾うざわめきは風が草木を撫ぜた音、感じる気配は経験不足に起因する恐怖が創りだした錯覚。そう己に言い聞かせながらもヴァレリー・ダカンは無意識に騎馬に手綱を打ち、歩みを急かす。
『ただの獣でも賢いものは火のあるところに人がいると知っている』
進行を再開する際すでに茜色に染まりつつあった空を見て松明を灯そうとした隊員をローズが制止した。
『獣人は人の知と妖魔の力を兼ね備えている。松明など焚いて進めば獣人たちに、ここに人がいる、とアピールするようなものだ』
そういってローズはいつでも明かりを灯すことができるように種火だけは用意したが松明を灯すことを許可してくれなかった。暑い日の昼間はワーウルフやコボルトは活動しないという言は正しく、ただの一匹も襲撃して来ることはなかったのでローズの集めた獣人情報とそこから導き出された方針に異を唱えることは誰にもできなかった。
(だからってこの暗がりの中で明かり無しじゃ命がいくつあっても足りないわよ)
戦って切り抜けるよりも少しでも早く駆け抜けるために道の整えられている街道を進んでいた間はできる限り馬を急がせた。しかし、街道から逸れてエオルスバレーへと通じる旧道へと歩を進めると全力で駆けることはできなくなった。遅い歩みは背後から何かがつけてきているのではないか、という恐怖を増大させる。
(あ~あ、私ってつくづく運がないなあ)
ローズが特に意図することなく割り振った役割分担で本隊から少し離れ、たった三人で後衛を任されてしまった自分の運の無さに嘆いた。この護衛団に選抜されてしまったこと自体が不運だ。精鋭として選ばれたと思えば名誉かもしれないが、ラフレーズの人選を見れば本当の理由は透けて見える。護衛団のメンバーはラフレーズ自身を除いて元貴族や有力官吏などと繋がりのない者ばかり――つまり、後腐れないような者が選ばれた。
(それだけ危険な任務ってことよね。まったく近衛騎士にまでなってなんでこんな僻地で危険な任務に就かなきゃいけないんだか)
そんな悲嘆に暮れている内にも日は西の地平に完全に沈み、残り火のような夕焼け空も赤みを失いつつあった。東へと頭を向ければすでに星が瞬き、夜空になっている。
(神話では星は未来を教えてくれるっていうけど……見ても何にもわかんないわね)
星読みは高度に専門的な知識を要する。一軍人であるヴァレリーが一見したところで未来などわかるはずもない。だが、見上げた満天の星空は未来を教えてくれない代わりに過去を思い出させた。
(そういえば、こんなにたくさんの星見るの何年振りかしら)
大人になると空を見上げる機会は不思議と少なくなる。しかも軍に入ってからは華やかな街での暮らし、出世して王都に来てからは都の明かりと宮城での勤務で夜空を眺めたことなど数えるほどしかなかった。
(子どものころは星の明かりなんて見飽きてて……都会の明かりがすごく魅力的に見えたのに……星ってこんなに綺麗だったかしら)
かつては見飽きるほど見た星空は久しぶりに見るとこれ以上ないほど輝かしく見えた。
(昔は都会に出て素敵な出会いをして……って夢見て星に願いを掛けたっけ)
見飽きた星に都会の明かりを夢見て願いを掛けたなんて今思うとひどく身勝手なように思えてふと自嘲の笑みがこぼれる。
ヴァレリーはルディア王国の片田舎にある普通の農村に生まれた。特にこれと言った特産物もない村は地理的な理由もあってほとんど他の村との行き来もなく、自給自足で回っていた。だが、それは裏を返せば閉鎖的と言うこと。溢れる若さは閉鎖的な村が疎ましく、収穫後の出荷やまれに何かの買い出しなどで街にいく父についていく度にヴァレリーの中で街の魅力は増していった。
だが、現実は厳しかった。村の学校での成績が良ければ都会にある上の学校への推薦を受けられるがそれほどの才はなく、士官学校へ入学することは両親に反対された。
(だから、貴女はまだ恵まれてるわよ、ゴールド准尉)
心の中であえて階級をつけて入隊一年目にして自分が十年かけて登った階級を手にした少女にささやく。そう。士官学校に通えていれば自分の腕ならもっと早くに王都に行けたという自信があった。
村の学校を卒業してから家の手伝いをして暮らす中で、両親の口から見合いという言葉が出てはじめたのは十四の頃だったか。都会への夢が村の青年たちを霧のようにつつみ、村一番の美少女だったヴァレリーを恋というものから遠ざけていた。街に暮らす男性との縁談を受ければ村を出られる、それが一番現実的でそうした縁談を探してもいいかと思い始めた十五歳の年の暮れ、徴兵検査を通過して引いたクジで当たりを引いた。
両親は渋ったがヴァレリーは飛びついた。街へ出る代償に結婚という枷を嵌められては街へ行く意味が半減してしまう。一方で中央軍での兵役ならば貴人に見初められるという可能性もある。一定に金額を納めることで徴兵を免れることもできるが、普通の農民の家には少々厳しい額だったので両親も折れた。
(訓練はキツかったけど、街の生活は村よりは楽しかったのよね)
だから五年の兵役期間を終えても村に戻らず、そのまま志願して職業軍人になった。そして、数年して実力を認められ王都防衛の師団への転属が叶った。
(あのときは嬉しかったなあ)
努力すれば上に登れるという事実を噛み締めた瞬間。そして、憧れの王都まできた。あとは夢に描いた出会いだけ。しかし、そこで気がつくべきだった。並みより少し上の容姿など華やかな王都では簡単に埋没してしまう野花だということを。同期の顔ぶれもかなり粒ぞろいで、まして士官たちは富裕層や旧貴族の子女など見た目と家柄を併せ持つ強敵ばかりで敵うはずもないということを。
(無我夢中で頑張って……でも、現実みてなかったのよね)
努力は嘘を吐かず近衛騎士を拝命したのは三年前のこと。しかし、登れるだけ登ってようやく冷めた頭で現実を見ればすでに二十七。よほど奇特な相手でもなければ今から結婚などありえない年齢になってしまっていた。身一つで暮らすことを考えれば退役するにも早すぎ、惰性で務めていただけだというのに……。
平和なルディア王国の戦地に接しない中央軍、その中でも一際固く守られた宮城にいる近衛隊に命の危険に晒される任務など来ることはないと思っていた。
『仕事を続けたいからです』
自分をこの危険な任務に選抜してくれた上官にしてこの部隊では副隊長はそう言い切った。
「理解できないわ」
苛立ちに似た感情が小さくだが肉声となってこぼれる。
嫌悪はなかったとはいえ徴兵され、職業軍人になった理由もあくまで自分のため。軍人という職に愛着などなく、騎士としての誇りも持ち合わせていないヴァレリーには政略だろうが、王子からの求婚を断ってまで軍人であり続けたいなどと願うラフレーズの心情は理解し難いだけではなく、怒りや嫉妬さえ覚えるものだ。
ふと風が変わった。
今自分の居る場所が城壁で囲まれた安全な国内ではなく、獣人の跋扈する危険地帯だということを失念し、警戒を怠り、思いに耽っていたヴァレリーの意識が遅まきながら現実に回帰したときには彼女は草むらに転げ落ち、口から血泡を吹いて危険を知らせることすらできなかった。
「ア……ガァ……イェ」
「女か……惜しいことをした」
彼女の喉笛を一撃で咬み切った影が血の滴る牙を剥き出しにして唸る。その背後に変わることなく星空が瞬いている。
(星が……読めたら…………)
痛熱と体内から噴きだす血によって熱いほどの首回り。それとは対照的に手足の先から這うように登って来る寒気が嫌が応にも死が避けられないことを教える中、幼い日に星空を眺めたときもし未来を知ることが出来たなら、と思う。
(こんな……死に方するって…………わかってたなら……村で大人しくしてたかな)
そうすれば今頃エバーくらいの年の娘の一人くらいいたかもしれない。そう思うと自分と同じような幼い夢を見ていたという少女に一層の親近感が湧く。
(アナタは……死ぬんじゃないわよ)
直前にラフレーズに抱いた醜い感情とは対照的に、わずかだが他人を思って穏やかな気持ちで逝けたことはせめてもの救いだったかもしれない。
心の声を拾うユニコーンの耳には細かな声まではともかく隊員たちの恐怖と緊張、その他の雑念が届いていた。そして、いくつも重なる雑音の一つが短い間に二度三度と感情の色を変えていたことに気がついて、わずかに注意を向けていたおかげで突然その声が消えたことをアルコンティアはすみやかに察知した。
「どうした?」
――音が消えた
「何?」
――後ろの隊員の声が消えた
背筋に汗が流れる。
「ラフレーズ、先頭を頼む。私は後ろの様子を見てくる。エバー、クーシェこい!」
ラフレーズが応じ、馬の足を速めて馬車の前に出るのと入れ替わりに騎首を反転し、後方へと駆けだした。ユニコーンの速力をもってすれば駆けるというほどでもない距離。さして丈の無い草が生い茂る中に馬車や馬の脚、人の足で踏み固められてそこだけ土を露わにする野道に少し前に通った時はなかった影がいくつか横たわっていた。
「――ッ!」
その内の一つが立ち上がり、一つの影を引きずるようにして草むらに消えようとする。引きずられる影は暴れている。瞬時に仲間の生存を確信し、すれ違いざまに剣を奔らせ引きずっていた影の腕を斬り飛ばした。
「グァアッ!」
騎首を反転し、失った片腕の切り口を抑え、絶叫する獣人の首を斬り落とす。他の敵は自分たちには敵わない強敵が来たと知るや否や草むらに逃げ込み、闇に溶けて消えた。
「大丈夫か?」
引きずられていた隊員に声をかけるとコクコクと頷くが、声を出さない。星明りを頼りに目を凝らせば片手で口を覆い、その指の隙間からはけっこうな量の血が滴り落ちている。殴られたか、咬まれたか、ともかくしゃべれそうにない。片足は折られているようだが、他に負傷はないようだとわかり次いで周りに転がる死体を見渡す。馬の死体が三つ、団員の死体が一つ、一人の団員は姿が見えない。そして――
「ワーウルフか……」
ここまでの道中で発見したのはコボルトばかりだった。牙の城は力で勝るワーウルフが中心に支配し、コボルトは追いやられているらしいことは事前調査でもわかっていた。ワーウルフが襲ってきたということはいよいよ危険地帯に突入したということだ。
――どうする?
血の流れたここで止まることは論外。選択肢は引くか、進むか。しかし、ここで引いても安全と言える地まで逃げられる保証はない。それならば、
「見つかった以上、できるだけ早くキャンプ地に入って体勢を整えて夜が明けると同時にエオルスバレーに逃げ込むしかない」
それからおよそ一時間、必要に襲撃を受け続けた。
「ペースを上げ過ぎるなッ!」
少しでも襲撃地点から遠退こうとする心理によって護衛の隊員たちだけが無意識のうちにペースをあげようとして陣形が崩れそうになった。妖魔や獣人相手に馬を疲労させたら死ぬ可能性が高まるということを踏まえて牛の歩みになっても体力を温存しろ、と全員に伝えてあったはずだが、事前に教えただけの知識など恐怖心に吹き飛ばされてしまった。
「ですが、少しでもペースを上げて襲撃してきた群れから距離をとらないと……」
「だからと言って護衛のお前たちだけが先行してどうするッ!」
自身の恐怖心からくる逃走願望を正当化しようと隊員をローズが一喝する。
「襲撃者は後方から襲ってきた。ヤツらはこの先に張った網に私たちを追い込むために放たれた追い込み役だ。無駄に恐怖に駆られて体力を削られれば待ち構えている敵の網を突破することができなくなるギリギリまで落ち着いて進め!」
狼の狩りは、爪や牙ではなく脚で狩りをする、と表現される。それだけ狼は持久力に自信があり、周到に罠を張り、追いかけ回して追い込んで獲物を仕留める。
「いいな、決してペースを上げて無駄に馬を疲れさせるな」
どの攻撃も本気で全滅を狙っているものではないことは明らかで犠牲者はでなかったが、こちらも襲撃者を仕留めることもできずひたすら追い立てられる形となった。結果、護衛団の面々は襲撃を受ける度に馬を急がせようとしてその度にローズが一喝して留めるも少しずつ一団のペースは上がっていた。
「そろそろだな」
追い立てられながらも敵の思惑に逆らい牙の城から遠のきエオルスバレーの入り口へと着実に近づきつつあった。思惑通りに動かないこちらを追い立てようと攻撃の頻度も増していた。だが、この分ならもうすぐキャンプ地につける。その前にそれなりの規模の”壁”が待ち構えているとみて間違いない。団員たちの不安は百も承知。その上でそこを突破するだけの余力を残しておかなくてはならない。
そして、予測通り直後に行く手に立塞がった獣人の数はそれまでの比ではなかった。
「グルゥァァァアアアア」
それまで忍び寄って恐怖心を駆り立て、追い立てることに専念していたワーウルフがもはや隠れることすらせず、牙を剥き、獰猛な唸りとともに跳びかかってくる。
「イヤアアァァァァァァァア」
初めて感じる本格的な獣人の脅威にマーガレットの乗る馬車から狂乱じみた悲鳴があがり、その悲鳴に数名の隊員たちが持ち場を離れて駆け寄ろうとするのが馬車からだいぶ離れた地点で騎首を回頭していたローズの眼に飛び込んできた。
「持ち場を離れるなッ! 馬車は直衛の者に任せろッ!」
ヴィクトールがこの外遊のために特注したこの馬車は車体全体が錬金鋼製でワーウルフの牙や爪でもおいそれとは壊れないだけの強度があるし、天蓋の上の荷物置き場には馬車に取りつこうとする獣人に備え、二名を配し、馭者と助手席も合わせれば四名を直衛に割いている。さらに五名を馬車を引く馬を護るために並走させている。
今、残る隊員がすべきことは馬車が全力で駆けることが出来るように開いたばかりの道をワーウルフから死守することとのみ。
道を開く作業はローズとアルコンティアが一手に担っていた。
馬車の行く先を駆け抜け、縦深陣のように多層に立ちはだかるワーウルフたちの壁に穴を穿ち、返す刀で馬車の周囲から後方まで取って返し、馬車の直衛に当たっている隊員たちを支援までするという彗星のような動きでワーウルフを圧倒する。
「イヤアアァァァァァァァア! 来るな! 来るなぁあッ!」
三度目の突撃を終えて馬車の間近に戻ってきたローズの耳に再び発狂寸前の悲鳴が突き刺さり、体を硬直させる。
――どうした?
馬車に肉薄していたワーウルフは今の一駆けで一層され、わずかに取りついたワーウルフも荷台に配置された二人によって叩き落とされ、今この瞬間の脅威は下がっている。にもかかわらず、言葉を失い何かを恐れるようなローズの心を感じとったアルコンティアが問うが、ローズは問いには答えず、動揺に波たつ心はその理由までは伝えない。
「この声……まさか……」
ほんの数十メートルとはいえ、ワーウルフと戦いながらでは気づかなかったが、直近まで戻ってその声に違和感を覚えた。
知らないわけではない――むしろ、嫌というほど耳にした。しかし、懐かしく感じるほどに聞いていない声音が恐怖と狂気の叫びをあげている。
マーガレットではない。
女官の誰かでもない。
反射的にアルコンティアの背から飛び移り、馬車の戸を開く。二つのコンパートメントに区切られた特殊な造りの馬車。その前のコンパートメント、マーガレットが一人でいるはずの扉を開く。
「落ち着いて! 大丈夫、大丈夫だから」
「なんで……こんなことをしたの?」
自分の隣りの姿なき誰かの肩に手を置き、必死になだめているマーガレットの姿を見て予測が確信へと変わり、憤りに声を震わせながら問う。
「……えーっと…………なんのこと……かしら?」
シラを切るマーガレットだったが、『そこにいる』という確信を持ったローズには効力が薄れ、居るはずの無いその姿が何もないはずの空間に薄っすらと幽鬼のように見えていた。
「とぼけるなッ!」
マーガレットを押しのけ、注視していなければ見過ごしてしまうような――視覚的認識としては半透明人間に触れ、乱暴にその胸元の装身具を引き剥がす。装着者から剥ぎ取られたことで効力を失った装身具――魔術を刻まれた独特の紋様をもつ鎧がローズの手の中で鬱金の輝きを放ち、同時に鎧を剥ぎ取られたことで装着者の姿が完全に現われる。
痩せ衰えた肢体を剥き出しにするカットした改造軍服を身につけ、下半身には異国の踊り子を彷彿とさせる鬱金の鎧を装着し、髪は金に黒のメッシュを入れたような縞模様、軍病院のベッドで寝ているはずのミエル・エローに間違いない。
「なんでミエルを連れてきた?」
「だって……だってほっとけないじゃないっ! あんな姿のミエルをそのままにしてさよならなんて嫌よ! これから行く先で療法があるって知ってて……それなのに放っとくなんてできるはずないじゃな――」
パァァァアアアアアン
感情的に反駁するマーガレットの言葉が破裂音とともに止まった。馬車の外を取り囲んでいるはずのワーウルフたちの唸り声も、必死で剣を振るい馬車を護り、道を維持する護衛団の咆哮も、剣戟の音も、馬車の中に入れない。戦地のただ中にあって裂ぱくの気合いに圧されたかのようにコンパートメントの中を静寂が満たした。
――ローズ……道が塞がれてきてる
一瞬のことだったのか、それとも多少なりとも時間は流れていたのか、外で待たせているアルコンティアが呼ぶ声に静寂が破られた。時間にして十数秒かもしれないが、戻ってきた音が外の形勢が悪化していることを伝える。元々アルコンティアなしには突破不可能な戦力なのだ。隊長であるローズが止まれば、部隊の指揮が乱れるし、アルコンティアも動きを止めてしまう。ローズが時間を無駄にするだけ団員たちが死ぬ。今ここでマーガレットとミエルにかまけている時間はない。
「話は後で」
頬に手を当てたまま呆然と座り込むマーガレットに短く告げ、外で並走しているアルコンティアの背に飛び乗った。




