第二章 人間と妖魔 5
日が傾くと森の中は人の目では一メートル先も見えないほどに深い闇に包まれた。
しかし、それが幸いした。中途半端な薄明りの中ではわからなかったが、闇が深くなるとわずかな明かりが目立つ。水面が月光を反射する幽かな光でさえ真っ暗な木々の隙間を満たす深い闇の中ではキラキラと輝きを放ち、標となった。
何度か木々の影に覆い隠されたり、活性化した巨大蜘蛛の妖魔から逃げたりして光を見失いながらも歩き回ってようやく見つけた泉の畔でローズは樹に背を預け、近くに茂っている大きな葉の植物を毛布代わりに巻き付けて、剣を抱えるようにして休んでいた。
風がそよぎ、彼女の肌を撫でた。
ぶるり、と身震いして素足を擦り合わせ、毛布代わりに巻きつけている葉を引き寄せる。
巨大蜘蛛の体液に毒はなかったようでとりあえず体調に変調はない。しかし、蜘蛛の体液は厄介な問題をもたらしてくれた。体液には速乾性と衣服を腐食する力があったらしい。ひんやりと潤いのある森の空気の中でもお構いなしに乾いていった。そして、乾いた体液は脆く崩れた――彼女の服を道づれにして。
歩くたび、枝に掠めるたびに崩れていく衣服はあっという間に服としての役を成さなくなった。潔く諦めて無残な服の残骸を払い落としたがすぐに後悔した。
蜘蛛の体液を全身に浴び、拭う暇すらなく森を彷徨い、逃げ惑っているうちに蜘蛛の体液は分厚いギャベソンやキャロットを透過して下着にまで染み込んでいたらしい。彼女の上半身を隠すのは鎧のみ、下半身に至っては今包まっているのと同じ葉を巻きつけているだけ、という有様になってしまった。
鎧がなかったら、と思うとゾッとする。
「ミエルよりも無防備な姿で妖魔のいる森をうろつく日がくるとはな」
自嘲をこぼしてから今後の方針を考える。
「まずはどこかで服を手に入れないと……」
鎧とそれを止める革ベルトや金具が肩や背中に食い込む感触が妙な不快感をもたらす。下着も朽ち落ちてしまったために固定できない胸が鎧の裏に擦れて、痛みと違和感と羞恥心がローズを襲う。胸を抱えて実際の重みと一緒にそれらをまとめて押さえつける。
その時、灌木や枝葉を掻き分ける幽かな音を捉えた。
耳を澄ませて音がどちらの方向から聞こえてくるのかを確かめる。
音源を確かめたい理由は二つ。一つはもちろん危険な妖魔や獣、敵の兵士の捜索隊など見に迫る危険である可能性を考えての警戒。
そして、もう一つが森からの脱出の可能性を手に入れるため。昼間やりあった巨大蜘蛛はローズ単独で撃破出来た。いくらローズが手練れとはいえ高いランクの妖魔の相手など個人にできるものではない。まず間違いなくEランク。つまり、比較的森の外縁部にいるはず……なのだが、散々歩いたにもかかわらず森からは脱出できなかった。そもそも森の中で木を避け、灌木を掻き分け、妖魔を回避して進む中で素人に真っ直ぐ進めるはずもない。
妖魔が来たならばその容姿から昼間の妖魔より強いか弱いかを判断して進む方向を決められる。もし、人間ならばもっと単純に森から抜け出す道を知っているだろう。
神経を集中する耳が少しずつ大きくなる音を捉えていた。
――近づいている。
おおよその方向がわかるとそこから見え辛い樹の陰に身を潜めて様子を覗う。松明の明かりと思しき光りが揺らめき、暗い森に人の存在を示す。
なおも少しずつ音が近づいてくる。
――敵兵か?
真っ先に浮かび上がる可能性。獣人は夜目が効く。火を使って夜道を照らす必要があるのは八つの民の中でも火の民、風の民知の民だけ。
――ならば力尽くで地図や食糧、装備を奪えばいい。
敵兵に気遣ってやれるほどの余裕はない。
――しかし、一般人ならばどうする?
森にも人は立ち入る。ソピアーが夜の森にいる可能性はローズには考えつかないが大陸で暮らすエルフや地上で暮らすシルフは森で暮らす者も多いし、ブルトルマン帝国では差別的に扱われる獣人たちも森に隠れ住むと聞いている。このあたりはブルトルマン帝国の支配が長い。敵国ルディア王国の軍人だとわかれば突き出される可能性が高い。
迷いを振り払えぬうちに足音と明かりは近づいてくる。
「おっ!あった、あった泉だぜ!」
若い男の声。駆け出した男の足音と金属の金具がこすれ合う小さな音が聞こえてきた。金具の音は聞きなれた剣の鞘を留めるためのもの、つまりは軍人。
水面に波紋が立ち、水をすくいあげて飲む音が聞こえる。
「ぶっはぁー渇き死ぬかと思ったぜ」
灌木を掻き分ける音がしてから別の男の声が答える。
「全くだ、マリが地図見たりするからこんなことになるんだ」
「なによ!それなら次から自分たちで見ればいいでしょ!」
女性――というよりは少し幼さを残す少女の声が反論する。
「お前が任せろ、って俺から地図とコンパスぶん盗ったんだろ」
ううっ、と少女が小さく呻く。
(軍人にしては妙だな。少女の声は軍人にしては幼――)
ローズの隠れている樹を掠めた短剣が思考を中断させる。そのまま、別の樹に軽い音をたてて突き刺さり、弦を弾いたように振動している。
「誰!?」
少女の声が厳しく問う。
「そこにいるのはわかってる!出てきなさいッ!!」
(何故?物音など立てていない)
しかし、これだけ的確に位置を知られている以上隠れ続けるのは無理だ、と観念して話しかける。
「済まない。害意はなかったんだ。物音がしたので身を隠しただけだ。妖魔の出る森では別に不思議でもないだろう?」
「だったら姿を現したらどうだい、お嬢さん」
二番目に声を聞いた男が平静な声で呼びかける。同時に誰か――おそらくどちらかの男がそれなりに重量のありそうな剣を抜く鞘走りの音が聞こえてきた。
「あー……」
ここで円滑に話を進めるためには出ていくべきだろう。しかし、正直、今の格好で男の前に出たくない、というのがローズの本音だった。斬るべき敵でないとすると羞恥心というものが邪魔をする。
「どうした!姿は見せられないってのか!?」
最初に泉に駆け寄った男が吠える。
彼らが警戒しているのは追剥や野党ではなく獣人だ。人語を解し、種族によっては人間とともに暮らすこともする。しかし、森の中にいるのは人狼や豚人、犬人のように人を襲う者であることが多い。
「そうだな……あまり姿を見られたくはない」
「どういうことだい?」
逃走中の身であることは言えないかと言って沈黙は相手の警戒心を増すだけだ。
「それが……この森で蜘蛛の妖魔に遭遇して…………その……」
「ああ、そういうことか」
意外にもそれだけで男は事情を察してくれたらしい。
「おい、ブレット信じんのかよ!?」
粗野なふうの男も意味が分かったらしい。
「アラグラーソの体液が繊維を溶かすのは事実だからたぶん、ウソはついてないだろう」
「それだけで信じんなよ!だいたい、なんで女が、一人でこんな森にいるんだ?ありえねーだろ!妖魔相手に生き延びられるわけないだろ!?」
男のいうことはもっともだ。
普通、戦士であっても一人で妖魔の棲む森に足を踏み入れたりはしない。まして若い女である自分が戦って生き延びたなどといっていきなり信じる方がどうかしていると言える。
「アンタ、人間なら仲間はどうしたの?」
「その……仲間とは逸れてしまったんだ」
「ホラ見ろ!超絶怪しいじゃねーか!」
「まあまあ、落ち着けって。お嬢さん、そこの枝に外套をかけて俺たちは一旦離れる。見てないかどうかは信じてもらうしかないが」
「わかった」
一つの足音が少しだけ近づいて、布を枝にかけた軽い衣擦れが聞こえてから去っていく。
灌木を掻き分ける音が聞こえてから樹の陰から顔を出す。見渡してもとりあえず人はいない。注意しながら枝にかけられた外套を手に取り、それを羽織る。
「もういいかい?」
「ああ、ご厚意感謝する」
茂みから男二人、少女一人の三人組が出てきた。
「俺はブレッド・アーチャー、こっちのちっこいのはマリ・モーリス、こっちの目つき悪いのがマーティン・ローズ」
ブレッドと名乗った男が手短に紹介していく。ブレッドは二十代半ばくらいの青年で長髪と眼帯で覆っている左目が特徴だ。矢筒を背負い、腰のホルスターにはクロスボーが収められている。
マリと呼ばれた少女は浅黒い肌が活発な印象を与える十代前半の少女だ。どこかの民族衣装のような独特な模様とデザインの服を着ていて、その出で立ちがミエルを思い出させる。腰の両側から短剣の柄が見えることから短剣の両刀使いらしい。また腰のベルトには先ほど投擲してきたナイフと同じ物が何本か仕込まれている。
マーティンはローズと大差ない年齢だろう。がっしりとした体格に精悍な顔立ちだが硬そうな赤い髪を無理やり後ろで束ねて逆立てていることと目つき悪さから好印象とは程遠い。背中には身の丈ほどもある大剣を背負っている。
「私はローズ・ラズワルドだ」
ローズの名前を聞いた途端、自分のファミリーネームと被ったことが不快らしく、マーティンが大仰に顔をしかめる。
「おい、ブレッドこんなやつ助けて何になるんだ!?」
「受けた依頼を考えれば少しでも手練れがいた方が助かるだろ?」
「依頼?」
「ああ、俺たちは傭兵ギルド光輝な聖杯で一緒に仕事してるんだ」
なるほど、納得する。
傭兵ギルドとは各国、特に小国の軍が急に人手が必要な時に雇ったり、民間人が軍では受けてくれないような妖魔討伐や資材目的の狩りの仕事を依頼する組織だ。必然、腕がたつし、妖魔のいる森にも踏み入る。
ブレッドは手袋を外して、手の甲に刻まれた光輝な聖杯の紋章を掲げて所属を証明する。光輝な聖杯は大陸の中央から西方にかけて何ヵ国にもまたがる巨大なギルドで信頼にも厚い。
「今は依頼を受けてある妖魔を退治に来たんだけど……」
「探してるうちにこのバカが地図を見間違えて迷ったってわけだ」
「なるほど。だが済まない、私もどうすれば森から出られるのかわからないんだ」
ホラ見ろ、とマーティンがブレッドに噛みつく。
「いい加減にしろよ、マーティン」
鬱陶しそうに隻眼の一睨みでマーティンを黙らせて話を続ける。
「気にしないでくれ、アイツはギルドメンバー以外にはいつもああなんだ」
「ああ、気にしていない」
「森を出る方に関しちゃ日の出で方角がわかれば地図があるから大丈夫だ。でも、依頼の方が難題なんだ。実はこの森に棲む巨大蜘蛛を駆除してくれという依頼なんだが……三人では少々骨が折れる。たった一人で森を生き延びているほどの腕の持ち主が協力してくれたら心強い」
さて、どうしたものか、と考える。
道も分からず、服もないローズにとりあえず外套を貸してくれたという恩がある。しかし、あまり長居してブルトルマン軍に見つかるわけにはいかない。
「それに君は食糧もなければ、森を出る道も分からないんだろ?手伝ってくれれば依頼完了後に近くの村までは案内するし、もちろん多少の謝礼は払う」
悪い条件ではない。少なくともいきなり突き出される心配もないし、森を脱出するためには一緒に行く方が効率的な選択だろう。よろしく、と答えようとしたが、
「待てよ!」
沈黙していたマーティンが堪えかねたように吠える。
「こんな怪しい奴と一緒に行くのはゴメンだ!川向うじゃ戦争やってんだぜ!?もしかしたらルディアの兵士かも知れないのに」
外見とは裏腹に的を射た推論を口にするマーティン。
しかし、ローズは逆にこれで彼らを警戒する理由が一つ減ったと言える。もし、ローズを言い包めてブルトルマン軍に突き出すつもりならこんなことは口にしない。
「かもしれない、じゃなくて間違いなくだな。だが、こんな森の中まで探しにくる兵士はいない。大抵は妖魔相手に生き延びられねえからな」
それに、とローズにも視線を振ってから、
「敵地に取り残された兵士なら安全を買うために俺たちを襲ったりはしない。まして、アンタは追剥や強盗の類をやるような人にゃ見えんからな」
ブレッドが気さくに笑いかけるのでローズも笑い返す。その少し兄貴肌の笑い方はどことなく失ったばかりの戦友を思い出させる。
「私もブレッドに賛成ー」
「マリ、お前まで……」
「だってさ、お姉ちゃん一人で困ってんじゃん。困ったときはお互い様だしぃ」
決まりだな、とブレッドが勝ち誇ったように笑む。
「わーったよ」
しばらく沈黙してから苦虫を噛み潰したような顔のマーティンがようやく口を開いた。
「ただし!俺と戦えッ!足を引っ張らない程度の実力がなけりゃ話になんねえからな!」
やれやれ、とあきれた仕草をするブレッド。
「まーた、始まったよ。マーティンの腕試し。お姉ちゃん相手にしなくていいよ、こんな戦闘バカの挑戦」
ローズとしても子どもじみた決闘など相手にする気はない。しかし、マーティンはそれでは済ましてはくれそうにない。
「構わん。実力を確かめたいというなら相手をしていただこう」
まさか、ローズが相手にするとは思っていなかったらしい。マリとブレッドが揃って止めにかかる。
「やめとけ嬢ちゃん、このバカギルドの若手ナンバーワンの使い手だぜ!?」
「そうだよ、バカだけど強いんだよ」
まるで勝ち目がないかのような物言いは仲間の腕の良さを信頼しているが故なのだろう。しかし、腕に覚えのあるローズにとってそれは徴発に等しい。
正面で不敵に笑むマーティンを睨みながら、
「この程度のヤツでは私に傷一つつけられんさ」
「ァんだとォ?」
完全に火がついて睨みあう二人にブレッドが隻眼を覆う。
「勝手にしろ」
「じゃ、私審判やるぅ!」
ノリのいいマリが跳ねながら宣言する。
ブレッドが離れるのを待ってマリが石を放り上げ、月の浮かぶ夜空に吸い込まれるように石が消えた。再び月光がその姿を照らし出す前に視線を目の前の男へと向ける。
石の落下音を合図にマーティンが突っ込んできた。
「ラァァァァアアアアア」
咆哮とともに大剣がローズに襲いかかる。
しかし、ローズはそれを何事もないかのように眺め、一歩だけ後ろに跳んで躱す。
「ハァアッ」
さらに二撃、三撃が襲い来るがすべてを躱す。
ほお、と感嘆をもらすブレッド。審判のマリも、ウソ、と呆然としている。ローズには二人の反応を聞き、見るだけの余裕があった。
マーティンの腕は悪くない。大剣の威力はすさまじく、剣速も大剣とは思えないほど早い。だが、おそらく大型の魔獣を相手にすることが多いのだろう。疾風の如き剣舞と評されるローズを捉えるにはあまりに鈍重すぎた。
マーティンが四撃目を振りかぶって大きく大剣を引いた瞬間をローズは見落とさなかった。一瞬で懐に飛び込むと剣の柄でマーティンの二の腕を突く。
「ガァッ!」
筋肉の隙間、神経の露出している個所を的確についたためにマーティンが呻く。
しかし、ローズの攻撃はそれに留まらない。片足でマーティンの軸足の甲を踏みつけて空いている手で顎にアッパーを叩き込む。
脳を揺さぶられてよろめくマーティンの顔を鷲掴みにして、踏みつけていた足を相手の足に絡めて、叩き伏せる。
片膝でしぶとく大剣を握っている片腕を押さえつけ、マーティンの分厚い胸板に馬乗りになり、喉元に切っ先を突きつける。
「チェックメイトだ」
まだ焦点の合わない目を丸くして敗北に驚愕するマーティン。
「勝負ありだと思うが?」
審判のマリも呆然としていて終了を告げないので問いかける。
「しょっ勝者ローズ」
我に返ったマリが慌て終了を告げる。
勝ち名乗りを聞いてようやく剣を引いて立ち上がると、はらりと何かが太腿に触れた。訝しんで足元を見ると倒れたマーティンの胸元に大き目の葉っぱが一枚落ちていた。
仰向けに転がるマーティンの顔が真っ赤になって余った血が鼻から滴り落ちる。
要約しよう。激しく動いたせいで腰巻き替わりに巻いていた葉が落ちたのだ。
ローズもすぐに事態を把握した。悲鳴をあげることもなく外套の裾を抑え、容赦なくマーティンの鳩尾に踵を叩き込んで意識を奪った。
「プッ……ククッ……どうやら服に困っていたってのもウソじゃなさそうだな」
ブレッドが苦笑交じりにいうので、外套の裾を押さえつけたままローズが睨みつけた。
そこに、さらに羞恥心の火に油を注ぐように仔犬の鳴くようなかわいい音鳴る。赤面して外套の中で腹を抱えるローズ。
あまりのギャップについに笑いを堪え切らずに爆笑するブレッド。その脇腹に肘鉄を食らわせマリが明るく、
「とりあえずご飯にしよー!」
と提案して松明の火を移してたき火を焚きはじめた。




