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「いつまで……」
ランが、凍ったようだった唇を無理やりに動かす。
「そんな、生活は、」
笑うことも泣くことも、一人では覚えられない。感情は孤独と共生しない。
ランはそれを知っている。けれど今のシフィは、笑う。怒る。
ならば、どこかで転機があったはずだ。
「いつまで、あいつはそんな世界にいた?」
顔を精一杯に引き締める。そうしなければ表情が歪んでしまう。青白く血の下がったランの端正な顔が、細かく震えながらタジを見据えた。
「いつ、あいつはそこから出られたんだ」
「十六で使徒になるまで。いや、厳密に言えば三つかな。あいつは三つのとき、星光の使徒に出会ったんだ」
偶然だった。村に立ち寄った使徒が、買った食糧を持って森の奥へと消えていく侍女の姿を目撃したのも、それを追い掛ける気になったのも。
追い掛けた先に子供がいたのも、女が子供に目を向けることもせずその脇を通り過ぎる場面を見たのも。
それに何の反応も示さない、子供の空っぽな目を見てしまったことも。
「では使徒になるまでその森にいたのか?」
「いや、シフィは師匠と二人で旅をしてた。まあ、いつから旅立ったのかは知らない。ある程度は森で過ごしたのかもな。詳しくは分からん。シフィ本人に聞いたわけじゃない。俺の師匠が話してくれたんだ。俺がこれを知ってることは、シフィも気付いてるかもしれないけどな」
その件について話してくれたときの師匠の顔を、タジは思い出す。
奔放で豪快で底抜けに明るくどこまでも大雑把な人だったが、それを話してくれたときは真剣な表情だった。
「なんか違う方向に話がいったな。基本に戻すぞ。あいつはそんな生まれだったもんで名前がなかった」
「それが、使徒になった理由か」
「ああ。あいつは名前が欲しくて使徒になった。どれだけ過酷だったのか想像するのも無理だ。とにかく血反吐を吐きまくって、色を受け継いだ。使徒という存在になって、やっと名前を手に入れた。それがラヴィン・シフィだ」
何者でもなかった存在が、使徒という存在として生まれ変わった。使徒になって名を改めるという行為は存在の革新を意味するが、シフィにとってはこの世に生まれるに等しい行為だったのだろう。
「ところが話はそこで終わらない。シフィが使徒になったことで、母親の実家が手を伸ばしてきた」
おそらく、シフィの存在は知られていたのだろうとタジは思う。どれだけうまく隠したところで、毎月どこかに金を送っていることはすぐに分かるはず。そしてそれを受け取っているのが娘が謹慎中に連れて行った侍女であることも、その侍女が身元の知れぬ子供を育てていることも、調べればすぐに明らかになっただろう。
あるいは、星光の使徒がシフィを弟子として連れて行ったことを侍女が報告したのかもしれない。
「係累から使徒を出すのは名誉だ。なおかつ元は能力者でなかったって逸話のオマケ付き。娘の過去の醜聞を補って余りある」
「それで、ララヴィシーナ・シフィルカティ、か」
「そうだ。シフィが自分で自分に付けた名を元にしてその名を作り、シフィに押し付けようとした。作った名で、一族の系譜に組み込みすらした。親族の名乗りを挙げ、シフィにも族名を名乗るよう求めた。名前が欲しいがために十三年もの時間を費やしたんだ。シフィがどうなったか、分かるだろ?」
タジは精一杯に軽く言い放ったが、ランは重く息を吐くことを抑えられなかった。
「ああ……分かる」
分かる。胸が痛いくらいに分かる。たった一つの大切なもの。それを失くせば自分が自分でなくなるのなら、それこそ命懸けで守るだろう。
それは経験で知っている。………自分は、守れなかったけれど。
視線をついっと右方向へ滑らせる。古ぼけた、けれど綺麗に磨かれた壁がある。その向こうにシフィがいる。
「……シフィ」
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