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「ララヴィシーナ・シフィルカティ。シフィのもう一つの名前だ」
宿の自分たちの部屋に戻ると、タジは前置きなく話を切り出した。
シフィはすでに宿に戻っているという。あの女性は撒いてきたのだろう。
割り当てられた部屋の中で、今頃は布団でも被っているに違いない。
「使徒としての名ではなく、という意味か?」
「ああ。その名前を呼ぶってことは、あのおばさん、シフィの母親の家の関係者なんだろうよ。……その名前、どう思う」
「華美な名だが、それだけにあいつには似合わない」
装飾過多な感じがそぐわない。名は体を表すというが、使徒名こそがしっくりくる。
遠慮のないランの言葉に、タジもあっさりと頷いた。
「だろ? でも当たり前なんだな、それが。あいつの最初の名前は、ラヴィン・シフィなんだから」
「……どういうことだ?」
ここで初めてランが被ったままだったフードを背に落とした。床に座るタジと同じように座りもした。
シフィが気になるのか、外に出られる格好を崩さないままの会話だったのだが、どうやら話に集中することにしたようだ。
「あいつの母親、コトランゼに嫁いだんだけど離縁して実家に戻ったんだ。まあ、それはそんなに珍しいことじゃないけどな。厄介だったのは、シフィが腹にいたってことだ」
「それは……父親が分からない、ということか?」
「さぁな。離縁するまでの数年間その類の問題を起こしたことはなかったそうだから、夫の子かもな。でも、そんなことは問題じゃない。シフィは存在しない子供だからな」
努めて淡々と、それでも苦々しさを隠せない声で紡がれたタジの言葉に、ランの眉が跳ね上がる。
「存在、しない……子供」
優しい笑顔が、暖かい手が、記憶の底から浮いてくる。
幼い頃に失ってしまったあの人も、そう言われていた。「そんなもの、存在しない」と。
大きく表情を変えたランを一瞥し、けれどそれに言及しないままタジはつづける。
「シフィの母親の家は、サイニャじゃ結構な名家でな。当然、相手もコトランゼでは有数の家柄だった。そんなところと離縁した挙句に父親の認めもない子供が腹にいるなんて、さすがにまずいと思ったんだろう。実家には隠したんだ」
実家に戻ったときは、まだ腹も膨らまない時期のことだった。
そしてすぐに彼女は郊外の別荘に行くと言い出したのだという。醜聞だということは理解している、噂が静まるまで郊外で謹慎する、と。
娘の申し出を父親は受けた。反省の姿勢を取るだけでも体裁が整うからだ。
さらに娘は言う。多くの使用人を連れて行き不自由なく暮らすことはいない。一人の侍女がいればいい、と。
それも父親は受け入れ、そうして娘は侍女と二人きり、別荘に数ヶ月引きこもった。
「で、その間に産んで、落ち着いた頃に何食わぬ顔で戻ったわけだ。秘密を知っている侍女をそのまま赤ん坊と一緒に残してな」
「では、使徒としての名が最初だというのは、まさか……」
「誰も名付けなかったんだと。母親も、育てた侍女も。万が一にも誰かに知られることのないよう、別荘を出て、辺鄙な村の近くの森中に移らされたそうだからな、シフィは人間を見ることすらなかったかもな」
これはシフィが話したことじゃない、とタジは言った。
シフィはそれを誰に語ったこともないから本当のところは分からないが、と前置いて。
「生きるのに事欠くことはなかったらしい。侍女への口止めも含めて、毎月それなりの金額が送られてたって話だ。でも、その他には何もなかった。愛情も、教育も、ぬくもりも、名前も与えられなかった」
名は個を示す。名前を付けるということは、「お前は他の誰とも違う」と認めるということ。
たった一つの存在なのだと、表してくれるもの。
「唯一の同居人も、ろくに口も利かず、ある程度シフィが育ったら家を空けることもしばしば。一人っきり、物と命の区別すらつかなかっただろうさ。その頃のあいつに、世界はどんなふうに映っていたんだろうな」
それはおそらく、情緒も感情も根こそぎ奪う時間。
声を揺らすこともなく話を続けるタジだが、その心中に穏やかさは一つもない。初めてこの話を聞いたときは、声を荒げないよう喉に力を入れすぎて、呼吸すらままならなかったほどだ。
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