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「ミュイーダ様、では……ない? ああ、目の色が違う……けれど、そのお顔は……」
「放してください、人違いです」
すれ違いざま、腕を掴んできた初老の女性。彼女に見覚えはなかったが、口にする名前には覚えがあった。
「まさか……ララヴィシーナお嬢様?」
「違います」
「ああ、そうです、輝かしい存在になられたと聞き及んでおります……、お嬢様っ」
「放してください、私はそんな名前じゃない」
「ええ、ええ、そうですとも。尊いお名前になったんでしょうとも。ですけど、あなたはララヴィシーナお嬢様」
シフィの言葉をろくに聞きもせず、とうとう感極まった様子で泣き出した女性をシフィは力任せに振りほどこうとした。
しかし、決して放すまいとでも言うように、食い込んだ爪で痛みを覚えるほどの力でしがみついてくる。
「放して!」
「お嬢様、どうぞ大旦那様にお会いくださいませ。この町におられます。どれだけあなたの行方を捜してらっしゃったことか!」
「人違いだと、言っているでしょう!?」
「ではお名前を! あなた様のお名前を!」
「……ッ」
使徒は、名に誇りを持つ。求められて名乗らないことも、偽りの名を口にすることもまずない。
殊に、シフィは。決して譲れぬ思いを名に負わせている。
「…………ラヴィン・シフィ」
それは間違いなく自分の名であるはずなのに。
「ああ、やはり……やはり! ララヴィシーナ・シフィルカティ様!」
「ッッ!!」
耳に入ってしまったその音に、噴き出す嫌悪。
足裏から頭頂までを突き抜けた激情で、思わず掴まれていない方の手を振り上げかける。
寸でのところで収め、その代わりに掴まれた腕を今度こそ振りほどいた。力任せの動作に振り回され、女性が大きく体勢を崩す。
「ああっ」
地へと崩れてか細い身体に咄嗟に手を伸ばしかけたが、それより早くそれを支える腕が伸びた。
「あっぶねーなー。何やってんだ?」
「……タジ」
「何事だ?」
「ラン……」
特に目的もなく適当に買い物を済ませていた二人は、騒がしい気配を感じて確認に向かった。シフィがいると分かってのことではなかったが、見たことがないほどに顔を強張らせているシフィを見て、来てよかったと二人はホッと息を吐く。
仲間二人の姿に、渦巻いていた激情が少しだけ落ち着く。震える気持ちを必死に抑え、何も言わずにシフィは背を向けた。
それを黙って見送るタジ、一瞬の逡巡のあと呼び止めようとしたラン。
けれど誰より早く動いたのは、タジの腕に受け止められた女性だった。
「お待ちください、ララヴィシーナお嬢様!」
意外に俊敏な動きでタジの腕から抜け出し、シフィが消えた方向へと駆けていく。
捕まえることは不可能だろうが、鬼気迫る様子が恐ろしくすらあった。
取り残され、いったい何だったのかと訝しむランの傍らで、何事かブツブツ言っていたタジが、「あっ!」と声を上げ、同時にバチンと自分の額を叩いた。
「あー、そういうことか……」
「何か知っているのか?」
問うランの声は、その裏に「それも話せないのか?」と含んでいる。
「あー、まあ、知ってるってより、思い当たるってとこなんだが」
おそらく間違いないだろうと思う。あの名前でシフィを呼んだのは充分な証拠となる。
しかしそれを話していいものだろうか。シフィ本人から聞いたわけでもない話を、おそらくはタジにすら知られたくないと思っているであろうシフィの過去を、ランに話していいものだろうか。
「…………」
元来、頭を悩ませることが不得手だ。考えるほどろくな結果にならないことが多い。むしろ勘だけで動いたほうがうまくいく。シフィが「身体のほうが賢い」と言うのも、正しいことなのだとタジは自覚していた。
決めた。
「話す。宿に、戻ろう」
勘で決めた。
ランに話す、と。
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