其の弐・忘れられないもの
早朝、帰省ラッシュが始まるより少し早い時間帯。早起きの祖父母と同じ時間帯に起床した加南子は、友人と約束があると言って家を出た。
まだ人通りの少ない歩道を歩きながら、加南子はジャケットのポケットに手を入れた。春とはいえ、まだ風は冷たい。それでも加南子は今日一日を家の中でじっと過ごすことが出来なかった。
地下鉄に乗り継ぎ、郊外へ出る。電車内は郊外へ出れば出るほどに乗客は少なくなり、目的地に着く頃には一つの車両に1人や2人ほどしかいなくなった。
「……」
携帯も開かず、ウォークマンも使わず、加南子はただじっと窓に流れる風景を見つめる。ぼんやりと電車に揺られる自分の姿は他の客にはどう見えるのだろう。加南子はそんなことを考えながら、車掌のアナウンスを聞いていた。
電車に乗って2時間ほど経った頃だろうか。電車が橋の上にさしかかった時、車掌の間の抜けたアナウンスが聞こえた。加南子は携帯のディスプレイで時間を確認すると、電車がホームに入ったのを見て立ち上がった。
「……寒」
電車から出て、加南子はそう呟いた。河原が近くにあるせいか、風が強い。
ホームには年寄りや、ベビーカーをひいて歩く女の人の姿しかなかった。加南子は改札を出ると、迷うことなく西口の階段を下る。外に出るとそこには住宅街が広がっていた。どこも真新しい家ばかりが並んでいて、舗装された道路沿いに同じような家が何軒も建ち並んでいる。
それでも加南子は目的地をすぐに見つけることが出来た。
「……」
駅へと続く坂を上り、道路の右側に曲がる。すると他の家より少し年季の入った一軒の家が現れた。2階建てで庭は広く、車一台分の車庫がついている。道路から見えないように植木で囲いがされている。
加南子はその家の前で足を止めた。家には人気が無く、車庫にも車がない。おそらく誰も住んでいないのだろう。
「あれから……15年か」
加南子は家を見上げながら、そう呟いた。
犬の散歩をしていた老人が加南子の姿に首を傾げながら擦れ違う。誰も住んでいない家を見つめる自分はさぞ奇妙に映っているだろう。加南子はそれでもじっと家を見上げたままだった。
ふと、加南子の視界に黄色いボールが入ってきた。何処からか転がってきたのだろう。ボールは坂の途中でカーブし、加南子の見つめていた家の車庫へと入っていった。
『あっ……!』
背後から男の子の声が聞こえた。加南子が振り返ると、5歳か6歳くらいの子供がボールを追って車庫へと入っていく。少し内気そうな顔をした少年だ。この辺りの子供だろうかと加南子はその背中を見つめる。すると今度は彼の後を追って同じ歳くらいの男の子が駈けていった。
『ボールあったよ!』
『良かったぁ。じゃあ、今度はあっち行こうよ』
車庫を覗き込んだ加南子は、二人の子供の声に再び首を傾げた。車庫の中には先に車庫の中に入って来た内気そうな少年の姿しかない。
「……」
加南子は顔を顰めた。そして車庫の奥に残された子供に視線を向ける。少年はボールについた砂を払い落とすと、加南子の姿に気付いて驚いたようだった。
内気そうな顔が、叱られるのを怖がる不安な表情に変わる。
『……おにーちゃん、ここの人……?』
少年のあまりの怖がりように、加南子はふとポケットから手を出した。こんな格好をしていれば、ガラの悪い不良に見えるのも仕方ないことだ。
加南子は肩を竦めて言う。
「一応おねーちゃんなんだけど……。キミはここらに住んでるの?」
加南子はもともとあまり笑うのが得意な方ではない。だから子供を相手にするのは苦手だった。子供はオドオドしながら首を横に振る。辺りを見回すと、ふと何かに気付いたように声を小さくした。
『ううん。ちょっと遠くに来ちゃった……』
言われて初めて、不安を感じたかのような表情だった。これくらいの子供にはよくあることだろうと加南子は思う。はしゃぎ過ぎて前後が見えなくなる。そして知らない風景に気付くとすぐ泣き出す。
「……。……家はどこ?」
『えっと……○○ってところ』
ふと加奈子の表情が曇った。少年が口にした住所は加南子の知識が確かなら、その家はここから少々遠い場所にあった。子供の足で歩くことが出来ないわけではないが、間違ってもボールを追いかけて辿り着くような場所ではない。
坂の先にある交差点の方から男の子の声が聞こえてくる。
『たっくーん。行こうよー!』
『あ、うん!』
さようなら、と丁寧にお辞儀をして駆け出そうとする少年を加南子は咄嗟に捕まえた。
「ちょっと待って。……あの子は友達?」
『え?……うん。名前しらないけど』
名前を知らない人間を友人と呼べるのかどうかは知らないが、少年にとっては一緒に遊ぶ人間が全て友達なのだろう。
加南子は少年の右腕を掴んだまま、膝を折った。そして子供と同じ視点で、目の前の少年に言い聞かせる。
「たっくん、だっけ?……私がこれから言うこと、ちゃんと聞ける?」
『?』
たっくんという子供は、加南子の言葉に首を傾げた。初対面の人間に『言うことを聞け』と言われているのだから、不思議に思うのは仕方の無いことだろう。しかしこの少年は内気そうな見た目とは逆に、聡明な頭を持っているようだった。
少年は加南子の顔を見上げる。
「私が家まで送ってあげるから、あの子についていっちゃ駄目。……分かる?」
最後の一言に、加南子の言葉の意味の全てが込められていた。あの子供は人間ではない。存在が極めて危うい、人間ではないものの類。しかもこんな小さな子供を何処からか連れてくるのは、『神隠し』にも近い。
少年は加南子の言葉に顔を歪ませた。どうすればいいのか、判断しかねているような表情だった。何故、と聞かないのはこの子自身、なんとなく分かっているからだろう。
『たっくーん。まだー?』
急かすように声が近づいてくる。
白昼の住宅街でまさか神隠しに出会うとは加南子も思っていなかった。おそらくそれは、この一画だけ他の場所と反対に負のミストが宿っているからかもしれない。温かな家庭が広がる住宅街の中で、ここだけは悲しい出来事に縛られている。
少年は困ったように加南子を見て、そして声のする方に視線を向けた。
『でも……あの子、あさってまで遊んでくれればいいって……』
「明後日になったらこっちに戻って来れなくなるかもしれない」
『で、でもぉ……』
加南子の怖い表情に少年は泣きそうだった。加南子は呆れたようにため息をつく。これだから子供は嫌いだ。何処までが危険なのか全く分かっていない。
こうなったら泣かせてでもここから引きずっていこうと手を伸ばしたその時、加南子の背後から声がした。
「あの……こちらのお宅に何か用ですかね?」
「っ!」
振り返ると、さっき擦れ違った老人が戻ってきたようだった。黒い毛をした柴犬が加南子に向かって尻尾を振っている。
しまった、と加南子は思った。咄嗟に振り返ると先ほどまで車庫の奥にいた少年の姿が忽然と消えうせていた。
老人は困ったように言う。
「お兄さんは泥棒には見えないが……この家はあんまり近づかない方が良いですよ。十数年前に殺人があって、それ以来空き家ですから……」
「……そう、ですか」
老人はおそらく随分前からここに住んでいるのだろう。加南子は適当に返事を返すと、老人の視線を避けるようにして歩き出した。そして真っ直ぐに登ってきた坂を下り始める。柴犬が尻尾を振って、加南子の背中に一声吼えた。そして今度は別れを惜しむように鼻を鳴らし始める。
「……!」
ふと、加南子の背中を見つめていた老人が何かに気付いたように声をあげた。
「か、カナちゃん……?カナちゃんじゃないのかい?」
「……」
加南子は歩く速度を速め、老人の視線から逃げるように走った。後ろから自分の名前を呼ぶ声が木霊していたが、足を止めることは出来なかった。




