其の弐・忍び寄る闇
三笠芽衣には1つの悩みがある。それは自分でもどうすることも出来ない悩みであり、それを解決する方法がないからこそ、彼女は逃げることしか出来なかった。
「めーいーちゃんっ」
自室の扉を叩く音に、芽衣は苦笑を浮かべた。どうぞ、と声をかけると、5歳くらいの男の子が顔を出す。黒髪にくりくりした目が特徴的な子供。片手に持っているのはケーキを乗せた皿だ。
芽衣はその様子を見ると、テーブルの上に広げていた資料をベッドに乗せた。
「たっくん、またここで食べるの?」
「うんっ」
子供の名前は三笠 卓真。13歳離れた芽衣の弟だが、その顔は芽衣に似ても似つかない。どちらかというと強気に見える芽衣とくらべて、卓真は少し内気そうな顔をしている。
卓真は芽衣の隣に座るとテーブルの上に皿を置いた。皿には2人分のケーキが乗っていて、フォークも2人分ある。
それを目にした瞬間、芽衣の表情が曇った。
「お母さんがね、めいちゃんにも持って行きなさいって」
「……そう」
ハイ、とフォークを手渡され、芽衣はじっとケーキに乗せられたイチゴを見つめた。ショートケーキの上に乗せられたイチゴは真っ赤に染まっている。しかしそれを食べようと思わないのは、その色が芽衣の一番嫌いな色だからかもしれない。
人の体内を流れる、命の色。芽衣には赤い色がそんな生々しいものに思えて仕方が無かった。
「?……おねーちゃん?」
ふとイチゴを見つめる芽衣の視線に、卓真が首を傾げた。不安に思ったのか、フォークを持っていない手で年上の姉の右手に触れる。
その瞬間、芽衣の頭の中に叫び声が聞こえた。
『……何故っ、何故なのよっ!』
『こんなの私のせいじゃないわ!仕方の無いことじゃない、なのに……』
『私の全てを狂わせておいて……』
「……っ!」
声は恨みのこもった女の声音だった。まるで狂人のような叫び声、そして涙声。聞いているだけで胸の中を締め付けられるような、そんな辛く悲しい言葉だった。耳を覆いたくても、声は頭の中に響いてくる。
「やめてっ!」
芽衣は叫んだ。芽衣自身の声も、あの声の主のように悲しい響きに変わってしまったようだった。
女の声は一瞬にして止んだ。しかし、次の瞬間、隣にいた卓真が声をあげて泣き出した。芽衣は一瞬呆然として、それから慌てて卓真の手をとる。やめて、と叫びながら、おそらく反射的に気遣う弟の手を払いのけていたのだ。
「ご、ごめん、たっくん。違うの、たっくんに言ったんじゃなくて……」
弟を宥めながら、芽衣は心の中でため息を吐いた。まただ、と思うのと同時に自由にならない自分の『力』にうんざりさせられる。
「そ、それよりケーキ食べようか!ね!」
芽衣は泣き止んだ弟の口に自分のイチゴを放り込んだ。大きなイチゴを押し込まれた卓真は顔を真っ赤にしたまま、口の中に入ってきたイチゴを食べる。
甘いもの好きの弟は泣き出しても甘いものを食べると笑顔に戻るという、とても単純な性格をしていた。芽衣のイチゴを貰うと、嬉しそうに泣き笑いの顔を浮かべる。
「美味しい?」
「……うんっ」
ケーキを平らげる頃には、卓真の顔は笑顔に戻っていた。芽衣は安堵して、時計に視線を向ける。時計の針は8時を差そうとしていた。もうすぐ卓真の寝る時間だ。
『卓真ー、もうそろそろ降りてらっしゃい』
丁度よく、下の階から声が聞こえてきた。卓真は皿を持って、芽衣の部屋の扉を開ける。
「うん!……それじゃ、めいちゃんオヤスミなさい」
「おやすみ、たっくん」
また明日、と手を降る芽衣に、卓真も皿を持った手を振って見せた。扉が閉まるのを確認して、芽衣はベッドに乗せていた資料をテーブルの上に戻す。
卓真の足音がバタバタと階段を下っているのが聞こえてくる。芽衣はそれを聞きながら、テレビのスイッチを切った。テレビの画面が一瞬にして真っ黒に染まった刹那、遠ざかっていく弟の足音がパタッと止んだ。
「……?」
芽衣は首を傾げ、そしてまたテーブルの上にある資料に目を通し始めた。
今日中にこの大学の入学資料を揃えてしまわなければいけない。資料を確認し始めると、弟の足音のことはすぐに芽衣の頭から消えてしまった。




