其の壱・桜と少女のしがらみ
「加南子……加南子?」
ある春の夜の深夜過ぎ。廊下から近づいてくる足音に気付いて、少女は椅子に腰を下ろした。
ショートカットの黒髪に、ジャケットとジーンズ。切れ長の目とその背格好で彼女はよく男と間違われる。男よりも男らしい、というのが彼女を表すのに最も相応しい言葉だろう。本人は殆ど意識していないが、彼女の周りの人間はよくそう言う。
しばらくして、部屋のドアが開いた。顔を出したのは笑い皺を目尻に刻んだ小柄な老女だ。
「あら、いたのね加南子。返事が聞こえなかったから……私ももう年かしらねぇ」
「いえ、私も勉強に集中していたので……」
西邑 加南子。それが彼女の名前だ。
加南子は手元にあったノートを引き寄せて、顔をほころばせる祖母を見つめた。その顔はにこやかに笑っているが、その瞳は暗く沈んでいる。加南子にはそれが分かっていた。
祖母はふと加南子の部屋の窓に視線を向ける。
「……あら、寒いと思ったら窓が開いてるのね」
加南子は視線を窓へと向けた。表情こそ変えないが、一瞬焦りを覚えたのはたしかだ。なぜなら、彼女はついさっき窓から室内へと忍び込んできたのだから。
祖母は気付かない様子で窓を閉める。そしてカーテンを閉めながら、呟くように言った。
「加南子が生まれた時に、家の庭に桜を植えたんだけど……今年も咲かないのね。病気かしら」
加南子はふと窓から下を見つめる。カーテンの間から覗く小さな桜の苗木は、冷たい風に今にも折れそうな姿をしていた。他の桜は満開に咲き誇る時期だが、あの木には蕾すらついていない。
「……」
きっと桜も、あの時から時間が止まったままなのだ。
加南子はそう思った。




