其の八・償いと別れ
弟の思念を辿って来た芽衣は、路地の先に数日ぶりの弟の姿を見つけて叫んだ。
「たっくん!」
「……あっ、めいちゃん!!」
必死に駈けて来た芽衣とは対照的に、卓真の表情は笑顔だ。芽衣は胸を撫で下ろすが、姉としてほっとするだけではいけない。嬉しそうに抱きつこうとする弟の両肩を掴み、芽衣は腰を下ろして目線を同じ高さにした。
そして真剣な表情で言う。
「たっくん、知らない人にはついて行っちゃいけないってお母さんに言われたでしょう?」
「あ……う、うん……」
甘えるタイミングを失った弟は、悲しそうに瞳を伏せた。芽衣は静かに息を吐く。
「今回は仕方ないけど……今度は、知らない子についていく前に芽衣ちゃんにちゃんと言って?」
卓真がついていった相手はこの世の者ではない。それをこの歳の子供に理解させるのは難しく、芽衣の目に見えているものを信じさせるわけにもいかない。卓真はプラスの人間ではないから今回は偶然にあちら側にひっぱられただけなのだろう。
(……偶然、か)
思念は似たような思念に引き寄せられる。負の感情は負の思念を呼ぶから、不幸は立て続けに起きるのだ。偶然と心の中で呟きながらも、芽衣には心当たりがあった。
「……でも……」
ふと、弟の手が自分の手に触れる。我に返った芽衣の目に、弟の無垢な瞳が映った。
「……めいちゃん、帰ってくるの遅いから……。お母さんといっしょに待ってるのに、めいちゃん帰ってくる前に眠くなっちゃうから……」
「……たっくん……」
「お母さんはね、めいちゃんのためにご飯も用意して待ってるんだよ。……待ってるうちにお腹すいちゃってね、いっつもつまみ食いしようとするんだけど、お母さんすごく怒るの。めいちゃんのなんだから、って……」
「……」
芽衣は瞳を逸らした。脳裏に夜中まで自分を待つ亜由美の姿が浮かんでくる。じっとこちらを見つめる卓真の顔に亜由美の表情が重なって、芽衣は心苦しくなった。
芽衣は卓真を階段に座らせ、自分も石段に腰掛ける。上を見上げると、もう空は茜色に染まり始めていた。芽衣は夕日を見つめながら言う。
「……めいちゃんはね、たっくんのお母さんが嫌いなわけじゃないんだよ」
「そうなの?」
うん、と芽衣は卓真に頷いてみせる。嬉しそうな表情を見せる弟に苦笑しながら、芽衣は足下に視線を向けた。
「……ただ、ね……。たっくんのお母さんを見てると、めいちゃんのお母さんが可哀想になってくるの」
石段の隙間から生えた雑草が、夕日を浴びながら揺れている。サワサワと響く風の音が物悲しく聞こえて来た。
卓真の視線を感じながら、芽衣はぽつりぽつりと話し始める。
「……めいちゃんのお母さんはね、お父さんとお婆ちゃんと仲良くなかったの。だから、ずっと前に……死んじゃった」
本当のことを言って卓真が理解出来るかは分からない。昔から続く古い家柄を守るため、三笠家には男の子が必要だった。しかし芽衣の母には子供が出来ず、やっと生まれた子供達は女の子だった。
歳をとればとるほどに、母は追い込まれていった。軽い鬱状態からノイローゼに変わっていく様子を、芽衣ははっきりと覚えている。それでも母は芽衣や美穂の前で愚痴は一言も漏らさなかった。いつも不甲斐ない自分を責めていた。
「……お母さんの苦しみを……私は分かってあげたかった。もし聞けるのなら……全部聞いて楽にしてあげたかったのに……」
「めいちゃん……泣かないで、めいちゃん……」
膝を抱えて肩を震わせる姉に、卓真はそう呟く。そして震える背中に手を伸ばすと、ゆっくりとさすりはじめた。おそらく亜由美にそうやって宥められているのを思い出したのだろう。芽衣は卓真の手を通して、亜由美の優しさを感じたような気がした。
★
石段はずっと先まで続いている。そんなに登っていないはずなのに、チハルには長い間この階段を上っているような気がしていた。それは数分ではない。何十年も、何百年も……そう、あの桜と別れたあの日に遡るかのように。
聖の体は、いつの間にかチハルの体に変わってしまったかのようだった。どこからか下駄の音が響いてくる。カラン、コロン、カラン、コロンと。なんて涼やかで気持ちのよい音なのだろう。
『おはようございます。今日もお綺麗ですねっ』
あの老木を見上げて、チハルはいつもそうやって挨拶をしていた。するといつも桜の枝が揺れるのだ。風のせいだと皆言うけれど、自分は違うと思う。
『おはようございます。今日もお元気ですかっ』
風が頬を撫でる。木々のざわめきが聞こえる。みんなが喋っている。みんなが話しかけてくれる。全ての生きとし生けるものは、きっとそうやって人に話しかけている。
けれど誰もそれに気付かない。
『おはようございます。今日は……』
寝込んだ時、窓から見える景色だけが私の世界だった。硝子に阻まれて何も語ってはくれない、まるでお葬式の写真のような世界。
『今日は……』
ふと足下を見ると、聖のスニーカーが目に入った。石段の上に両足を揃えている。どうやら、ここで石段は終わっているようだった。
スニーカーの横を、一枚の桃色の花びらが通り抜けていく。風の音に誘われるように、チハルはふと顔をあげた。
『……あ……』
桜の花びらが、まるで吹雪のように視界を覆う。一歩、また一歩とチハルは丘の頂上に植えられた桜へと歩み寄っていった。
そこには、かなり古い桜の老木と、真新しい桜が並んでいた。2本は同じ注連縄がかけられていて、周りには囲いが作られている。
聖は古い桜を見つめながら呟いた。
「あなたが探していたのは……おそらくこちらですね」
満開に咲き誇る桜の隣で、老木は枝の先に一つ、二つと弱々しい小さな花を咲かせているだけだった。葉も少なく、寿命が近いことは聖の目にも明らかだ。
チハルは桜の囲いの前まで来ると、じっと枝の先を見つめた。薄桃色の花びらは今にも散ってしまいそうに揺れている。
『……待っていて、くれたんですか……?』
チハルはそう呟くと、涙を堪えるように空を見上げた。夕焼けが雲を橙色に染めている。あの頃と同じ、変わらない空の色。そして、年老いてしまっても自分を待ち続けてくれた、この桜の老木。
チハルは視線を桜の木に戻すと、その枝先に付いた小さな花に語りかけた。
『今日は……お別れを言いに来ました』
きっとこの老木は、チハルが亡くなってからも幾つもの春をこうして咲き続けてきたのだろう。花が少なくなても、葉がつかなくなっても。
桜色の花びらが揺れる。
『あなたも……お別れなんですね』
ふっと、体が軽くなった気がした。咄嗟に振り返ると、こちらを見つめる聖の瞳が見える。チハルは桜の木に視線を向け、そして今度は聖に笑いかけた。
『……聖さん。ありがとうございました』
「……見つかって良かったです。このままずっと取り憑かれたらどうしようかと思いました」
『あはは、またまた……』
聖は老木とチハルの姿を見つめる。こうしてチハルの顔を見たのは初めてだった。どこにでもいそうな、平凡な少女の顔。ただ、その表情は視線を引きつける特別な笑顔を持っている。それはまるで春の暖かさのような……。
木々がざわめき、強い風が吹く。春一番の強風は桜の花びらを舞いあげて、辺りは一面の桜吹雪となった。
『聖さん。……本当にありがとうございました……』
視界を覆う桜の中で、聖はたしかにそんな声を聞いた。




