其の伍・失った記憶との再会
翌日の朝、加南子の姿はあの住宅地の空き家の前にあった。人通りは少なく、通勤のサラリーマンやOLが行き来するが、彼らは人に構っている余裕などない。加南子は人目を避けてこの空き家の前まで来た。
「……」
加南子は車庫側から庭へと足を踏み入れた。庭に入れば植木の囲いが邪魔をして、通りからこちらの姿は見えなくなる。加南子はゆっくりと入り口の前まで来ると、玄関の扉に手をかけた。まるで目玉のように覗き窓のガラスが反射している。
カチャリ、と扉が開いた。通常なら鍵が閉まっているはずだが、加南子は気にする様子もなく足を踏み入れる。呼ばれているのだと、加南子は思った。
「……ただいま」
ぽつりと、加南子はそう口にした。玄関を入ると右手に靴箱があり、その上には不恰好な粘土の置物が置かれている。ネズミの形を模しているのか、灰色の塊が加南子を無言で迎え入れる。
靴を脱いでフローリングに片足を置いた。すると何処からか子供の声が響いてくる。
『おかえり!』
ふと顔をあげると、いつのまにか玄関の前にある階段に5歳くらいの男の子が立っていた。斜めに差し込む光が邪魔して、顔はよく見えない。
加南子は家にあがると、じっとその少年を見つめた。
色白で、細い足首。水色のパジャマ。彼は言う。まるで上の階へと誘うように指を差しながら。
『こっちだよ、カナ。こっちで遊ぼうよ!』
「……」
加南子はじっと子供を見つめていた。表情が分からないのは陰のせいではない。自分の記憶が曖昧になりつつあるせいだ。
加南子は懐かしいものを見つめるような瞳で呟いた。
「そっちじゃないよ、兄さん。……『お兄ちゃん』」
ふと子供の表情が曇った。加南子にはそう思えた。
加南子はゆっくりと左側にある扉に手をかけた。途端に冷たい風が加南子の頬に触れる。窓が開いているのだと、加南子は思った。
「……お母さん」
目の前に広がったのは悪夢だった。倒された椅子とテーブル、落ちた花瓶、そして辺りに散らばった人間のものらしき赤い血液。キッチンの水がポチャンポチャンと音をたてて、流しに滴り落ちていた。
加南子はリビングのドアを開け、じっと部屋の中を見回した。あれから十数年が経ったはずなのに加南子の視線は3歳児のあの頃と変わりなくなっていた。
「お父さん、お兄ちゃん」
加南子はリビングに足を踏み入れた。父が好んで育てていたゼラニウムの花が倒れて、地面に土が転がっている。庭に続く窓は開け放されていて、カーテンが生き物のように蠢いていた。
加南子は、亡くした家族の姿を探していた。あの時は家族の誰かを探し出すまで全く状況が掴めなかった。けれど、今は分かる。
ふと辺りを見回していた加南子は、足元にあった何かに気付いて足を止めた。固くて白くて細い、棒のような何か。先っぽには5本の指がついていた。
『カナ』
階段にいたはずの子供の姿が、いつの間にか私の後ろで服を引っ張っていた。それでも加南子は振り返らない。
「……」
倒れたテーブルの影から、真っ赤な液体が広がっていた。絵の具でも表すことの出来ないほど生々しく、見ているだけで息苦しくなるような深紅の血液。
生き物のように蠢くカーテンの隣の、倒れたゼラニウムの葉が金臭い香りを放つその下。
あの日の兄の姿は、そこにあった。
『カナ』
加南子はじっと後ろから呼ぶ声を聞いていた。まるで死んだ人間が喋っているような感覚。しかし、そうではない。
加南子は辺りを見回した。血を流し倒れている3つの死んだ人間の体。それはどれも、自分の愛した家族だった。
『カナ』
背後から聞こえる声に、やっと加南子は振り返った。いつの間にか子供のパジャマは左半分が赤く染まっている。それでもその笑顔は変わらず兄の顔をしていた。
霞んでいた表情がはっきりと見えてきた瞬間、加南子は兄の姿を抱きしめていた。
「お兄ちゃん……」
触れた感触はない。それでもそこに兄がいるという実感だけがあった。兄は自分よりもずっと年上の妹の姿を見つめながら、ニコニコと笑っている。
加南子は小さな兄を抱きしめたまま呟く。
「……今日で、あれからもう15年経ったんだよ、お兄ちゃん」
『……』
「そんな姿、いつまでしてる気……?」
『……』
笑顔のままの兄につられて、加南子は笑った。しかしその笑顔はやがて寂しい色へと変わっていく。
「お兄ちゃん、いくら寂しくても……遊び相手に誰かを連れてきちゃいけない。そうでしょう」
『……』
兄は笑顔のまま、空いている窓に視線を向ける。加南子もまた同じ方向に視線を向けた。
蠢くカーテンの向こう。窓際には桜の花びらが舞っていた。もちろんここに桜の木などない。風に弄ばれる薄桃色の花弁を見つめながら、加南子はふと思い出す。
「……さくら……」
ずっと遠い記憶の中。一家は毎年家族で桜を見るのが恒例だった。兄と加南子は丘の上に咲く一本の桜の老木を見るために、父や母を引っ張って丘へと歩く。
そしていつも兄は、帰り道に加南子に向かってこう言うのだ。
『カナ、次もまた見に行こう。約束だよ!』
ふと、加南子は後ろを振り向いた。兄は変わらず笑顔のまま、窓辺に舞う桜の花びらを見つめている。
思えばあれからずっと、春の季節は嫌いだった。桜を見ることさえ忘れて、いつの間にか自分だけ大人へと変わってしまった。
加南子は兄を見つめて、目尻を擦った。
「……お兄ちゃん」
加南子は兄の両肩を掴む。
「今年も、来年も、再来年も……桜の季節には絶対に見に行く」
兄の視線が加南子に向けられた。加南子は兄の肩を掴んだまま、ゆっくりと目を瞑る。太陽のような真っ白な光が辺りを包んだ。まるで春の陽のような、暖かな光。徐々に悪夢のようなあの日の光景が、光の中に溶け始めた。
これが加南子の力。具現化された思念『スピリット』を滅する、3人の中で最も強い能力だ。
「だから、安心して……」
加南子は思う。あの日から体に備わってしまったこの『滅する力』は、全てあの悪夢のような日の憎しみの上にあるものだとばかり考えていた。しかしきっとそうではない。これは過去囚われた自分自身を救う力なのだ。
『カナ』
光の中に全てが溶け出すと、兄の声が遠ざかっていった。加南子は思う。
(……分かったよ、お兄ちゃん。約束、だから……)




