漏る。
ぽちゃん、ぽたぽた。
外は雨模様。
朝方の大粒のときよりは、幾分か雨足も弱まったようだ。コーヒーが愛用のマグカップに抽出される音がよく聞こえる。
しまった。
そう思ったのは、もう三十分ほど前のこと。
先日、滅多にない出張でホテルを利用した。
あまりにバタバタと忙しない日程だった。仕事とはいえ久しぶりのホテルに少々胸を弾ませた自覚はある。最近のアメニティはどうだろう、と期待を頭の片隅に置きやりながら慌ただしくフロントを通り抜けて、いざ深夜に部屋へ戻ると歯ブラシくらいしか置いていなかった。
フロントで配っていたのかもしれない。むしろ、歯ブラシだけでもあってよかった。かろうじて税抜き百円の櫛くらいは忘れずにいて幸いだった。ちょっとした楽しみが消えただけだ。
がっくり肩を落とすもすぐ次の早朝に備えるしかない。余裕も暇もない似非旅。プライベートなら必ず沸かすポットを名残惜しく見やりながら寝支度した。
残念ながら、体感時間とは大きくずれて太陽はすぐに東からせっせと昇ってきて、タイムリミットを急かしてくる。せめてもの、とばかりに室内サービスのコーヒーと紅茶セットだけ素早く鞄に詰め込み、何だか未練たらしくチェックアウトとなった。
帰ったら、ホテルのおいしそうなコーヒーと紅茶をゆっくり楽しむのだ。そう思うと、思い浮かべると気が滅入る自宅にも楽しい気分で帰れる気がする。
かくして、無事に大きな仕事を終えて、本日久しぶりの休日を満喫している。
自宅アパートの一室は湿気がこもること、本当に気が滅入るので、窓という窓と玄関まで開け放ち、掃除機をかけた。
本当はシーツも干したかったのだが、濃い曇り空を見上げると断念せざるを得ない。掃除を済ませたらすぐに閉めないといけないな、と思いながらも、そういう制限がかかるときほど、あともう少しと掃除がつい捗ってしまう。
結局、雨のにおいがむっとしてきて、ぽつぽつ降りだした辺りでようやく閉めることになった。
さて、休憩しよう。いそいそと愛用の蓋付きマグカップを棚からおろす。
ホテルの戦利品でも味わうのだ。
ところが、取り出してみると、首を捻らざるを得なかった。
余りなじみのないポッド型だったからだ。そういえば、ホテルでは珍しく部屋にコーヒーメーカーが据え置いてあったことを思い出した。
飲めるのか不安になりながら調べると、金網でも何とかなりそうだ。
少し湿らして、湯を注ぐーーーー。
だめだ、金網は湯を全部通してしまう。湯を留めておいてぽたぽたやりたいのだーー。
ここで、あっと声が漏れると同時に膝を叩いた。もらった漏斗が棚に眠ったままなのが思い浮かんだのだ。調味料の移し替えにともらいはしたが、結局ありのままの姿を尊重する意識の高さを選んだのだった。使いどころがわからないままだったが、使い時はまさに今なのだろう。
普段コーヒーはインスタントくらいなもので、フィルターがあるわけなく、とりあえずキッチンペーパーで試してみることにした。
ぽちゃん、ぽたぽた。
じれったく濃く溜まってゆくコーヒーの黒色。
濃くなるほど豊かな香りが広がってゆく。
紆余曲折あったが、何とか飲めそうだ。
うまくいかないとつい向きになって、試行錯誤に没頭してしまうのが休日にも顔を出してしまった。
だが、人によっては苛つくスピードだとしても、抽出の音に耳を澄ますのは、なかなか嫌いじゃない。
音に耳を委ねながら読書をすることにして、のんびり構えることにした。
ぽちゃん、ぽたぽた。
外は相変わらずの雨模様。
掃除をしても気持ちがざわざわと落ち着かない、引っ越したばかりの自宅だが、地域や周りが静かなことだけは確認して決めた。
安いがファミリー用を想定してか、もう一部屋あり、広々としているところは気に入っている。
滴る音の絶え間がだんだん長くなって、ようやくちょうどよい量になった。
マグカップを傾け、黒々とさざ波打つコーヒーにうっとりとした。おいしい。さすがはホテルのコーヒー。至極満足して座椅子にもたれ掛かれば、自然と瞼が重くなる。
ぽちゃん、とぷり。
まだ耳に滴の音が残っているのだろうか。
水滴が落ちる音に重い瞼をあげる。
すると、目が床の一点に吸い込まれた。
黒い滴が一滴広がっていた。
水が混じったような墨のように薄い広がり。
たちまち目が冴えた。
掃除したばかりなのに。
眉を潜め、数枚取れてしまったティッシュでとん、と軽く拭き取ってみる。フローリングに水滴を放置しておくのは危険だ、早く拭き取るに限る。
一体、何の汚れだろうとティッシュを裏返してみた。しかし、ティッシュは白く乾いたままで、床には染みひとつなくなっている。
首をかしげながら天井を見上げると、うわっと大きな声が出た。
真っ白な天井に黒い染みが広がっているのだ、ちょうど水滴が落ちたかと思った箇所の真上に。
それはもうどす黒く、雨漏りかと思うも、すぐにここは一階だと思い直す。
上の階は間違いなく空室なので、水道や水回りのトラブルかと勘ぐるも、水一滴落ちてこないようでは大家にもどう伝えればよいやら。
思案して天井の染みを見つめているうちに、黒い染みがだんだんまだらに歪んで見えてくるようだった。
くらくらしてきた蟀谷を揉みつつ、途方に暮れてとりあえずバケツを用意した。バケツの下には、雑巾候補のタオルやら、一人暮らしを虎視眈々と狙う戸建ての情報誌やらを広げておいた。水漏れのような事態なら、このバケツが証明してくれると信じて。
しかし、状況が動くことはなかった。
染みひとつない床と空のバケツ。
そして、どす黒いままの天井。
帰宅に気が滅入るのも三割増しである。
休み明けのこの三日間はどうも頭がすっきりしない。寝ぼけてパフォーマンスの悪い頭を支えて、パソコン画面とにらみ合い、血流が悪くなって、気づいたら肩や首が悲鳴を上げているーーーー出張から帰ってからというものの、毎日何だか奮わない。
天井を見ないようにして、スーパーで買ってきたおにぎりを椀にあけた。具は鮭一択。
昨日も同じ夕飯だったので一工夫。パックを湯につけて出した出汁をおにぎりにぶっかけて、そのままかっ込むだけ。温かいものが腹に満ちていく感覚が心地いい。
その間にも、天井の染みは視界にちらついていて、また気分が沈んだ。何するにも意欲が湧かず、さっさとシャワーを済ませ、寝支度をはじめた。目を瞑る瞬間、最近のドラマもチェックしていないな、とぼんやり思う。
ーーーーぽたぽた。
満ちる。
いつの間にかバケツの正面を陣取って凝視していた。それが当たり前かのように。
ーーーーぽちゃん、ぽたぽた。
満ちる、満ちる。
バケツから、うぞうぞと黒いものが無数の角を伸ばすように蠢いている。バケツの青色の縁に細く漏れだす、それ。目を凝らすと、縁にかかった黒いものは五筋に細長く分かれており、小さな手のように見えたーーーー。
辺りが薄暗闇なのに混乱して、がばりと身を起こす。本能的に枕元のデジタル時計を光らせると、午前四時半だった。
まだ十分眠れる時間だ。
ほっと息を吐いたら、遅れて頭が覚醒してくる。前髪を掻きあげたところで、不快感にはっきり眉を潜めた。
いやに湿っぽい。髪もパジャマ代わりの長袖Tシャツも張りついている。
大量の汗をかいているようだった。
それも寒さ残る初春に。
呻き声を出そうとして、ひくりと喉がなる。何か苦しい。
どうやら呼吸も少し浅くなっているらしい。
ぽちゃん、とぷり。
最悪な目覚めをよそに、あの音がする。
息を切らしながら這うようにしてバケツを見に行くと、黒い液体がどろりと底を埋めていた。
バケツに液体が溜まってからというものの、早数日。ようやっと休日だというのに、気は晴れない。
それもその筈だ。
相も変わらず、天井は真っ黒。それなのに水っぽい臭いはしないし、部屋が湿気ている様子もない。そもそも、バケツに溜まったものもただの汚水とも思えない。雨が降ったのは、最近ではコーヒーを入れたあの日くらいだ。
不気味な何かが、部屋で蛇のように大きくとぐろを巻いて待っているーーーーそんな心持ちがして、気も身も休まるどころではない。
おまけに、よく眠れていないことも拍車をかけていた。
ーーーーコーヒーでも飲んで頭をすっきりさせよう。
まだ、ポッドが残っているはずだ。牛乳もたっぷり入れたら少しは気持ちも落ち着くはずだ。
ぽちゃん、ぽたぽた。
イヤホンを挿したスマホを片手に、座椅子とともに寝転がる。
数日前のちょっとした幸福感がうそのようだった。
夢でも水音を聞いていた気がする。そのせいか、寝た気がしないし、現実でも、一滴の音がしただけでびくりと肩が反応してしまう。
今は水音など一切耳に入れず、無音の世界で目を閉じたい。
ーーーーぽたぽた。
濃く、濃く。
ああイヤホンをしてもこの水音から逃れられないなんて。
ーーーーぽちゃん、ぽたぽた。
もっと濃く、濃く、濃く。
バケツから、またうぞうぞと黒いものが無数の角を伸ばすように蠢いている。日に日に腕が指が長く太く、明確に形づくられてゆく。成長するそれから目を逸らしたいのに、離せない。
ふと、対の腕の背後からまた弱々しい似たような筋が幾本も伸びてきているのに気づいた。バケツの縁に同じように五筋の筋を這わせ、ゆらゆら揺らめいている。
思わず腕を数えてしまう。
ひとーつ。ふたーつ。みっつ、よっつ、いつつ、むっつ…。
ごろり、とフローリングに頭が転げ落ちたようだ。突然の固い感触にゆるゆる瞼を押し上げた。いつの間にか寝てしまっていたようだ。相変わらずの夢見の悪さと頭痛に苛まれる最悪の寝起き。寝たのに何にも休まった感じは皆無。
ただ、夢の内容は以前よりも朧気に記憶に残っている。
六つ、と口から零れ落ちるのを耳に入れながら、やっぱり上を見上げた。そういえば、天井の黒い染みは以前よりも濃くなっているようだった。
六つ。
この数が何よりも気になった。
腕は二対だから、人数換算すると三人分の腕の数、ということになる。
思案に首が深く垂れ、ストレートネックの痛みに慌てて縮める。
はあ、と体の不調に溜め息しか出ない。
――――引っ越した方がいいのか。
ふとそんな考えが自然に湧き上がる。
本格的に、水漏れの心配とかではなくなってきたように思う。上の階は確実に空いているから、悪戯ならいるかわからない隣かとも考えていた。ご近所トラブルには辟易していたから、様子を見ていたらこれだ。
今となっては大家に連絡して解決するのかも疑わしい。
だが、引っ越すなら準備がいる。
実家は近くないし、ホテルは高いし、引っ越したばかりで資金不足だ。何よりも――――物件を探したり荷物をまとめたりする気力がない。
結局、何から始めようか決まらぬまま、すっかり冷めたコーヒーをそのまま体に流し込んだ。
ぽちゃん、とぷり。
あの音がするのを、聞こえないふりをして。
顔色が悪いよ。
真っ白だけど、大丈夫?
翌日の出勤日に、幾度もこんな声をかけられる羽目になった。あまり積極的な付き合いはしていないのに、会う人ごとに言われるのは余程なのだろう。それとなく早退を勧められるが、実は本末転倒だ。あの自宅へ帰らないといけないということだから。
うわさは前情報として仕入れていたが、大家にタッチの差で入居できたと聞いていたし、そこまで悪い物件ではないと考えるようにしていた。まさか、こんなことになるなんて―――――。
今更後悔しても詮無いことだ。
ただ、周りに心配をかけていることを考えると、ずるずる仕事するのはよくないだろう。
せめて定時にスムーズに帰ることを目標に画面とにらみ合う。
やっぱり進まない。パフォーマンスが悪すぎる。
周りの言う通り休んだ方がいいのだろうな、と机に突っ伏したい気持ちを押さえてぼんやり思う。
昼休憩なのに食欲も湧かないが、温かいコーンスープでも買って一息いれようと席を立った。
職場近くの公園で、一人ベンチで呆けたようにコーンスープを飲む。お腹がじんわり温かくなって自然と心も温かくなる。外はもう春めいていて、草木の濃い匂いが感じられる。花粉に困っている人も出始めているという話だ。そんな時期にまだ自販機に売っていて幸運だったと空き缶を見つめた。
コーンを少しのみ残してしまったので、無心で軽く缶を振る。
すると、公園のゴミ箱が目に入った。
似た形だ。ちらとでもそう思った瞬間には、部屋の真ん中の辺りを陣取るバケツを思い出して体が固くなる。
ーーーーぽたぽた。
起きる、起きる。
ーーーーぽちゃん、ぽたぽた。
起きる、起きる、起きる。
いつの間にか、部屋にいた。いつもの如く、青いバケツの正面に座している。
バケツからうぞうぞと、今や六つと明確にわかるほどの腕が次々に真っ直ぐ伸びてきて、揃って肘を曲げた。そして、バケツの縁をつかむように大きく指を広げている。
嫌なことに気づいてしまった。
ちょうど六つの腕で踏ん張っているように見えるのだ。
バケツから何を起こそうというのか――――――。
そんな想像を始めてしまったのが良くなかったのだろうか、腕の角度がだんだん力がこもるように大きくなり、気のせいかバケツの内側の液体がせり上がっているように見えてくる。
これは、一体何なのか。
ぽちゃん、とぷり。
またそれが成長する。
はっと目を開けると、居眠りしてしまっていたことに気づいた。今が何時かはわからない。慌てて職場に戻り、早退の手続きをして次に気づいたら、もう自室に戻っていた。周囲も体調が悪いのをわかっていたのだろうか、どう言って早退したかも思い出せないがえらくスムーズに帰れたものだ。
いつもなら洗濯のためにすぐ着替えるところを、仕事着のままでバケツに近寄る。
バケツには、遠目でもそれとわかるくらい黒い液体は日に日に溜まり、遂に半ばまで満ちてきていた。
鞄がずり落ちる。
コートを羽織ったままなのに足ががくがくと震えている。
それなのに、足が止まらない。
ゆっくりバケツへと近づいていき、耐えられなくなって、がくんと膝立ちになる。
それでも、四つん這いで重い体を引きずって近寄る自分を止められない。
バケツの縁を震える両手でようやくつかみ、引き寄せた。
黒々とした波が大きく立つ。
そこに、顔をそっと差し入れた。
死にたくないどうして自分ばっかり疲れたあいつが悪い自分は悪くないのにもう死にたい殺してやる疲れた憎い憎い憎い助けて何で誰も死にたくない死にたい――――――――
ぽちゃん、とぷり。
暗い室内のフローリングの木目がまず目に入った。続いて座椅子やテーブル、キッチンの輪郭がぼんやり見えてきて、たまらず床に倒れ伏した。
力が入らない。
何も考えられない。
自分ではない何かの情報量が一気に入ってきた感覚だった。
今、自分は、怖いのか、共感するのか、逃げたいのか。自分の感じていることがそぎ落とされたように何も感じなかった。何もしていたくなかった。
電気もないまま仰向けに寝転ぶと、天井が見えた。
あの黒い染みの一部がみるみるうちに濃くなってゆく。
黒い水滴が、溜まる。
水滴は落ちることなくゆっくり大きく天井から下がる。
それが、ちょうど人間の頭くらいの大きさになるまで。
天井の黒を引き取るように、とうとう滴が天井から重々しく離れた。
そして。自分の真上に。
ぽちゃん、とぷり。
「やっぱり、引っ越したのが悪かったんじゃない? やめとけって言ったのに」
職場の昼休憩で女性同士が集まるとなると、いろんなうわさ話に花を咲かせがちだが、最近はもっぱらこの話が中心だ。やっぱろ身近で共通の話題が盛り上がってしまうのだ。ただし、うわさは活発でも自然と声は小さくなる。
「いくら安くってもねぇ…自殺者が出た物件なんて…しかも同じ部屋で三人も! 」
「近所でも有名よ。教えても、前のアパートで騒音だって隣から絡まれたから、がらっがらの所がいいって言ってさ。その部屋にはさすがに住んでなかったみたいだけど」
「部長、見に行くかしら。怖がりだし。あれからずっと無断欠勤でしょ、倒れてたりして」
いっそ、と同僚の女性はかじったパンをしっかり咀嚼して呑み込んでから、声を落とした。
「そのアパートにいるより入院した方がいいのかもねぇ」
飲食スペースは今日もにぎやかだ。
そのうわさ話が聞こえるか聞こえないかの所で、食べ終えた弁当を引っ提げてとっとと場を辞する。
呪いは十分濃く満ちただろうか。
上の階で材料や条件をそろえて作り出した、呪いのるつぼ。
いくつもの怨念をひとまとめにして絞り出したものは、ひどく極上の呪いの姿をしていることだろう
。
―――――そろそろ下の階の部屋を契約して、完成を見たいな。
ぽちゃん、ぽたぽた。
外は雨か、と窓に目をやる。窓を開けたらさぞ雨がむっとにおってくることが容易に想像できる。
モチベーションに水を差された気分だ。
大きく伸びをして、とりあえず目の前の仕事を片付けに、午後も頑張ろうと気合いを入れた。




