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灰の魔術師と竜骨の家 〜記憶を捧げて、娘を救った日から〜

掲載日:2026/04/26

チン。

杯が、テーブルを叩いた。

昼間から。


王都ルフィネの下町「錆の区」、酒場「枯れ葉亭」の一番奥。グレン・アッシュフォードは窓の外の荷馬車を、ガラス一枚越しに、別の世界の出来事として眺めていた。子どもたちの声が遠く聞こえる。遠い。


三十八歳。元・宮廷魔術師。今の肩書は「無能の烙印持ち」。


「おかわり」

主人のラッセル・ゴットに空の杯を掲げる。

「まだ昼だぞ」と言いながら、瓶を持ってくる。五十がらみで丸い体に白い前掛けの男だ。十年来、理由も聞かずに酒を注いでくれる。それで十分だった。ゴポゴポ、と酒が満たされた。


白い外套。正確には灰色だ。泥と煤で元の色が死んでいた。かつて王国最高位を示した金の刺繍は、今や判別もできない。

——フィオナが、「灰色は似合わないよ」と笑っていた、あの色。


杯を持つ手が止まった。

指先が白くなっていた。


五年前。【深淵災厄】。王都郊外の大規模術式暴走。グレンが制御しようとして、できなかった。妻フィオナが死んだ。義理の娘エマが生き残った。魔力回路が焼き切れた。

何も残らなかった。


隣の大工ドレイク・ホーンが「いい天気だな」と独り言を言う。鍛冶師のカルロス・ヴァイスが「そうだな」と短く返す。厨房からラッセルの妻ヒルダが「いつものでいい?」と顔を出す。


「ああ」


グレンは杯を置き、外套の内側に手を入れた。

無意識に。

術式書が一冊、指に触れる。五年間、捨てられなかった本。毎朝、酒を飲む前に必ずここを確認する。今日も確かにある。それだけ確かめると、また酒を飲む。


——なぜそうするのか、グレン自身にはわからない。ただ、体がそうしていた。


——失礼します!


引き戸が勢いよく開いた。バン。脚甲の擦れる音。チャリ、チャリ。若い近衛兵だ。ケープに王国の紋章。


「グレン・アッシュフォード元宮廷魔術師に、陛下よりお言葉を賜りたく——」


「断る」


「まだ用件を——」


「どうせ厄介事だ。俺には魔力がない」


沈黙。それでも若い声は続けた。


「ハイネ侯爵令嬢エマ・ハイネ率いる第三探索隊が、竜骨大墳墓の最深部で消息を絶ちました。三日前のことです」


杯が、静かにテーブルへ戻った。


「王国は救助を派遣しません」男の声がわずかに揺れた。「竜骨大墳墓周辺の権益を主張するヴェルドラ王国との交渉が続いており、踏み込めない。……隊の生存は、政治的に切り捨てられました。ただ陛下は個人として——」書状を机に置く。「元・宮廷魔術師に、一つだけ頼みたいと」


「地図を用意しろ。馬を一頭。それだけでいい」


グレンは立ち上がった。膝が震えた。五年間、ほとんど動かしていない体だ。残った酒を一息で飲み干す。カン、と空の杯を置く。


外套の内側に手を入れた。術式書が指に触れる。

——今日も、ある。


(エマは俺を憎んでいる)知っている。(母を殺した役立たずと呼ばれた)聞こえていた。


それでも、体が立ち上がった。


手の震えは、止まらなかった。


「……なんだ、あの人また変なことするのか」とドレイクがカルロスに小声で言う。「さあな」と短い答えが返る。


ラッセルが杯を片付けながら、グレンの背中を見ていた。何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。


-----


## 【二】北門にて


夕日が王都を茜色に染めていた。

馬を引き渡した若い騎士、レオン・ファレスが追いすがる。「一つだけ——」


「聞くな」


「なぜ行くんですか。あの娘は、あなたのことを——」


「俺が行く理由と、あいつが俺を嫌う理由は、別の話だ」


グレンは振り返らなかった。手綱を握る手だけが、白くなっていた。


「……生きて戻ってきてください!」


その声を背中で聞きながら、北へ向かった。


門番のハンス・ヴォーゲルが隣の若い衛兵クリス・バウムに囁いた。「あれが灰の魔術師か……深淵災厄の生き残りだ。王国最強と呼ばれたが、あの事故で奥方を死なせた」

「助けに行くんですか」

「どうせ死ぬだろう」


クリスはその背中を見ながら、なぜか何も言えなかった。夕日の中で、影は小さくなっていく。一歩、また一歩。震える膝で。それでも足が止まらなかった。


-----


## 【三】廃村の夜


竜骨大墳墓まで三日。

一日目の夜、廃村の宿「枯れ松亭」で意外な顔と鉢合わせした。


「グレン?」


隅に見覚えのある赤みがかった髪と太い眉。ケイン・オルブライト。元・同僚だ。口が多く、目が鋭い。


「なぜここに」


「非公式だ」ケインは少し困ったような顔をした。「エマ嬢には縁があってな。第三探索隊を立ち上げる前、基礎の剣術だけ少し手ほどきをした。不器用で、でも絶対に諦めないやつだった。……まさかこんなことになるとは」


ケインは少し間を置いてから、もう少し言い足した。「あの子がなぜ迷宮に入ったか——知ってるか」


「探索隊だろう」


「表向きはな」ケインが慎重な顔をした。「竜骨大墳墓には、古代の術式に関する碑文が残っているという噂がある。エマは……お前の術式のことを、調べようとしていたらしい」


グレンは答えなかった。ページをめくった。


宿の主人エルンスト・ラウという老いた男が「飯はいるか」と声をかける。旅の商人ウーヴェ・ケラーが食堂の隅で黙々とスープをすすっていた。


焚き火の前でケインが第三探索隊の情報を話した。


「雷系魔術師のマルク・ゼーン。治癒師のテレサ・フォレ。元傭兵の戦士ライナス・バッハ——背丈が二メートルある大男だ。弓使い兼索敵のソフィア・エンゲル。地形読みが得意な見習いのコリン・メイズ。斥候のダグラス・ノル、炎術師のナディア・コルヴ、盾役のゲルダ・ヴィンター、後衛のセバス・クロッツ、フィン・ハルト、荷物係のバルト・セリー——計十二人。三日前に連絡が途絶えた」


グレンは術式書を開いた。


ケインが顔色を変える。「それ……契約紋文書か。禁書じゃないのか」


「禁書じゃない。忘れられた本だ。禁じられたのは術式の濫用だ。知識自体は誰かが残した。知る者がいなくなっただけだ」


パラ、パラ。ページをめくった。古い言語の文字が焚き火の光に浮かびあがる。


「魔術の本質は生体魔力じゃない。世界に刻まれた理の痕跡——契紋との対話だ。魔力は触媒に過ぎない。代わりに何かを捧げれば、魔力がなくても術式は動く」


「何を捧げるんだ」


「記憶。感情。寿命」


ケインが顔を上げた。「……試したことがあるのか」


「ある。エマが最初に怪我をした時だ。傷を急いで閉じる必要があった。治癒術の代償に、酒の味の記憶を捧げた」


ケインが口を開けた。「——だからあんた、あれだけ飲んでも表情が変わらないのか……」


「そうだ」


沈黙。チリ、チリ、と焚き火が揺れる。


「……その術式、最終的にどこまで捧げられる」


「限界はない。捧げるものがある限り」


ケインが何かを言いかけて、やめた。炎を見つめた。


「……一つだけ聞いていいか、グレン」


「聞くな」


「エマに関係のある記憶を、全部捧げたとしたら——お前はどうなる」


グレンはページをめくる手を止めた。


「……わからない」


嘘だった。わかっていた。五年間、酒を飲みながらずっと考えていた。エマとの記憶を捧げれば、後悔も消える。あの夜の術式の轟音も、フィオナの叫びも、エマの泣き声も。全部灰になる。


怖くなかった。

——怖くないことが、一番怖かった。


ウーヴェ・ケラーがスープ皿を置いた。ゴトン。「竜骨大墳墓から帰ってきた奴はほとんどいないと聞くが」


グレンは答えなかった。術式書を読み続けた。ぱちり、と焚き火が弾けた。


-----


## 【四】ドルムハーゲン


竜骨大墳墓の麓の街、ドルムハーゲン。かつては探索者で賑わったが、今は半廃れていた。露店が数軒、宿が二つ。住人はせいぜい百人ほど。


宿「鉄の翼亭」の主人ミア・ランケが「また変わり者が来た」と呟き、甥のトム・ランケが無言でグレンの荷物を奥へ運んだ。「貸します」と短く言って。


「先着の探索者が一人だけ逃げ帰ってきた。二番部屋で寝てる。会うなら勝手にしな。でも責めるなよ。あの子、まだ震えてるから」


二番部屋。コン、コン、とノック。「……誰」


部屋の奥に、若い男が毛布にくるまっていた。バルト・セリー——第三探索隊の荷物係。顔の半分に引っかき傷。手が、ぶるぶると震えている。


「入口から三層目で……すごく大きな白い獣に遭った。みんな散り散りになって。俺は逃げた」


声が割れた。「逃げちゃった……エマ様が追ってくるなって叫んで——」


「エマたちは生きているか」


「わからない。逃げる時、エマ様はまだ叫んでた。みんなをまとめようとしてた。でも……あの化け物は……」


バルトが顔を覆う。グレンはそれ以上聞かなかった。


廊下に出て、ケインと目を合わせる。「三層目か」


「最深部は七層だ。三層で足止めされているなら、エマはまだ生きている」


廊下の端でトム・ランケが「……あの人、本当に行くんですか」とミアに囁く。


ミアはしばらくグレンの背中を見ていた。「そうみたいだよ」


それから誰もいない廊下に向かって、小声で言い足した。「——でも、誰かが行かなきゃ」


-----


## 【五】竜骨の口


竜骨大墳墓の入口は、想像以上だった。

古代の竜の骨格がそのまま石化し、大地に埋め込まれている。肋骨に相当する石柱が左右に並び、牙の隙間から地下へと続く階段。直径三十メートルはある巨大な口。


「……でかい」ケインが呟く。


グレンは入口の壁面を撫でた。ざらり。冷たい感触。石ではない。ドク、ドク——と脈打っている。


「読めるのか、これ」


「少し待て」


目を閉じた。魔力回路は死んでいる。だが、この感触は知っている。五年間、術式書を読み続けてきた。契紋は世界に刻まれた記号だ。魔力がなくても、目が知っていれば読める。


「最深部まで七層。三層目に高位の契紋獣——白骨霊が控えている。エマたちはそこで足止めされている可能性が高い。突破できれば下の層はまだましだ。……ただし最深部だけは別だ」


「根拠は術式書の記述か」


「ああ」


二人は中へ入った。ケインが踏み込んだ瞬間、冷たい空気が肌を叩く。バシン、と全身で受ける感じ。「冷えるな……」


「契紋が熱を吸う。術式の一部だ」


「不気味なことを自然に言うな」


グレンは先を歩いた。術式書を左手に持ち直す。

——右手が、わずかに震えていた。


-----


## 【六】層を下る


一層目——石と骨の通路。

古い探索者の痕跡が残っている。松明の跡。石に刻まれた落書き。「ここより先に進むな」という古い王国語の警告。朽ちた装備の欠片がカラン、と転がった。


「五年のブランクがあって、よく知識を保てたな」


「他にやることがなかった。飲みながら読んでいた」


「……健康的ではないな」


「そうだな」


二層目——広大な空洞。天井が高く、石筍が無数に立ち並ぶ。ポタン、ポタン、ポタン。水滴だけが響く。


そこで——人の気配。


「——待って!人間?」


物陰から若い女が飛び出してきた。ナディア・コルヴ。炎術師だという。顔に引っかき傷。足を引きずっている。目の下に濃い隈がある。


「救助の人ですか?」


「ある意味では」とグレンは答えた。


ナディアが話す。三層目で白骨霊に遭遇し、部隊が散り散りになった。エマたちは最深部へ引き込まれたらしい。ナディアはここで三日、水と非常食で生き延びていた。


「エマ様は……生きてますか」


グレンは答えなかった。術式書を開いた。「白骨霊の弱点を確認する」


ページを繰る。

止まった。


「……契紋への感応体だ。特定の周波数の紋章波で動きを封じられる。代償に記憶を少し捧げる」


「どんな記憶を」


「王都で飲んでいた時の記憶でいい。どうせいらない」


ナディアがケインに囁く。「この人、何者なの?」


ケインが短く答えた。「……灰の魔術師だよ。昔の話だが」


ナディアが「——あの事故の」と言いかける。グレンが「話すな」と静かに遮った。ナディアは黙った。しばらくして、小さく「……ごめんなさい」と言った。


グレンは答えなかった。ページをめくり続けた。


-----


## 【七】白骨霊


三層目に踏み込んだ瞬間、温度が変わった。

ゾクリ。骨が痛む寒さだ。


白骨霊は予想以上に速かった。白い骨格が組み合わさった全長五メートルほどの獣。眼窩に青白い炎。床を滑るように移動し——音がしない。音がないこと自体が異常だった。


最初の接触でケインが吹き飛んだ。ドン、と壁に叩きつけられる音。「くそっ……!」


「硬い!通常の魔術が通らない!」


「当然だ。あれは契紋そのものだ。魔術では傷つかない」


グレンは懐から薄い板を取り出した。古代語の紋様が刻まれている。術式書の一ページを写したものだ。五年かけて作った。


白骨霊がナディアを認識した。飛びかかろうとする。


「捧げる」


心の中で宣言する。記憶が溶けていく感触。一ヶ月分の、曖昧な飲んだくれの時間。明け方まで飲んでいた夜。ラッセルの愚痴を聞いていた日。なんの後悔もなかった。


板が光る。カッ。


白骨霊が止まった。糸でも切れたように、動きが完全に硬直する。


「今だ、ケイン!」


バリバリバリ、と雷光の柱が白骨霊を貫いた。砕け散る。骨の破片がカラカラカラと床に転がる。


「……効いた。本当に効いた」


「驚くな。先を急ぐ」


「今、何を捧げたんだ」


「ろくでもない記憶だ。惜しくもない」


ナディアがケインに小声で問う。「エマ様は、あの人のことをどう思ってるの?」


ケインは少し黙ってから、ただ一言だけ答えた。「非常に複雑だよ」


-----


## 【八】深部への道


四層、五層、六層。

層を下るほど、壁に刻まれた契紋が増えていく。グレンはそれを読みながら歩いた。


「これは本当に古代の建造物だ。竜は死んでもなお契紋を放出し続ける。この墳墓全体が一種の契紋増幅装置になっている。最深部には相当高位の契紋が集まっている——古代の術師がわざと利用した。何かを封印するために」


ケインが慎重な顔で言う。「つまり最深部には」


「この墳墓全体を支配する主紋がある。使えば、全ての契紋獣に対して術師が主として認められる」


「……代償は」


「重い」


六層の通路で、ナディアが「あそこ!」と指差した。コリン・メイズ。見習い魔術師、十六歳。壁に背を付けて膝を抱えている。


「ナディアさん!生きてたんですね」


「コリン!エマ様たちは?」


「最深部に……七層に。俺、足が動かなくて——でもここ三日、契紋獣が出なかった。なんでだろ」


「六層は安定した中立域だ。古代の術師が意図的に作った休息空間だろう」


コリンがグレンを見上げた。「あなたは……誰ですか?」


「グレン・アッシュフォード」


しばらく沈黙。「——エマ様の」コリンが言いかけて、止まった。


「一緒に来い。七層に下りる」


コリンが立ち上がろうとして、脚がガクつく。ケインが肩を貸した。


七層目に入った瞬間、空気が変わった。

重い。濃い。息をするだけで胸が痛む。


そして——声が聞こえた。


「テレサ!まだ生きてるか!」


「……息は……してる……絶対ここを通させない……」


「マルク、右側の契紋獣を——ダグラス、逃げ道を確認しておけ!」


エマの声だ。


グレンは足を速めた。


歩きながら、ふと——手が、震えた。


(おかしい)


杯を持った時の震えとは、違う感触。体の奥から来るような。体が何かを、覚えている。


グレンは歩き続けた。


-----


## 【九】再会


七層最深部は広大な空洞だった。

直径百メートルはあろうかという空間。天井には無数の契紋が光り、中央には竜の頭骨が台座のように置かれている。頭骨一つで馬車三台分の大きさがある。


そこにエマたちがいた。第三探索隊の生き残り、八人。全員が傷を負い、疲弊していた。


マルク・ゼーン——左腕に包帯、それでも魔術を展開し続けている。テレサ・フォレ——意識が朦朧としながら、治癒術の光を手に灯している。ライナス・バッハ——足を引きずりながら、盾で前を塞いでいる。ソフィア・エンゲル——矢が尽きて短剣を構えていた。ダグラス・ノル——右肩に包帯、それでも周囲を警戒し続けている。フィン・ハルト、ゲルダ・ヴィンター、セバス・クロッツ——全員、限界だ。


そしてそれを取り囲んでいたのは——


巨大な影。


高位契紋獣【竜骨の至尊リッチ・ドラコン】。


全長二十メートルを超える竜骨の化け物。全身に無数の契紋が走り、青い炎が眼窩に燃えている。グォン、と低い唸りが空洞に満ちる。じりじりとエマたちに近づいていた。


エマは剣を構えていた。

血が滲む手で、折れかけた刀身で。足は震えている。それでも立っていた。


「——まだ来い!私はここを退かない!」


そこへ、グレンは現れた。


「生きてたか。帰るぞ、エマ」


静かな声。


全員が振り返った。エマの目が大きく開く。驚き。怒り。困惑。そして——何か、もっと複雑なもの。


「ふざけるな!」


叫んだ。「お前に何ができる!魔力もない、役立たずの!」


「……そうだな」


グレンはゆっくりと前に出た。「お前の言う通りだ。俺は役立たずだ。だから、せめてこれくらいはさせてくれ」


竜骨の至尊が向きを変えた。新たな侵入者を認識した。巨大な頭骨が低く傾く。


ケインが「グレン!無茶だ!」と叫ぶ。


グレンは術式書を開いた。ページをめくる。止まった。


【竜骨回帰——失われた古代契紋】

この墳墓全体を支配する主紋。これを発動すれば、竜骨の至尊を含む全ての契紋獣に対して、術師が主として認められる。

代償——術師にとって最も重い記憶を、捧げよ。


グレンは目を閉じた。


(なら、これだ)


七歳のエマが、フィオナに連れられてきた日。石畳の上。人見知りで、ずっと母の後ろに隠れていた。でもグレンが膝を曲げて目線を合わせたら、少しだけ顔を出した。フィオナがくすくす笑った。コツ、コツ、と小さな靴が石畳を叩く音。


手を繋いで歩いた市の記憶。エマが段差で転んで泣いた。膝小僧を拭いてやった。「ありがとう」をなかなか言えなくて、最終的に「……別に」と言った。その言い方がフィオナにそっくりだった。夕焼けの匂い。炒り栗を売る声。人ごみの温もり。


フィオナの墓前で、エマが泣いていた背中の記憶。何と言っていいかわからなくて、ただ隣に座っていた。エマはグレンに気づかなかった。——気づかないふりをしていた。雨の匂い。濡れた石の冷たさ。どのくらいの時間かも、覚えていない。ただ、隣にいた。


(これを捧げれば、後悔も消える)


その考えが、頭の奥に浮かんだ。


酒の味と一緒に消えてよかった。あの夜の術式の轟音も。フィオナの最期の声も。エマに向かって叫ぶことしかできなかった自分も。全部、灰になる。


怖くなかった。

——怖くないことに気づいた瞬間、グレンは静かに決めた。


(そうじゃない)


これは逃げることじゃない。これは残すことだ。


エマが生きていること。


それだけが、残る。


「——捧げる」


記憶が流れ出ていく。七歳のエマの顔。手を引いた感触。「……別に」という声。墓前の背中。雨の匂い。フィオナのくすくす笑い。コツ、コツ、という靴の音。ずっと隣に座っていた時間。


灰色になって、消えていく。


術式書のページが光る。カッ。足元から契紋が広がる。床に、壁に、天井に——無数の竜骨の契紋が走り、脈打ち、グレンを中心に爆発的に広がっていく。全身が震えた。世界と繋がる感触。自分がこの巨大な構造物の一部になる感触。


「【竜骨回帰】——」


-----


## 【十】灰の魔法


カッ、と光が爆発した。

竜骨大墳墓全体が揺れた。ドドドド、と天井から石がこぼれ落ちる。契紋が嵐のように走る。


竜骨の至尊が止まった。


その巨体が、まるでゆっくりと頭を垂れるように、グレンへ向けて傾いた。


「——主、と認めました」


低く、古く、洞窟の奥から聞こえるような声。


竜骨の至尊が跪くように体を折り曲げた。


エマが呆然と見ていた。


ライナスが「なんだ……今の」と呟く。テレサが「生きてる……みんな、生きてる」と泣いた。マルクが「ありえない」と首を横に振った。コリンが口をぽかんと開けて固まっている。ダグラスが「……俺、夢でも見てるのか」とフィンに聞く。フィンが「夢じゃないと思う」と静かに答えた。ゲルダが「なんで……なんで、あんな人が」と呟いた。セバスが壁に拳を当てた。コン、と鈍い音。


ソフィアだけが、静かに呟いた。


「……あれが、エマ様のお父上か」


誰も反論しなかった。


竜骨の至尊がゆっくりと動き始めた。巨体が脇に退き、道を開ける。


グレンは一歩、また一歩、エマたちの方へ歩いた。全身が重い。記憶を捧げた後の疲弊は、魔術の疲弊より深いところに来る。


「帰るぞ」


短く言った。


エマが——何かを言おうとして、やめた。


ライナスが「退路の確保を」と隊員たちに指示した。全員が動き始めた。


その時、グレンはエマの顔をじっと見た。何か、引っかかるものがあった。この娘を、自分は知っているはずなのに。


名前が、出てこない。


(おかしい)


首を傾げた。


「すまない、君は……誰だったか」


世界が、止まったような気がした。


-----


## 【十一】無名の名前


エマが崩れ落ちた。

膝をついた。声が出ない。ただ、手が——口を覆っていた。


ケインが「グレン、何言ってんだ」と声をかける。グレンは困惑した顔をしていた。「いや、見覚えはある。だが……名前が」


ライナスが「隊長……」と声をかけて、それ以上言えなかった。マルクが顎をわずかに動かした。テレサが目を伏せた。コリンは何が起きたかわかっていない。ダグラスがゆっくり目を閉じた。ゲルダが「なんで」と小声で呟く。セバスが壁に額を押し当てた。ソフィアだけが、静かにエマを見ていた。


「……グレンさん」ケインが静かに言った。「エマです。あなたの義理の娘です」


「義理の……娘」


グレンが繰り返す。記憶がない。その繋がりが、頭の中に形を結ばない。「そうか。……申し訳なかった」


なぜそう言ったのかも、グレン自身にはわからなかった。だが言葉が出た。


エマは動かない。ただ、床に手をついて、肩を震わせていた。


マルクが、かすれた声で言った。「隊長……この人は、何の記憶を捧げたんですか」


ケインが答えた。静かな声で。


「……エマと過ごした記憶を、全部だ」


部屋が静まり返った。


エマが顔を上げた。目が真っ赤だった。


「思い出せ」


声が割れた。「思い出せよ、馬鹿!お前が来なくていいんだ!私はお前が嫌いだって言ったじゃないか!なんで来た!なんでそんな記憶を……!」


言葉にならなくなった。嗚咽が漏れた。


エマがグレンの胸を殴った。一度、二度、三度。ドン、ドン、ドン。


グレンは動かなかった。


その体が——なぜか自然に、手を動かした。


エマの頭に、手を置いた。撫でた。


理由はわからない。ただ体が、そうしていた。


エマがさらに激しく泣きながらグレンの胸を叩き続ける。「思い出せ……思い出せよ、馬鹿……!」


ケインが静かに目を閉じた。ライナスが壁の方を向いた。テレサが泣いていた。ゲルダとセバスが肩を寄せ合って黙っていた。マルクは一人、床に視線を落としたまま動かなかった。ソフィアが短剣を鞘に戻す音だけが聞こえた。シン、と静かな音。


体が覚えている。

頭が忘れても、体は知っている。


——七層を下りてくる途中で、手が震えた理由を。

この頭を撫でていたことを。


-----


## 【十二】帰還


地上への帰り道、誰もほとんど喋らなかった。


グレンは先頭を歩き、壁の契紋を読みながら道を開いた。彼が主として認められたため、残る契紋獣たちは道を開けた。


ライナスが重傷のテレサを背負い、マルクとソフィアが互いを支え合った。コリンが荷物を持ち、ナディアがその隣を歩いた。ダグラスが斥候として前方を確認し、フィン、ゲルダ、セバスが隊列を整えた。エマはずっとグレンの少し後ろを歩いていた。


地上に出た時、空はもう明け方近かった。

冷たい空気が肺に入る。ふぅ、と白い息。


マルクが膝をついた。「……生きてる。帰ってきた」コリンが「やったぁ!」と叫んだ。テレサが泣き笑いで「よかった」と繰り返した。フィンが地面を叩いた。ゲルダが空を仰いだ。セバスが無言で膝をついて額を地面に押し当てた。ダグラスが「帰れたな」と短く言った。ソフィアが静かに空を見上げた。ライナスが深く息を吐いた。ハァ、と長い音。


グレンは少し離れた場所に立って、それを見ていた。今の状況は把握できている。エマを助けた。それはわかる。だがこの娘がどんな記憶を自分と共有していたのかは——霧の中だ。


エマが近づいてきた。目を腫らしたまま、まっすぐにグレンを見ていた。


「……名前は、グレン・アッシュフォードだな」


「ああ」


「私はエマ。エマ・ハイネ」


「……そうか」


「今日から、それだけ知ってれば十分だ」


グレンは首を傾げた。「よくわからないが——お前が安全なら、それでいい」


エマが何かを言いかけて、飲み込んだ。一瞬だけ、子供のような顔になった。それから、また隊員たちの方へ歩いていった。


ケインがグレンの隣に立った。「おまえ、わかってるか。自分が何をしたか」


「大体は」


「エマとの記憶を、全部捧げたんだぞ。初めて会った日も、フィオナさんの墓前の日も」


グレンは空を見た。「……必要なことだった」


「それは——誰のために?」


答えはなかった。


風が吹いた。ざわ、と草が揺れた。


ライナス・バッハがグレンの方へ歩いてきた。大きな体で、グレンの前に立った。何かを言おうとして、やめた。代わりに、ゆっくりと頭を下げた。


他の隊員たちも、次々と頭を下げた。マルクが。ソフィアが。ダグラスが。テレサが。ゲルダが。セバスが。フィンが。コリンが。ナディアが。


グレンは困惑した顔をしていた。「なぜ頭を下げる。俺はただ——」


「おかえりなさい」


エマが言った。背中を向けたまま。小さな声で。


その言葉の意味が、グレンには半分しかわからなかった。


でも、手の震えが——少し、止まった気がした。


-----


## 【十三】侯爵家の判断


王都に戻ると、すぐに動きがあった。


ヴォルフガング・ハイネ侯爵が、エマを呼びつけた。


白亜の執務室。銀の燭台。貴族趣味の調度品が並ぶ。ヴォルフガングは五十代、白髪交じりの髪に細い目をした男だった。副官のアルフォンス・ダールが傍らに控え、長男のルーク・ハイネが壁際に立っていた。書類を抱えた女官僚エレン・ヘーアが机の端に佇む。


「生きていたか。よかった——形式上は」


「形式上、とは」


「今回の件は穏便に処理する。第三探索隊が自力で生還した、というストーリーで行く。竜骨大墳墓の権益問題はヴェルドラとの交渉が続いている。余計な事実が出ると交渉カードを失う」


エマは静かに立っていた。「一つ、聞いていいですか」


「何だ」


「王国がなぜ救助を出さなかったのか」


ヴォルフガングは少し目を細めた。「ヴェルドラ王国が権益を主張している区域に踏み込めば、紛争の火種になる。お前たちを切り捨てることが、政治的な正解だったんだよ」


エレン・ヘーアが書類の端をわずかに揃える動作をした。その手が、一瞬止まった。


「……そうですか」


エマは続けた。「私が死にそうになった時、王国も侯爵家も救いに来なかった。たった一人来てくれたのは——魔力もない、無能と呼ばれた人間でした。その人は、私との記憶を全部捧げて、私を助けました。政治的な正解の外側から」


声が少し揺れた。


「侯爵家の娘として生きることより、その人に一つでも返せるものを返したいと思います。——爵位継承権を放棄します」


室内が静まった。アルフォンスが息を呑んだ。ルーク・ハイネが「エマ!」と声を荒げた。エレン・ヘーアが小さく目を閉じた。


ヴォルフガングの目が細くなった。長い沈黙の後、静かに言った。「……お前は本当に、フィオナに似てきたな」


「——」


「行け。二度と戻るな」


エマは頭を下げた。廊下に出た瞬間、足が少し震えた。


ルーク・ハイネが後ろから声をかけた。「エマ」


ルークは少し迷ったような顔をして、それから手を伸ばした。エマの頭を、ぎこちなくポンと叩いた。「……幸せになれよ、馬鹿妹」


エマは笑った。少し、ぐしゃっとした笑いだったが。「……うん」


廊下の端でエレン・ヘーアが、エマの背中をじっと見送っていた。書類を胸に抱いたまま。何かを言いたそうな顔をして、最終的には何も言わなかった。その書類には、第三探索隊の全員の名前があった。


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## 【十四】枯れ葉亭の夜


夜の枯れ葉亭。


グレンが奥の席に座っていた。いつもの席だ。


エマが入ってきた時、ラッセルが少し目を見開いた。「お嬢さん……かなりの美人だな」


「うるさい」


ヒルダが厨房から顔を出す。「あら、グレンさんにお客さん?珍しい」


エマはグレンの向かいに座った。二人の間に、沈黙。


「飲むか」


「……飲みます」


ラッセルが杯を持ってきた。カチン、と置く音。エマは一口飲んで、少し顔をしかめた。「強い」


「ここはそういう店だ」


「……知ってます。昔——」言いかけて、止まった。


グレンには、その「昔」がない。エマが少し俯いた。


「爵位継承権を放棄してきました」


「……そうか」


「今夜から住む場所がありません」


「俺のところは狭いが」


「そこに住みます」


「問題ないのか」


「ありません」


断言した。


グレンは杯を置いた。「……俺は、お前との記憶がない。何があったかも、今はわからない。それでもいいのか」


エマが顔を上げた。目が少し赤い。「今度は私が、あんたに教える番です」


「何を」


「いろいろと」


グレンはしばらく黙っていた。「……わかった」


杯が触れ合った。カン、と小さな音。


ラッセルが遠くからそれを見ていた。ヒルダが隣に来て小声で「あの子、誰?」と囁く。ラッセルが「知らん。でも……まあ、よかったんじゃないかな」と答えた。


その夜、ケイン・オルブライトが一人で枯れ葉亭を訪れたのは、二人が帰った後だった。ラッセルが「仲間の人ですか」と聞くと、「まあ、そんなとこだ」と答えた。カウンター席に座って、一杯だけ飲んだ。


「……あいつ、本当に全部捧げたのか」と独り言を言った。


ラッセルは答えなかった。ただ、杯に酒を足した。


ケインはそれを飲んで、立ち上がった。「俺はしばらく王都に残る。何かあったら呼んでくれ」


「誰に言えばいいですか」


「ケイン。——灰の魔術師の、古い知り合いだ」


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## 【十五】翌朝、そして墓前


グレンの借家。

本と術式書が山積みになった、狭い部屋。


エマは荷物を降ろして、部屋を見回した。「……ひどい」


「気になるなら片付けろ」


「片付けます」


エマは袖をまくった。カシャカシャ、と荷物を整理する音。グレンは術式書を開いて読み始めた。


しばらくして、エマがぽつりと言った。「この本——私、小さい頃に見たことがあります」


「……そうか」


「お母さんが言ってたんです。お父さんの魔法は、みんなが知らない本当の魔法だ、って」


グレンの手が止まった。「フィオナが、そんなことを」


「——今、お母さんの名前を言った」


「記憶の欠片は残っている。繋がっていないだけで」


エマが本を手に取った。古くて重い本。「教えてください。この本のこと。お母さんが好きだったもの。あんたが、どんな人だったか」


グレンは少し考えた。「俺が覚えている限りでは、大したことはない」


「それでも」


グレンはページを閉じた。「……フィオナは、苺が好きだった」


エマが少し目を見開く。「それだけは覚えているのか」


「なぜかな」グレンは不思議そうに首を傾けた。


エマが笑った。今度は、ぐしゃっとした笑いではなく。少し、柔らかい笑いだった。「……そういえば私も、苺が好きです」


「そうか」


「遺伝かな」


「さあ」


小さな沈黙。街の音が聞こえた。下町の朝。荷馬車がゴロゴロと通り過ぎる音。子供たちの声。露店の呼び声。


「グレン」


「なんだ」


「あの墓——行けますか。お母さんの」


グレンはしばらく黙っていた。「……案内できる。場所は体が覚えている」


「じゃあ、今日行きましょう」


「ああ」


グレンは立ち上がった。外套を手に取る。エマが横に並んだ。


二人で部屋を出た。


——王都の外れ、小高い丘の上。

石畳が終わり、草地が始まる場所に、白い小さな墓石がある。


グレンは足が止まらなかった。


(体が覚えている)


ここへの道を。どこで曲がるかを。最後の角を曲がると墓が見えることを。石の表面が雨の後は少し暗くなることを。——エマと二人で、雨の中に座っていたことを。


……いや。


その記憶は、もうない。


でも、足がここへ来た。


二人は並んで墓の前に立った。秋の朝の光が斜めに差し込んでいる。風がざわりと草を揺らした。どこかで鳥が鳴く。それだけだ。


エマが膝をついた。目を閉じた。


グレンはその隣に立っていた。何を言えばいいかわからなかった。だから、ただ立っていた。


しばらくして、エマがぽつりと言った。「……お母さん。連れてきたよ」


グレンは何も言わなかった。


エマが続ける。「記憶はないけど。体は覚えてるって言ってた。……馬鹿だよね、この人」


ふぅ、と白い息が出た。


「でも」


エマの声が、少しだけ揺れた。


「——そこだけは、お父さんだ」


風が吹いた。ざわ、と草が揺れた。


グレンは自分の手を見た。震えていない。


それから、なぜか自然に、膝をついた。二人で並んで、白い墓石の前に座っていた。どのくらいの時間かも、わからない。ただ、隣にいた。


体が覚えている。

頭が忘れても、体は知っている。


——七層を下りてくる途中で、手が震えた理由を。

この頭を撫でていたことを。

雨の中で、ただ隣に座っていたことを。


灰の魔術師と、娘の再出発。


どこへ行くのかは、まだわからない。


だが、体が覚えている。


——契紋は応える。


家族の絆という、誰にも壊せない理に。

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