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変わりゆく拠点

第二部の1話のみを投稿させて頂きます。

もし高評でしたらなろうの方でも毎日とはいきませんが、投稿していきたいと思います。

 カイルこと黒の勇者、そして、カイルが率いて来た鬼人族の軍勢、黒蝕卿ヴェイルがこの拠点へと牙を剥いてから、すでに数ヶ月の時が流れていた。


 あの激戦が嘘だったかのように、冬は静かに、そして確かに過ぎ去った。

 拠点は無事に冬を越えたのである。


 そして今――季節は、春へと移ろい始めていた。


 ひゅう、と柔らかな風が、執務室の開け放たれた窓から滑り込む。

 まだ冷たさをわずかに残しながらも、その奥に確かな温もりと、土と若葉の匂いを含んだ風だった。


「……もう、春か」


 バニッシュは呟きながら、机に積まれた書類を一枚ずつ整理していた。

 拠点の運営、開拓の進捗、各種族の代表からの要望――戦いが落ち着いても、彼の仕事が減ることはない。

 だがその手は、ふと止まる。


 鼻先をくすぐる春特有の匂いにバニッシュは、静かに紅茶のカップを持ち上げ、一口含む。

 ほのかな渋みと温かさが喉を通り、身体の内側に染み渡っていく。

 カップを置き、バニッシュはゆっくりと椅子にもたれ、窓の外へと視線を向けた。

 まだ完全に芽吹く前の大地、だが確かに、次の季節へと向かう息吹がそこかしこに満ちている。


 あれから――拠点は、文字通り見違えるほどに変わった。


 まず一つはミスティリアの住民、およそ千五百名が、この地へと移り住んだことだ。


 ミュレアとタナトスとの交渉と視察により、話はまとまった。

 ザキュロの実、魔紅果の酒、そしてルガンディアの米――それらを安定して交易するため。

 加えて、作物や酒の栽培・研究、さらには拠点そのものの住居拡張と発展。


 そのすべてを賄うには、人手が圧倒的に足りなかった。

 ミスティリア側で移住希望者を募り、適性を確認し、家族構成や技能を洗い出す。

 居住区の選定、区画整理、住民リストの作成と照合。

 一斉移住など不可能で、何度にも分けて順番に移ってもらう必要があった。


 その時期は、通常の何倍もの仕事が増え、まさに地獄のような日々をバニッシュは過ごしていた。

 拠点とミスティリア双方の契約書の作成、交易に関する条件の明文化、安全保障、緊急時の取り決め、労働区分、机の上は常に書類の山で、バニッシュの執務室から灯りが消えることはほとんどなかった。


「……あの頃は、本当に慌ただしかったな」


 そう、今だからこそ静かに振り返れるが、当時は息をつく暇すらなかった。

 しかも――問題はそれだけでは終わらなかった。


 もう一つ、大きな出来事があったのだ。


 それは、ミュレアたちがミスティリアへ帰還する日のこと。

 セレスティナが転移魔法陣を展開し、帰還の準備が整えられていた。


 あとは発動を待つだけ――そんな、何の変哲もないはずの瞬間だった。


 「……僕、ここに残ろうと思う」


 そう告げたのは、黒牙だった。

 突然の言葉に、ミュレアの動きが止まる。

 タナトスも、誰一人すぐには言葉を返せなかった。


 黒牙の言葉に、ミュレアはほんの一瞬だけ視線を伏せた。


「……そう」


 返された声は、いつもと変わらない無表情なもの。

 けれど、その声音の奥に、わずかな寂しさが滲んでいることを、そこにいた者たちは誰もが感じ取っていた。


 その空気を察したのだろう。

 タナトスが一つ、控えめに咳払いをする。


「理由を、聞かせてもらってもよろしいですか?」


 穏やかだが、真剣な眼差しで、黒牙を見る。

 黒牙は一度、小さく息を吸い――そして、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「……僕、兄ちゃんが殺されて……それで、皆も居なくなって……」


 声は落ち着いていたが、その言葉一つひとつには、過去の重さが確かに宿っている。


「一人で、荒野を……逃げるみたいに彷徨ってた。どうしたらいいのかも、この先どうするのかも、分からなくて……」


 黒牙は視線を落とし、そして再び顔を上げた。


「そんな時に、ミュレアに助けられたんだ」


 ミュレアの方を見ることはせず、しかし確かに、彼女の存在を感じながら。


「……それで、こんな僕に、ボディーガードっていう仕事も与えてくれて……本当に、感謝してる」


 言葉に詰まることはなかった。

 それは感情に流された告白ではなく、自分の中で整理された想いだった。

 そして、黒牙はタナトスの目を、まっすぐに見据える。


「でも……僕は、ここで」


 静かだが、確かな強さを帯びた声。


「いろんな種族が集まる、この場所で……自分が何ができるのか、何をしたいのかを、探したいと思ったんだ」


 その瞳には、もはやかつてのような戸惑いや怯えはなかった。

 頼る場所を失い、不安に押し潰されそうになっていた少年の目ではない。

 そこにあったのは――自分の意思で立ち、進もうとする者の瞳だった。

 その迷いのない視線を受け止め、タナトスはわずかに目を細める。


「……そうですか……立派なお考えですね」


 ふっと、口元が緩む。

 それ以上、何かを言うことはなかった。


 沈黙が落ち、やがて――ミュレアが、静かに口を開いた。


「……わかった」


 短い一言、けれど、そこには彼女なりの覚悟が込められていた。


「じゃあ、私も……ここに住む」


 迷いのない声で、そう告げる。

 黒牙を、真正面からまっすぐに見つめて。

 黒牙は思わず目を見開く。

 その視線を受け止めながら、ミュレアは一切表情を崩さなかった。


「ななな、何を言っているのですかっ!?」


 タナトスの声が、場の空気を切り裂いた。

 いつも冷静沈着な彼には珍しい、明らかな動揺だった。


「黒牙がここに残るなら……私も残る」


 ミュレアは淡々と言う。

 その表情はいつも通り無表情。だが、その瞳には――意地でも譲らないという強い決意が、静かに、しかし確実に燃えていた。


「なりません! 貴女はミスティリアを治める者でしょう! それに、ミスト・コネクションはどうするのですか!?」


 必死な問いかけにも、ミュレアは一切動じない。


「……タナトスに任せる」


「出来るわけないでしょう!!」


 思わず声を張り上げる。


「大体、なぜミュレア様が残ろうとしているのですか!?」


「黒牙は、私のボディーガード。黒牙が残るなら、私も残る」


 それは当然とでも言いたげな顔でミュレアはタナトスを見ていう。

 理屈なんかどうでもいいのだ、とにかくミュレアの中ではすでに決定してしまった前提だった。


 もはや何を言っても聞く気がない――そう悟ったタナトスは、口を開いたまま、しばらく言葉を失った。


「…………」


 やがて、深く、大きなため息を一つ。

 肩を落とし、そして――落ちた肩を持ち上げるようにして、姿勢を正す。


「……わ、わかりました」


 しぶしぶ、だが覚悟を決めた声。


「ならば……私も、残ります」


「……なぜ?」


 ミュレアは小首を傾げる。

 本気で不思議そうな顔だった。


「黒牙とミュレア様だけを、この地に残せるはずがないでしょう! ミスティリアとミスト・コネクションの件につきましては、私の方で代理人を選定しておきます。政務も、交易も……何とか回してみせます」


 そう言って、彼はいつもの執事然とした顔に戻った。

 ただし――その額には、確かな覚悟と苦労の影が刻まれていた。


 その一連の騒動を思い出し、バニッシュは思わずクスリと笑みをこぼした。

 結局――なんやかんやでミュレアも、黒牙も、タナトスも、そして「ついで」と言うにはやかましすぎるルルカまでもが、この拠点に移り住むことになった。


 結界の範囲が拡大したことで、拠点は新たな表情を見せ始めた。

 かつては魔の森を覆う結界は、その領域を更に広げて、さらに外へと広がり――ついには、海へと辿り着いたのだ。


 かつては魔物の気配と荒れた潮流に覆われていた海も、結界の内側に取り込まれたことで、その危険性は大きく抑えられた。


 そこで決まったのが――港の建設。

 海沿いに桟橋を築き、船を停泊させ、そこを交易用の搬送路とする計画だった。


 当初は、セレスティナの転移魔法陣による搬送も検討された。

 理論上は可能であり、即応性も高い。


 だが――現実は甘くなかった。


 転移魔法陣の維持には、常時安定した魔力供給が必要だ。

 さらに、搬送用に転移魔法符を大量に用意しようとすれば、そのすべてをセレスティナが担うことになる。

 術者一人に負担を集中させるやり方は、この拠点の方針にはそぐわない。


 結果として選ばれたのは――時間はかかるが、確実な方法が海路による搬送だった。

 港を拠点とし、船を使って物資を運ぶ。

 天候や潮の影響を受けることはあっても、継続性と安全性は高い。


 何より、多くの人が関われる流れを作れる。


 二つ目に――大きく変わったこと。

 それは、他でもないバニッシュの住む家だった。


 ミスティリアから多くの人材が移り住んできたことで、居住区の拡大と発展は一気に加速した。

 区画は整理され、通りが引かれ、家々が立ち並ぶ。

 その流れの中で、問題――いや、提案されたのが、バニッシュの住居である。


 『拠点の長が、あんなこじんまりとした家じゃ示しがつかんやろ』


 そう主張したのは、ツヅラだった。


 最初、バニッシュは本気で取り合わなかった。

 住めれば十分だし、仕事ができればそれでいいとそう思っていたのだ。


 だが、いつの間にか話は進み、気づいた時には――家は、もはや屋敷と呼ぶしかない規模になっていた。


(……いや、これはさすがに、やりすぎだろ)


 心の中で何度そう呟いたかわからない。


 今、バニッシュがいるこの執務室も、かつてとは比べ物にならない。

 以前は寝室と兼用でベッドと簡素な机が並んでいただけの空間だったあの小さな部屋。


 それが今では――広々とした室内、堂々とした大きな机、来客用の応接セットまで揃えられた、立派すぎる執務室。


「……落ち着かないな」


 バニッシュはぐるりと部屋を見渡し、無意識に肩をすくめる。

 この広さには、未だに慣れなかった。


 というより――屋敷全体が、まだ馴染まない。

 廊下が長く、部屋数も多い、曲がり角を一つ間違えれば、簡単に迷う。

 実際、何度か――本当に、迷子になった。


「ここまで立派なものになるとはな……」


 苦笑を浮かべ、バニッシュは頭をかく。


 バニッシュの家が大きくなる――それに呼応するかのように、拠点全体の形もまた、はっきりとした輪郭を持ち始めていた。


 まず、エルフの居住区。

 そこには、樹守官を務めるフィリアの屋敷が建てられた。


 森と調和するように設計されたその建物は、石と木を巧みに組み合わせ、蔦と大樹に包まれるような佇まいをしている。

 威圧感はないが、エルフたちを束ねる者の住まいとして、十分すぎるほどの風格を備えていた。


 次に、獣人族の居住区。

 そこには、獣盟官を務めるツヅラの屋敷が構えられた。


 重厚な柱と広い中庭を持つ造りで、平屋を広く作り和風建築。

 ツヅラらしく、なかなかの趣のある雰囲気に、所々に飾り付けがされていて、堅実ながらも妖艶で遊び心あるで建物だった。


 どちらも、バニッシュの屋敷ほどの規模ではない。

 だが、それぞれの種族を代表する顔として、誰もが納得する立派なものだった。


 そして――ミュレアたちが暮らす居住区。

 彼女たちは、港とは別に、さらに海側へと居住区を構えることになった。

 海人族である彼らにとって、海から離れるという選択肢は、初めから存在しなかったらしい。


 波の音が常に耳に届く場所、潮の匂いと、海風に包まれた土地。

 そこは、拠点の中心部――バニッシュたちの暮らす場所からは、やや距離がある。


 その為、陸路を整備し、さらに水路を繋げる。

 それによって、海人族が行き来しやすい潮の道を作ると同時に、荷運びや交易品の運搬にも使える輸送路として活用する計画が進められた。


 海と森と拠点を繋ぐ――新しい流れだ。


 そして、バニッシュの拠点へ正式に移り住むことが決まったことで、ミュレアにもまた、新たな立場が与えられた。


 海人族の居住区を取りまとめる者として、その役職名は――潮統官(ちょうとうかん)


 ミュレアはその称を受け入れ、自らの屋敷を建てた。

 海を望む高台に立つその建物は、海人族の伝統様式を取り入れつつも、拠点との調和を意識した造りになっている。


 ここはもう、寄せ集めの集落ではない。

 それぞれの種族が役割を持ち、責任を負い、未来を見据えて生きる共同体だ。


 そしてその中心には――知らず知らずのうちに、バニッシュという存在が据えられていたのである。

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