第9話:選択できない勇者
※選べないという選択も、確かに存在します。
「戻りたくない」
その言葉は、驚くほどはっきりと口から出た。
女神は、何も言わなかった。
止めもしなければ、責めもしない。
ただ、待っている。
「戻れば……」
俺は、拳を握りしめた。
「俺はまた、同じ毎日を生きることになる」
朝、誰にも気づかれないように家を出て、
夜、誰にも起こさないように帰る。
家族のために働いて、
家族のために我慢して、
家族のために“自分”を後回しにする。
それは、尊い。
正しい。
誰も否定しない。
……だからこそ、逃げ場がない。
「向こうでは、俺がいなくても回るんだ」
妻は、強い。
子供たちは、成長する。
職場も、誰かが穴を埋める。
「俺がいなくても、問題ない」
それが、何よりも辛かった。
「ここでは違う」
声が、熱を帯びる。
「俺が必要なんだ。
俺がいなければ、誰かが困る。
俺がいなければ、物語が進まない」
姫の顔が、浮かぶ。
団長の、真剣な目。
騎士団の連中の、期待。
「ここでなら、俺は“主役”だ」
言い切った瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
女神が、静かに口を開く。
「あなたは、主役になりたかったのではありません」
「……何?」
「あなたは、必要とされる“役割”が欲しかった」
その言葉は、正確すぎた。
「主役でなくてもいい。
英雄でなくてもいい。
ただ……意味が欲しかった」
俺は、膝をついた。
「向こうの世界での俺には、意味があったはずだ」
「父親。
夫。
社員」
女神は、首を振る。
「それは、あなた自身が選んだ意味ではありませんでした」
「“求められた役割”を、あなたは誠実に演じていただけです」
頭痛が、来た。
今度は、逃げなかった。
映像が、はっきりと見える。
リハビリ室。
白い壁。
医師が、カルテを見ている。
「彼は……強い責任感を持つ方です」
「その分、“逃げること”を自分に許せなかった」
妻が、俯いている。
子供が、手を握っている。
「この世界は、その反動です」
女神の声が、重なる。
「あなたが、初めて“自分のためだけ”に選んだ世界」
俺は、笑った。
「……最低だな」
「いいえ」
女神は、即座に否定する。
「人間らしいのです」
沈黙が、落ちる。
空の裂け目は、まだそこにあった。
向こう側では、家族が待っている。
こちら側では、世界が、俺に縋っている。
「選べない」
正直な言葉だった。
「どちらを選んでも、俺は誰かを裏切る」
女神は、静かに言った。
「それでも、時間は来ます」
「次に境界が開いた時――
あなたの意識は、どちらかに定着します」
「中間は、ありません」
俺は、立ち上がった。
剣を握る。
見慣れた重さ。
「なら……」
俺は、裂け目の向こうを見ないようにした。
「最後まで、ここで生きる」
その瞬間、世界が、静止した。
女神が、目を見開く。
「……覚悟を、決めたのですね」
「覚悟じゃない」
俺は、笑う。
「逃げ切るだけだ」
※彼は、逃げることを選びました。
それが、最後の自由でした。




