第8話:壊れ始めた楽園
※優しい世界ほど、壊れる時は静かです。
最初に壊れたのは、時間だった。
朝だと思って外に出ると、夕暮れの色をしている。
訓練を終えたはずなのに、汗一つかいていない。
昨日交わした会話を、相手が「初めて聞いた」と言う。
世界が、辻褄を合わせることをやめ始めていた。
それでも、人々は笑っていた。
笑い続けていた。
まるで、「そういうものだ」と最初から決まっているかのように。
「今日は、少しおかしいですね」
王族の姫が、そう言って微笑んだ。
だが、その目は、どこか焦点が合っていない。
「気のせいだ」
俺がそう言うと、彼女は安心したように頷く。
――俺が否定すれば、否定される。
それが、この世界のルールになっていた。
騎士団の訓練場では、兵士たちが同じ動きを繰り返していた。
昨日と同じ。
一昨日と同じ。
その前とも、同じ。
「止まれ」
俺が声をかけると、全員が同時に動きを止めた。
息が、合いすぎている。
「……休憩にしよう」
誰一人、文句を言わない。
疑問も、反論も、ない。
団長だけが、俺を見ていた。
「なあ」
夜、二人きりになった時、彼女が言った。
「この世界、変じゃないか?」
胸が、跳ねた。
「……何が」
「みんな、あなたを中心に回っている」
彼女は、言葉を選びながら続ける。
「それが、ありがたい時もある。
でも……怖い」
初めてだった。
この世界で、俺を“怖い”と言った人は。
「私たちは、本当に生きてるのか?」
その問いに、答えられなかった。
答えた瞬間、すべてが壊れる気がした。
その夜、激しい頭痛で目を覚ました。
世界が、歪む。
空が、ひび割れる。
建物の輪郭が、揺れる。
人々の声が、ノイズになる。
そして、はっきりと聞こえた。
「……脳波、上がってます」
「このままだと、危険です」
「呼びかけ、続けてください」
現実の声だった。
俺は、叫んだ。
「黙れ!」
その瞬間、異世界の空が裂けた。
裂け目の向こうに見えたのは――
病室の天井。
点滴のスタンド。
そして、ベッドのそばで泣いている、妻。
その後ろに、二人の子供。
「……パパ?」
幼い声。
世界が、悲鳴を上げた。
「戻っては、いけません!」
女神が現れた。
羽は、ぼろぼろだった。
「あなたが戻れば、この世界は――」
「消えるのか?」
俺は、静かに問う。
女神は、頷いた。
「ここは、あなたの意識が保っている世界です」
「あなたが目覚めれば、役目を終えます」
「……みんなも?」
姫も。
団長も。
騎士団の連中も。
女神は、答えなかった。
それが、答えだった。
胸が、締めつけられる。
ここは、俺の逃げ場所。
同時に、俺が“神”として支配していた箱庭。
気づいた瞬間、吐き気がした。
「俺は……」
言葉が、震える。
「俺は、何をしてたんだ」
女神は、泣きながら言った。
「あなたが壊れないために、必要だったのです」
「あなたが、あなたでいるために」
その言葉は、優しすぎた。
――だからこそ、残酷だった。
※彼が守っていたのは、世界ではなく、自分でした。




