最終話:はじまりの朝
※はじまりは、いつも朝でした。
暗闇の中で、声がした。
「……パパ」
遠くて、近い。
夢の中のようで、現実のような声。
「パパ、起きてよ」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
まぶたが、重い。
体が、自分のものじゃないみたいだ。
それでも、ゆっくりと目を開ける。
白い天井。
カーテン越しの、朝の光。
規則正しく鳴る機械の音。
そして――
視界の端で、こちらを覗き込む小さな顔。
「……あ」
声にならない音が、喉から漏れた。
「パパ!」
子供が笑う。
泣きそうな顔で、でも確かに笑っている。
その後ろで、妻が立っていた。
目は赤く、でも、ちゃんとこちらを見ている。
「おはよう」
その一言が、胸に落ちる。
おはよう。
たったそれだけの言葉なのに、
どうしてこんなに、重くて、温かいのか。
「……おはよう」
声は、かすれていた。
でも、確かに、俺の声だった。
それから、時間はゆっくりと動き出した。
すぐに歩けるわけじゃない。
すぐに元通りになるわけでもない。
リハビリは続くし、
仕事のことも、これからだ。
それでも――
朝は来る。
ある朝、病院の外に出た。
朝日の、少し焦げた匂いがした。
時間は、気づかないうちに流れていった。
点滴の外れた腕で歩く距離が伸び、
白い廊下が、いつの間にか短くなっていた。
やがて、退院した。
しばらくして、仕事にも戻った。
俺は、日常に戻ってきた。
毎朝、家族より少し早く起きる。
音を立てないように、身支度をする。
キッチンで、コーヒーを淹れる。
まだ眠っている家の中で、
一人きりの時間。
鏡に映る自分は、
少し老けていて、
少し疲れていて、
それでも、ちゃんと“生きている”。
「行ってきます」
誰に聞かせるでもなく、そう言う。
ドアを開けると、
朝日の、少し焦げた匂いが胸いっぱいに入り込む。
特別なことは、何もない。
盗賊に襲われている馬車も、魔物も、魔王もいない。
でも、俺は知っている。
この何気ない日常もまた、
俺が選んだ、新しい冒険の“始まり”であることを。
朝は、また同じ匂いがする。
帰ってくる場所の匂いだ。
それでいい。
※パパ、起きてよ。




