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第1話:朝の匂い

※これは、ある男が、知らない世界で“自分”を取り戻す物語です。

量販店の朝は、いつも同じ匂いがした。

ワックスの甘ったるさと、段ボールの湿った紙の匂い。

それに、誰かが入れた安いインスタントコーヒーの苦味。


俺はシャッターが上がる前の売り場を歩きながら、今日が何曜日なのかを一瞬だけ考え、それをやめた。

曜日を意識したところで、やることは変わらない。


今年で四十三歳。

勤続二十年。

主任という肩書きはあるが、特別偉いわけでもない。


売り場時代に一緒に働いていた女性と結婚した。

恋愛結婚だったはずなのに、いつからか「生活の共同運営者」になった。

子供は二人。上は小学生、下はまだ幼稚園だ。


朝は、家族が寝ている間に家を出る。

目覚ましが鳴る前に起き、音を立てないよう身支度をする。

子供の寝顔を見て、少しだけ胸が痛むが、それも毎日のことだ。


帰る頃には、家族はもう眠っている。

俺が存在していた証拠は、脱いだ靴と、翌朝洗われる食器だけ。


「幸せか?」と聞かれたら、たぶん「幸せです」と答える。

不満があるわけじゃない。

暴力も、借金も、破綻もない。


ただ――

胸が、動かない。


毎日は決まったルートをなぞるだけだ。

驚きも、期待も、失望すら起きない。


俺は、自分が“自分”である感覚を、いつから失ったのだろう。


その日の夜、取引先との接待があった。

久しぶりの酒だった。

頭が少し軽くなり、世界がぼやける。


駅までの帰り道、携帯を見ながら歩きながら思う。


(タクシーで帰ったら、無駄遣いだって怒られるな)


その瞬間――

視界が、白く塗り潰された。

※あなたも、自分の世界で、今日という朝を選んでいますか。

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