9 詩織の休日
友達の結婚式。そんなもの、二十七歳にもなれば慣れたもんだ。
誓いのキスも、ブーケトスも、ファーストバイトも、笑顔で写真や動画を撮りながらやり過ごせる程、慣れた。それでも新婦と父親の入場では毎度泣いてしまうぐらいのピュアな心もちゃんと持ち合わせている。そんな私は模範的な参列者と言えよう。
取り返せる予定も見込みもない三万円の出費を何度しただろう。正直、劇団とアルバイトかけもちのフリーターにこの出費は痛い。三万円あれば一ヶ月分の食費になる。せめてごはんが豪華で、引き出物が好みでありますようにと、祈ることしか私にはできない。
今回の式は新郎も新婦も私と同じ演劇サークルに所属していたから参列者は必然的に関係者が多くなる。だから今日は正直なところ来たくなかった。あろうことか、新婦は私と同学年、新郎は水谷先輩と同学年なのだ。
もちろん参列者の中には水谷先輩もいる。二人は卒業後付き合い出したそうだ。新婦とは卒業後もちょこちょこ会っていたから、ある程度の馴れ初めは聞いていた。
二人は偶然同じビルの別会社に就職し、行きや帰りにエレベーターや駅で顔を合わせるうちに飲みに行く仲になり、うんたらかんたら。なんともよくできた話である。新婦は大学に在籍していた頃、全く新郎に好意など持っていなかったのに、(むしろ別の先輩と付き合っていたのに)不思議なものだ。同じ人同士でも出会うタイミングによって、知人で終わることもあれば、生涯の伴侶となりうることもあるんだ。
私がもし水谷先輩と違う場所で、違う形で出会っていたら、今頃結婚できていたのだろうか。いや、どう転んでもそうなっている自分を思い描けない。どんな状況であろうと私は彼を神格化してしまっていたに違いない。度が過ぎる愛は毒だ。お互いに幸せをもたらさない。
式場で私と水谷先輩は少し挨拶を交わしただけで、お互い別々の、それぞれの同期の輪に入っていった。もう何度見たか分からない。やっぱり先輩の左手の薬指にはちゃんと指輪がはまっていて、少し食い込んでいるその様はもう取り返しのつかない現実をまざまざと私に見せつけるのだった。
先輩を目で追ってしまう自分を押さえつけ、式に集中しようとする。それでも脳内は先輩一色で、変な汗すらかいてきた。先輩が居る側の体の側面がぴりぴりして、産毛が立つほどに神経が研ぎ澄まされている。雑念を取り払うために、目の前の料理にじっくりと向き合うことにした。よく分からないだいだい色のソースを、よくわからない小ぶりのトウモロコシみたいな野菜に絡め、よく分からない形のフォークに刺す。舌に神経を集中させて、それらを味わうと、悪くない。何の味だかよく分からないが、噛んでいるうちに出てくる旨味のようなものに翻弄されて、自然と口角が上がる。美味しいね。隣の同期と美味しさを共有する。そこでふと、料理に集中しているつもりが、水谷先輩がいつこちらを見ても良いように、私は綺麗に行儀よく食べているのだと気づく。無意識に意識するほどに私はまだこの気持ちに踏ん切りがつけられていないのだと自覚する。と同時に、のどの奥から鼻の奥目がけて塩分がせりあがってきた。悔しい。惨めで、哀れで、可哀そうな、醜い私。皿が少し滲んできた。
とんとんと、肩を叩かれる。一瞬水谷先輩であることを期待して、瞬時にそれは崩れる。振り返ると、水谷先輩と同期の清子先輩が立っていた。たしか中学だか高校だかの先生になった先輩だ。見た目は在学当時と変わらず、化粧が薄くて地味だ。いかにも先生って感じ。
「瀬尾ちゃん、久しぶり。あのさ、今も演劇やってるって本当?」
「あ、お久しぶりです。清子先輩全然変わらないですねー! 演劇やってますよ。小さい劇団ですが」
急激に現実に引き戻され、面喰いながらも対応しているうちに涙の波は引いていた。先輩は高校の演劇部の顧問をしているそうだ。指導の参考にしたいと発声練習から悲しみの表現の仕方、アドリブのコツなどあれこれ聞いてきた。結婚式中の、何で今?と思ったけど、相応に答える。
清子先輩は基本大道具で、たまに脚本書いたりと、裏方メインだったから、私が知る限り演者の経験は片手で数える程しかない。それもちょい役。顧問として演技の指導をしなければいけないとなると、色々と大変なのだろう。実際先輩は「もう大変でさぁ」と言っていたが、目尻には幸せそうな小皺が寄っていた。
「もし良かったら今度、私の公演観に来てくださいよ」
咄嗟に、社交辞令だけど、話の流れで言っていた。
「え! 行きたい! 楽しみ」
だなんて、お互いどこまで本気か分からない無難な言葉を交わしつつも、心がさっきより穏やかになっていることに気付く。
「皆さま、スクリーンにご注目ください!」
司会の女の人の明るい声が響く。
「あ、じゃあまた。ありがとね」
清子先輩は暗くなった会場を腰をかがめて、そそくさと元の席に戻っていった。
先生か。結婚式場でも仕事のことを考えるって、よっぽど楽しいんだろうな。私はと言えば式そっちのけで水谷先輩のことばっかり。好きなことを仕事にしたはずなのに。演劇にもっとのめり込むべきなのに。結局何にも手に入らないまま、時間ばかりが過ぎていく。虚無感に包まれる。スクリーンからの光で皆の顔は白く照らされている。水谷先輩の顔も白く暗がりに浮かんでいる。良い動画なのだろう、真剣な眼差し。その表情に私は感動する。何やってんだろ私は。式に来てろくに参加もせず、敗れた恋に囚われて。なんて見っともない。さすがに歩みを進めなければならない。
もし、清子先輩が本当に公演を観に来たとして、私の今の演技を見たら何と言うだろうか。確かに先輩はお世辞にも演者としての力量はあまりなかった。でも、昔から目は肥えていた。というか的確なアドバイスをくれた記憶がある。遠慮気味に指摘してくれた内容はどれも一理あって、素直に受け止められた。だから先輩が褒めてくれたときはとても嬉しかったし、自信を持てた。記憶を紐解くうちにそんなことを思い出してきた。
……アリかもしれない。さっきはろくに考えずに誘ったけど、行き詰まっている今だからこそ、清子先輩に来てもらうのはちょうどいい気がする。先輩なら忌憚なく、今の私の演技について意見をくれるはず。なんならここでボロカスに言われた方が演劇への気持ちの踏ん切りが着くかもしれない。ていうか、先輩が顧問とか適役だな。先輩は知ってか知らずか天職についたわけだ。先輩自身も教えてもらっている生徒も羨ましいなと思いつつ、演劇にそろそろ向き合わないとと思い始めている自分に気づき、少し嬉しくなる。
今日は来てよかった。気付けば皿は空っぽになっていた。




