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3 和田 彩乃は少し寂しい

 二十一時半。

 トイレに行くと、案の定生理が来ていた。なんとなく予感していたはずなのに、目の前の現実にしばらく動けないでいた。

 これで十二回目。妊活を始めてからちょうど一年が経った。

 二十代で一年間避妊しなければ、約九十%の確率で妊娠するというデータを至る所で見た。

自然に身を委ねるのも、もう潮時かもしれない。

夫の正和はまだ帰ってこない。飲み会だと言っていた。明日は休みだし、遅くまで飲んでくるのだろう。

 世の中の妻は、夫が夜遅くまで帰ってこないことを嫌がる場合が多い。

でも私は逆。別に夫を嫌っているわけでも、気を使いすぎているわけでもない。

でも、夕飯の手を抜けることや、夫のあまり好まない韓国ドラマを気兼ねなく堪能できる事実は、私の心を弾ませる。専業主婦の私にとって、夫の不在は一般職で言うところの休暇みたいなものなのだ。だから飲み会やらゴルフやらにいくら行っても、とやかく言うつもりはない。

特に私の場合、正直に言うと心のどこかで夜の夫の不在を願っている気持ちすらあるのだ。単純に一人でいる気楽さではなく、問題を先送りにできる安心とでも言ったら良いだろうか。

 妊娠の超初期症状は調べ尽くし、だいたい頭に入っている。腹痛や腰痛、眠気に、吐き気、おりものの変化や胸の張りなどなど。

この一年、その中のいくつかが当てはまる度に何度舞い上がっただろう。

人間は面白いもので、こんな情報ばかり摂取していると、生理の時期が近付くにつれて、吐き気や腹痛を感じるようになる。

期待する余り、体が錯覚を作り出しているのだ。もしくは、生理前の不調が妊娠の初期症状と似ているが故の勘違い。

とにかく色んな症状が出たけれど、この一年、毎月必ず生理が来た。

今回も、同じ。寝不足でもないのに、なんとなくここ最近日中眠かった。お腹も腰も痛かったし、今日の朝も基礎体温は高かった。

フライング検査で使った妊娠検査薬は真っ白だったから、薄々分かってはいた。

でも、今度こそはと思っていた。自分が思っている以上に思っていたのだ。なのに、私は妊娠しなかった。

 この半年ぐらい、友達の出産報告を聞くと途端にもやもやしてくる。

手放しで喜べる時期は過ぎ去った。

友達は全く悪く無いし、妬んでも良いことはないと頭では分かっている。

でも、わざわざSNSに大きくなっていくお腹を載せなくても良いのにと思ってしまう。

私の心は狭い。そんなもの見なければいいのに。

道行く親子連れや妊婦に対しても全く微笑ましいと思えない。

私が手に入れたくても手に入れられないもの。それを見せつけられているようで、悔しいというか虚しいというか怒り、悲しみ、羨望、そんな負の感情がドロドロと湧いてくる。だから目を背ける。

 私達夫婦は結婚して二年経つ。同棲せずに結婚したので、二人の時間を楽しみたいという意志の元、最初は子どもをつくらなかった。

しかし、一年ほど経ち、私が二八歳を過ぎた頃、三十歳までに第一子を産みたいという気持ちがむくむくと膨れ上がり、子どもをつくることにした。

初めはすぐにできるもんだと思っていた。当初、避妊をやめたというだけで、妊娠したのではないかと妙にそわそわし、わくわくしていた。

しかし、ことはそううまく進まず、私は妊活に関するあらゆる情報を収集し始めた。

排卵日のことを知り、基礎体温を計り始め、排卵検査薬を試し、温活に勤しみ、お酒を控え、栄養バランスにも気をつけた。

しかし、早一年、結果は出なかった。

私は二十九歳をとっくに越えていた。二十代で子どもを産むということが物理的に不可能となった今、急ぐ必要はないということは分かっている。ゆったりした気持ちで、お互いの体にじっくり向き合えばいい。

しかし、最近の夫婦関係は妊活のためのものになってしまい、純粋な気持ちで抱き合うことができなくなっている。

本当は排卵日以外にも行為を行った方がいいことは分かっている。その方が妊娠しやすくなるというネットの記事や本を読んだ。

しかし、私が妊活を意識すればするほど、夫の心は私の体から離れていくようで、妊娠したい気持ちと反比例して、行為の回数は減っていった。

私も私で元々性欲がある方ではないから、行為をしないならしないで、本来なんの不満もなく眠ることができていたはずなのに、妊活を意識してからは、義務的になんとかタイミングをとろうと無理をすることになっている。

きっと夫は私が無理をしていることを感じ取り、余計にその気が削げるのだろう。

私が夫ではなく子どもを求めていることは見えない壁となってしまっている。

寝る前のこのお互いのぎくしゃくが最近は辛い。

だから、夫の帰りが遅い日は率先して先に眠る。

それでもなんとか排卵予定日付近に私から声をかけ、かろうじてタイミングはとれている。でも、それはそそくさと、どこか作業じみて、ぎこちないものとなっている。そんな行為は楽しくもなんともなく、上っ面だけのものとなっていた。こんな状態、良くない。

 夫は優しく、帰りが遅い時があるとは言え、今の所浮気の影はない。多分。

でも、不妊治療については温度差がある。

検査に行こうと言っても「そんなに焦らなくても大丈夫だよ」となかなか取り合ってくれない。

私は私で腹を括って一人でもクリニックで検査をし、徹底的に不妊治療に走ればいいのに、夫の言葉に流されて次こそできるかもという淡い期待で同じ一ヶ月を過ごしている。

中途半端さは、楽さとともに自己嫌悪を引き起こし、結局はストレスになるという悪循環をもたらす。夫に対してもそうだ。

今月も生理が来たと伝えたくないし、クリニックの話題も言い出しにくい。

もっと夜の営みを自然に楽しめたらいいのだが、その話題すら私は避けている。

妊娠を望めば望むほど、セックスレスに近付き、最近は夜一人で先に寝てしまうことの方が増えてきた。

私は何もかもを先送りにして、現状にもやもやを抱いたまま、一人殻に閉じこもっている。

 幸せを絵に描いたような美男美女の恋愛。理想のカップルを韓国ドラマの中に見る時間だけが最近の楽しみだ。

もっとお互いを純粋に求めることができたら子どもは生まれるのかもしれない。

もちろん夫のことは好きだ。しかし、昔と同じようには振る舞えない。どうしても結果が出ない未来を想像してしまう。すると途端に虚しい現実が頭をもたげ、私達を見下ろすのだ。

 前々から目星をつけていたクリニックの予約画面を開く。

一年経ったら、となんとなく思っていた。でも、まさか一年経つとは思ってなかった。

時計は二十二時半。初回は夫婦揃ってが望ましいと書いてある。もう一度、夫に聞いてからにしよう。

今日はもう寝てしまうことにした。

なぜあの行為をする場所と、睡眠をとる場所が一緒なのだろう。

どんな一日でも最後に行き着く場所だから、寝る前には必ず問題が頭を過ぎる。

明日は早起きして散歩でもしよう。アイロンがけもして、図書館にも行ってみよう。

前向きに、前向きに、思考を組み立てようとする。きっと大丈夫。私達なら大丈夫。自分に言い聞かせる。

いつもの習慣で妊活ブログとSNSをいくつか巡回し、目を閉じる。夫の帰りは今日も遅い。

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