15 若菜と発熱
分かっていたが、この日が来た。前触れもなく、突然に。しかし、驚きはない。
その日私は発熱した。無論、裕太からうつされたのである。仕事はもちろん休んだ。
久々の発熱は久々の分だけ、とても重たい。元気な時には想像もできない倦怠感。立っていることすらしんどい。
大人になってから、ろくに風邪もひいていなかったから、慣れない寒気と怠さに何にもすることができなくなってしまった。ただただ布団にくるまっていたい。
幸いパパは元気である。元気に会社に出かけて行った。
インフルエンザが流行っているので、検査のため、裕太を連れ、病院に行く。交通手段はママチャリである。発熱しながら重たい自転車を漕ぐ日が来るとは思わなかった。
もうやぶれかぶれ、満身創痍である。
裕太と二人、検査してもらったら、案の定二人とも陽性だった。改めて会社と保育園に連絡する。ついでにパパにも。しばらくは療養生活だ。
体は重たいのに、なぜかホッとしている自分がいる。インフルエンザであるならば、許される気がする。
仕事が減るわけではないが、なぜか少し心の荷が降りた。家に帰り、裕太の看病もしながら、自分も休養する時間が始まる。
くらくらする頭でお粥を作り、冷えピタを張り、寝かしつける。
なかなか寝ない上に、何をするにもいつもの三倍ぐずる。こまめに飲み物を飲ませるせいか、オムツ替えも多い。
さすがに夕飯はパパが用意してくれることになっている。私の手が空く時間はほとんどなく、洗濯、食器も溜まったままだ。
パパはそこまでやってくれるだろうか。あまり期待はできない。
でも、なんとかしようにも頭は霞がかかったように思考がまとまらず、震えが止まらない。苦しい。寒い。洗濯どころではない。
何とか裕太が寝て、ほっと一息ついて隣で自分も布団にくるまると、途端に寝てしまった。
裕太の声にはっと目を覚ますと、時計はすでに十七時だった。二時間程眠っていたようだ。
今日は早めにパパが帰ってくる手筈になっている。夕飯の支度がないだけで、気持ちはかなり楽だ。
眠ったせいか体が少し軽くなり、熱も朝程はないような気がする。裕太も回復してきたようで、布団から出て遊び始めた。熱を測ると、37度8分だった。ピークは超えたようだが、まだまだ全快とはいえない。
水分補給や着替えなど一通り済ませて裕太を布団に戻し、少し読み聞かせをする。
さすがにずっと寝ていたせいか全く寝る気配は無く、きゃっきゃといつもの半分ぐらいのテンションで楽しんでいる。
ちらとスマホを確認するとパパから連絡が入っていた。
「ごめん、ちょっと遅くなりそう」
何かが込み上げた。それは感情的なものではなく、物理的に溝落ちの奥の方から何かが迫り上がってきた。
ぶわっと毛が逆立つ感覚がして、どす黒い感情が一気に脳内をしめる。気付くと電話をかけていた。
「もしもし、遅くってどれぐらい? ごはんは作れるの?」
「ごめん、急に上司と飲み行くことになって。この前移動した先輩が来てて、ほら、お世話になった前沢さん。ちょっとだけ顔出してすぐ抜けるから。夕飯は何か買って帰るよ」
ぷちんと脳内で音がした。憤怒と悲哀と憎悪が曼荼羅のように渦を巻く。
ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。百万歩譲ったとして、残業ならまだ分かる。飲み会って! ちょっと顔出して帰るって! これほど信用できない言葉があるだろうか!
「もういいよ、夕飯私が作るから」
それだけ搾り出し、返答を待たずに電話を切る。
期待した私がバカだった。何度騙されれば気がつくのだろう。
怒りを裕太に悟られないようにしたつもりだが、裕太は驚いたようにこちらをじっと見ている。
ごめんね。ごめんね。ごめんね。
不甲斐ない父親で。母親で。
昼間とは味の違うお粥をクツクツと煮る。
ついにこの日が来たのだ。「我慢の限界」ってやつだ。
帰ってきたら、とことん言ってやる。自分がどれだけ無意識に私を、裕太を、傷つけているか。
言っても変わらないことは分かっているが、怒りが収まらない。
彼を更生させるというより、私の怒りを発散させることがもはや目的だ。どこまでも自分勝手で、家族を犠牲にすることに何の抵抗もない人間。
何をどこで間違って彼を伴侶に選んだのか。今となっては好きだった気持ちを全く思い出すことができない。
火が強かったのかお粥は少し焦げた。もうどうでもいい。




