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13 彩乃と劇

 清子から連絡が来た。

演劇を観に行かないかだって。それはとても魅力的な提案だった。何しろ専業主婦の私はいつだって暇なのだ。

暇というと正確には語弊がある。家事全般はもちろん、クリニックに通ったり、妊活のセミナーに行ったりとやることは色々とある。

でも世間一般から見たら、かなり暇な部類に入るだろう。友達と会う約束よりも優先すべき緊急な用事は何も思いつかない。とにかく正和以外の人との関わりにも飢えていたし、一も二もなく行くことにした。演劇を観るなんて、大学生の頃、清子が脚本を手掛けたものを観て以来だ。思ったより高いチケット代にドキッとしたが、主婦も立派な仕事だ。たまには良いだろうと誰かに責められたわけでもないのに、心の中で言い訳をし、承諾した。

 約束の日の夕方、劇場の最寄り駅で清子と落ち合う。驚くべきことに、日曜日である今日も部活をこなしてから来たとのこと。あまりのタフさに少し面食らい、主婦であることにかすかな引け目を感じる。

清子への素直な賞賛と心配を投げかけ、自分の濃い影法師を心なしか強めに踏みしめた。

劇場は思った以上に小さかった。テレビ番組で、役者や芸人の人達がよく劇場を小屋と言っているのを聞くが、正に小屋と呼ぶにふさわしい建物だった。

他の民家と大差ない、むしろ近隣の建物よりも心許ない見た目のその劇場は、廃屋と言っても過言ではないやたらと年季の入った骨組みに、継ぎ足し継ぎ足し修繕をして、なんとか保っている印象を受けた。

着いた時には、何かの間違いじゃないかとすら思った。しかし、入口前の小さな看板には事前に知らされていたタイトルのチラシが確かに貼ってある。

たまのお出かけにと、よそ行きのワンピースを着て、割とおめかししてきた自分が少し恥ずかしくなる。

暗い入り口で大学生ぐらいの若者にお金を払うと、中に案内される。物珍しさと、一抹の不安とでキョロキョロしてしまう私とは違い、清子は慣れたものだ。

知り合いもいるようで、堂々と、スタッフに挨拶したりなんかしている。外見に違わず、劇場内も貧相なものだった。

客席はパイプ椅子のような簡易的なもので、座ると頼りなげにギッと軋んだ。ぎゅうぎゅう詰めに座っても五十人がやっとというほどの小さな空間である。

それでも、アーティスティックな出立ちのお客さんや、すでにセットが完了している舞台、それっぽい照明器具に、席に置いてあったパンフレットやチラシの束などを見ているうちに心は自然と高鳴ってきた。

むしろ綺麗なきちんとした会場よりも、アンダーグラウンド感のあるこの雰囲気の方が好奇心は掻き立てられる。

いつになく、とてもわくわくしている自分がいる。正和も連れてくれば良かったと一瞬頭に浮かんだが、清子に悪いし、これで良かったとすぐさま訂正した。

清子も少し興奮気味で、色々と教えてくれた。大学の後輩が出演していること、この劇団は元々サークルの仲間が立ち上げたこと、今回が五周年記念公演であること。

サークルの仲間なのか、またしても清子が周りの人とちょこちょこ挨拶をしたりされたりしている間、私は若干の手持ち無沙汰を感じながらも非日常に浸り、少しの緊張と愉快な気分を味わっていた。

ぶーっとクイズで不正解だった時のような安っぽいブザーが鳴ると、会場は暗闇に包まれ、静寂が訪れた。舞台の中央にスポットライトが当たり、一人の華奢な女性が照らされた。

小柄なその体のどこからどう声が出ているのか、マイクを通さない肉声が、一気に会場に響き、染み渡る。

「あれは、まるで夢の中の出来事のようでした」

それは決して耳障りなトーンではなく、この空間の隅々までちょうどぴったり行き届く透き通るような声だった。静かなのにはっきりと聞こえる、芯がありつつも柔らかい声。

「誰も信じてくれません。でも、私にはありありと思い出すことができます」

まるで歌っているかのような心地よい喋り方に、気付けば飲み込まれていた。

舞台に気持ちが吸い寄せられ、そこから先、笑ったり驚いたり、少しうるっときたりしているうちにあっという間に劇は終わった。言うまでもなく、それはとても良かった。

 帰り道、語彙の貧弱さを痛感しながら、冷めやらぬ感動を、とにかく清子に伝えた。特に最初に登場した女性の一人語り。耳じゃなくて腹に響く声。心に直接訴えかけられているかのような、そんな、まさに迫真。

そんなしどろもどろに褒めまくる私を見て、清子は笑っていた。そりゃ良かったとどこか他人事みたいに、でもちょっと嬉しそうに。私も嬉しかった。

その女性こそ、清子の後輩だとのこと。終わった後、出口付近で清子とその子が少し話していたからそうじゃないかなとは思っていたけど、改めて言われるとなんだか清子まですごい人のような気がしてくる。そんなことを言うと、彼女は別格だと清子は言った。自分達のサークルの他のメンバーと比べても圧倒的らしい。

確かに、今日の劇の中でも一際輝いていたのは、彼女だ。他の役者でそこまで印象に残っている人はいない。なんというか、彼女が一番自然だった。変な熱が入っていないというか、素の感じだった。役ではなく、本当にそういう人なんだろうなと思ってしまう程に、違和感がなかった。

今は役者をやりながらバイトもして、結構大変みたいよ、とも清子は言った。

でも、専業主婦の私には、好きな演劇を仕事にして、それに熱中し、打ち込む生活はなんだかとてもきらきらして聞こえた。

自分の好きだったことってなんだったっけ。そんなことが突如頭に浮かぶ。子どもが欲しいと思う前、私は何が好きだった?お母さんになりたいと思う前、私は何になりたかった?最近は妊活に頭が支配され、自分の「好き」を見失っていたことに気付く。

小さい頃、ピアノの先生になりたかったことをふと思い出した。もう十年以上ピアノを弾いていないことに気付き、愕然とする。

 清子と夕飯を食べて帰ることにした。正和には多分そうなると伝えてあったし。私達は手頃な店を求めて、歩きまわった。小さい駅だったため、良い店が、というより営業している店自体なかなか見つからない。駅の反対側に商店街があるから、そこに行けば何かしらあるだろうと、清子も私も気ままに考えていた。しかし、日曜日の夜のせいかスナックとか、カラオケは営業しているものの、手ごろな飲食店は休業日だらけだ。

「あ、マック」

薄暗い商店街の奥に、こうこうと光りを放つマクドナルドを見つけた。正和はファストフードをあまり好まないし、私は私で妊活中ということもあり、もう何年もマクドナルドに行っていない。

「ね、マクドナルドにしない? 久々に行きたいな」

 早く店を決めたかったというのもあるし、なぜか無性に食べたくなった。長らく行っていなかったが、昔は結構好きだった。それこそ、高校生の頃は清子達としょっちゅう行っていた。日頃あれだけ栄養に気を使っているのだ。一日ぐらい好きな物を食べても良いだろう。懐かしい。昔自分が好きだったもの。お母さんになりたいと思う前に好きだったもの。

 清子もマックかーと言いつつ、他に店ないし、いっかと快諾。二人して夜のマックにぶらぶら入って行った。ダブルチーズバーガーセット。数年ぶりのマクドナルドは相変わらず美味しかった。あの頃と変わらない味に、なぜかほっとする。

昔はいくらでも食べられると思っていたけど、意外と満腹になる。私があまりにも美味しい美味しいと言うので、清子は怪訝な顔をしていた。数年ぶりなんだと言うと、とても驚いていた。清子は先週も食べたらしい。なんならコンスタントに月二回程度は来ているとのこと。

「いいなぁ」

 気付くと言っていた。羨ましい。好きなものを好きな時に食べれる生活。清子は「いつでも食べられるでしょ?」と不思議そうだ。なんなら主婦の方が羨ましいよと言いながら、笑っている。

確かに世間から見たら専業主婦ほど、とくに子どものいない専業主婦ほど気楽な立場の人間はいないだろう。羨ましがられて当然だ。でも、信じてもらえないだろうけど、主婦は主婦で色々あるのだ。

稼いでいるわけではないから、お金を使うことに対するうしろめたさもあるし、そこから来る夫をなんとなく優先させてしまう思考回路も厄介だ。

食べる物にしても、旅行先にしても夫のお金だから、夫の希望を優先してしまう。お金は自由に使って良いと正和は言ってくれている。でも、だからといって気兼ねなく使える程、私は肝が据わっていない。

どの道、正和が選ぶものの方がなんか良く見えたりして、そんなに不満もなく正和の選択に身を委ねていた。でもいつの間にかそうやって過ごしているうちに、自分の好きなものがなんだったのか、やりたいことはなんだったのか、少しずつ少しずつ海岸が削り取られていくように、分からなくなってしまっていた。

だから、正和が選ばないマクドナルドは本当に久しぶりで、食べたいなーという気持ちすら日頃思い出さないぐらいに最近の私の生活とは縁のない空間だった。

 満たされた気持ちで、別方向の電車に乗って別れる。良い一日だった。

一人電車に揺られていると、清子の後輩のことが思い出される。自分の好きなことを仕事にするってなんて素敵なんだろうと思った。さっそくSNSで検索し、フォローする。すっかりファンになっていた。

なんとなく、「大手」とか「安定」というものを良しとする世間の風潮や親の期待に便乗し、失敗しないことを目標に人生を歩んできた自分を振り返る。それは果たして正しい道だったのか。

不妊という躓きにこれほど動揺し、焦り、もがいている自分がとても弱く見える。

もし今まで、世間の「良い」に引っ張られず、自分が心の底から望むことを貫いて生きてきたのなら、心が鍛えられ、不妊に直面しても慌てることなく、落ち着いて現状に向き合えたのかもしれない。

なんとなく、今日の舞台に出ていたあの子なら、なかなか妊娠しなくても、前向きに毎日を過ごせるんじゃないかなんて、思考は飛躍してしまう。

つまりは、自分に無いものをあの子に重ねているだけだ。きっとあの子はあの子で大変なこともあるだろう。SNSには明るい笑顔の写真が並んでいるけど、裏にはきっとそれ以上の葛藤や悩みもあるに違いない。

私は弱い。何かに縋って、自分を支えようとしている。ぐるぐると自分の生き方を省みながら、家に着いた。それでも、ベッドに入った時には、素直に自分をもっと大切にしようと思えていた。

食べたい時には食べたいものを食べれば良いのだ。正和に全てを合わせることない。もっと自分の心に正直になりたい。そう思って心の中を見回した時、妊娠することは世間の意見でもなんでもなく、自分が本当に望んでいることだと気付く。それは分かりきっていたことだけど、なんだか嬉しくなった。

仕事はしていないけど、私だって、自分の人生を生きようとしているのだ。心の声に耳を傾けて。昔誰かが言っていた。答えは自分の中にあるとも。ありふれた台詞もすとんと胸に落ちると、手応えというか感触というか、なんとなく身をもっての実感が生まれる。

そんなことを考えているうちに眠りについていた。

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