10 彩乃の休日
日曜日。
夫の正和は朝からゴルフに行った。今日は一日一人。
何をしようかそわそわしつつも、思いっきりごろごろしちゃうのもありだなと贅沢な悩みにわくわくする。先月不妊治療のカウンセリングに二人で行き、まずは検査をしてみましょうという話になった。並行して、タイミング法も行う。様々な費用について、ある程度下調べをしていたから私は驚かなかったが、正和は説明を聞きながらやたらと目を丸くしていた。おまけに帰り道、あの病院ぼったくりじゃないのかと真剣に言っていた。子どもを授かることを考えたらお金をケチっている場合ではない。どこも相場は似たようなもんだし、本来お金では得られないものを得ようとしているのだ。でも稼ぎのない私には何も主張する権利はなく、ごにょごにょと「保険が適用されてこれでも安くなったんだよ」とか弁解めいたことを言うことしかできなかった。それでも、正和が一緒に来てくれたことは大きい。
これまで私が勝手に体温を測ったり、排卵検査薬を試したりしていただけだったが、その日から正和も妊活に意識的になってくれた。朝起きた時、「今日の体温何度?」と聞いてくれる人がいる。それだけで今までとは比べ物にならない程やる気が出てくる。一人ではないと強く実感できる。子どものいない専業主婦は孤独だ。話す相手はほぼ夫しかいない。夫以外の人との会話が、スーパーでポイントカードの有無を答える時ぐらいしかない日もざらにある。
自分がどうやって喋っていたのか、どんな風に人と会話を繋いだらいいのか、日々分からなくなる。数分のぎこちないリハビリを経ると、いくらかマシになるが、本調子にはなかなかならない。
だからこそ、正和の言動が私に与える影響は大きい。正和からしたら何気ない一言かもしれないが、それが私にとってはとてつもなく大きいことなのである。
妊活に良いとされているタンポポ茶を淹れ、まだ全然寒くないものの、足元の冷えない靴下を履き、動画を観ながら妊活に良いとされるツボを押す。どこからどう見ても典型的な妊活女である自分を少し不思議に思う。
小さい頃、いや、就職した後ですら、自分が将来妊活に勤しむ日が来るなんて、思ってもみなかった。それほどに子どもを産むことは自然なことで、いつかは勝手に「お母さん」になるのだと認識していた。何の疑問を持たずに小学生から中学生になったように、人生の階段とか、自然の流れみたいなものがあるのなら、いつか子どもを持つ日が来るんだろうなぁというぐらいの希望とも意志ともつかないぼんやりとした未来予想図の一つだった。
人はどうなるかなど、分からない。ピアノが好きで熱心に教室に通っていた小学生の私に、将来はピアノなんて全然弾かなくなるよと言った所で信じてもらえないように、今、母親になっている自分を思い描くことができなかったとしても、そうなる可能性はあるのだと信じたい。
一歩は踏み出した。あとは歩み続けるだけだ。その先にどんな自分が待っているかは神のみぞ知る。
少しぬるくなったタンポポ茶を飲み干す。今日一日、おやつでも手作りしようかなとか、ウィンドーショッピングに行こうかなとか、なんらかの行動を起こしたい気分になってくる。こういう前向きに先のことを考えられる時間が一番幸せなのかもしれない。
でも、今ここにある幸せを認識することは、同時にそれが近い未来消えると認識することとほぼ同じだ。ふとそんなことも思う。すると、この状態は幸せなのか不幸なのかわからなくなって、もしかしたら、なんて余計なことまで考えてしまう。
もしかしたら、子どもができるかもしれない未来をあれこれ思い描いている今が一番幸せで、子どもができたらできたで、目まぐるしい生活と困難、苦悩とが幕を開けるのかもしれない。女子会での若菜を思い出す。
それでも。それでも、子どもが欲しいと思えている自分が、ちゃんと心の中にいる。大丈夫。ちゃんと欲しい、ちゃんと育てたい、ちゃんと苦労したいと思えている。大丈夫。私は母親になれる。
まだ妊娠すらしていないのに、暇は脳内ばかり動かす。ツボの次に妊活に良いとされているストレッチもする。これで良いのだ。自分を肯定する。これで良い。体のいろんなところを伸ばしているうちに、思考は止まってくれた。
今日は体に良いことをとことんやろう。方針さえ決まればあとはやるだけだ。自分を幸せだと思えるならば、それは幸せなのだ。どんな状況になろうとも、子どもをもった私は幸せなのだ。それは私が決めること。窓から差し込む柔らかな日が背中をそっと押してくれた。




