『リリー』
私の名前はナツメ。日系アメリカ人だ。幼い頃は、引っ込み思案で友達も出来ず、一人で本を読んでいることが多かった。両親は日本から移住してきたが、私は生まれも育ちもアメリカだ。それでも、クラスメイトたちの間では、私はいつも「違う」存在だった。
そんなある日、近所に住むリリーが私に声をかけてきた。彼女は明るい金髪と澄んだ青い瞳を持つ少女で、クラスの中でも目立つ存在だった。
「あんた、みんなとなんで顔が違うの?」
最初の言葉は今にしてみれば、かなり直線的だった。でも、その時の彼女の目には悪意はなく、純粋な好奇心だけがあった。
リリーはブロンドで、好き嫌いの多い少女だった。顔立ちは整っているが、決してそれを自覚しているわけでなく、自分の思うように生きていた。彼女の周りにはいつも人が集まっていた。だから、彼女が私に興味を持ってくれたことは、当時の私にとっては信じられないことだった。
「ナツメ。ちょっときなさい」
リリーの言葉に従って、私は彼女についていった。思えば、私は彼女の子分だったかもしれない。でも、それは私にとって苦ではなかった。
「ナツメ。ちょっと一緒に行きましょう」
彼女と過ごす時間は煩わしくなかった。それは彼女の魅力だったのかもしれない。彼女と一緒にいると、何も考えなくていい。ただ、彼女の言うままに動いていれば良かった。それは私のような引っ込み思案には、むしろ心地よかった。
そんなある日、リリーは私を夜の散歩に連れ出した。
「ナツメ、あの橋、夜に見ると綺麗じゃない?」
彼女は公園の小さな橋を指さした。昼間は何の変哲もない橋だが、夜の闇に包まれると、街灯の光を受けて幻想的に輝いていた。
深夜の公園で橋を見た。そこから見える橋はなんの障害物もなかった。ボーっとそれを見ていると彼女が、私の視界を遮るように前に立った。月明かりに照らされた彼女の横顔は、いつもより大人びて見えた。
「月が綺麗」
リリーはそう言って、私を見つめた。その瞳には、何か特別なものが宿っているように感じた。私はその意味を理解できなかったが、胸の奥が温かくなるのを感じた。
その晩、家に帰ると、私は両親に怒られた。子供二人で深夜に外出したんだ、当然だ。それから、しばらく、私はリリーと遊ぶことを禁止された。
禁止が解けて、初めて私からリリーの家を訪ねた。しかし、リリーの家は売家になっていた…。突然の引っ越しだったのだろう。別れも告げずに、彼女は私の前から消えてしまった。
◇
それから、しばらくして、いや正確には十数年後、私は大学生になった。ボーイフレンドもできて、奨学金の審査も通って恵まれた生活を送っていた。トムという名前の彼は、物理学を専攻する真面目な男性で、私の内向的な性格をよく理解してくれていた。
人見知りだったころからすれば、友人も多少は増えていた。大学の映画サークルで知り合ったマイクは、映画評論家を目指す熱心な学生だった。
「ナツメ、マイナー映画でも見ないか?友達が監督をやっているんだ」
マイクからの誘いだった。マイナー映画なんて、全く見る気はなかった。しかし、その映画のキャストに見覚えのある名前があった—リリー・スミス。
あの日以来、リリーの消息を知ることはなかった。同じ名前の人は多いだろう。でも、もしかしたら…と思うと、胸が高鳴った。
その日、トムを誘って、マイナーな映画を見るために隣町の大学へ行った。トムには、友達から誘われたとだけ伝えた。リリーのことは話せなかった。どう説明していいのか分からなかったからだ。
部屋に入ると、そこに助演リリー・スミスはいなかった。マイクから、彼女はその試写会の数日前に亡くなったと聞かされた。交通事故だった。
試写室の隅には、彼女を偲んで花が飾られていた。写真を見て、私は息を呑んだ。確かに彼女は、私の幼なじみのリリーだった。あの金髪と青い瞳は、年を重ねても変わっていなかった。
映画は平凡なものだった。主人公がヒロインに恋をして告白する。ただ、それだけだ。話の展開も予想しやすい、映像も退屈だった。
しかし、深夜、主人公がヒロインに告白するか迷って、間違って別人に声をかけてしまう場面。そこだけ、綺麗に撮られていた。リリーが演じる脇役の女性が、月明かりの下で主人公を見つめるシーン。彼女の横顔が月の光に照らされて、幻想的に輝いていた。
ほんの数秒だったかもしれない。しかし、私にとってはそれ以上に感じられた。あの夜の公園の橋の上で、リリーが私に向けた眼差しと同じものを感じた。
◇
「最後の告白はよかったけど、それ以外はね。ナツメはどうだった?」
試写会から帰る車の中で、トムが私に聞いた。
私はただ、一言だけ答えた。
「月が綺麗だった」
トムは不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
その夜、私は古い日記を引っ張り出した。リリーと過ごした日々を記した日記だ。最後のページには、あの夜のことが書かれていた。
「今日、リリーと夜の公園に行った。彼女は『月が綺麗』と言った。なんだか、特別な意味がありそうだったけど、聞けなかった」
私は母に電話をかけた。彼女は日本文化に詳しい。
「ママ、『月が綺麗』って、何か特別な意味があるの?」
電話の向こうで、母は少し間を置いて答えた。
「ああ、それは日本の作家、夏目漱石の有名な逸話よ。『I love you』を日本語に訳すときに、『月が綺麗ですね』と訳したの。直接的な愛の告白ではなく、美しい情景を通して気持ちを伝える…そういう意味があるのよ」
母の言葉を聞いて、私はようやく理解した。あの夜、リリーが私に伝えようとしていたことを。
翌日、私はトムと別れた。彼は驚いたが、私の決意を尊重してくれた。そして、私はリリーの墓を訪ねた。
墓前に立ち、私は彼女に語りかけた。
「リリー、あの日の『月が綺麗』の意味を、今になってようやく理解したよ。遅すぎたね…」
風が吹き、墓石に置いたユリの花びらが舞い上がった。夕暮れの空には、満月が輝いていた。
私は空を見上げながら、小さく呟いた。
「月が綺麗ですね、リリー」
その瞬間、風が止み、すべてが静寂に包まれた。まるで、彼女が応えてくれたかのように。
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帰り道、私は公園の橋に立ち寄った。あの夜と同じ場所に立ち、月を見上げた。思えば、リリーは私の最初の恋だったのかもしれない。それに気づくのに、こんなにも時間がかかってしまった。
でも、私は後悔していない。リリーとの思い出は、これからも私の中で生き続ける。そして、いつか誰かに本当の気持ちを伝えるとき、私も「月が綺麗」と言えるだろう。
その夜の月は、いつもより美しく輝いているように見えた。