【リリア・リアーネ(2)】
私が少年の部屋を訪れる様になってから、一ヶ月以上は経っただろうか……。
少年は相変わらず一言も話さず、部屋の片隅で蹲っているばかりだったが……最近は、自分で食事も摂ってくれる様になった。
一言も話さないため少年の心の動きは私にはわかりかねるが、一歩前進と言ったところだ。
ただ、自分で食事を摂る様になった理由が──
『口移しで食べ物を与えられるのが嫌だから』
だとしたら、少し悲しい気持ちになるかも知れない。
──まだ出会って一ヶ月程度だというのに、早くもこの少年に情が移ってしまった様だ。
だとしたら、次にやる事は決まっている……。
これはある意味、私の最大の望み……。
「空気の入れ替えをしましょう……。こんな澱んだ空気の中にいては、病気になってしまいますわ」
シャー……。
私は窓の側まで行くと、カーテンを引き、朝日を部屋の中に呼び込む事にした。
窓を開けると、フワリと微風が私の身体を撫で、同時にダリアの大樹から舞い落ちた〝月花の花びら〟が数枚、室内に入り込む。
「──ねえ、今日は貴方にお願いがありますの」
私がそう話しかけても、やはり少年からの返事はない。
私は、膝を抱えて俯いている少年の隣に腰掛け──
「私と、お友達になって下さいませ」
そんな提案をしたのだ……。
勿論、少年から返事が返って来ない事は承知の上で……。
「私、お友達がいないのです……。貴方がお友達なって下さったら、とても嬉しいですわ」
この、誰一人として……実の兄すら信じる事のできない……欠陥品の私を……。
──貴方は、友達として認めてくれますか?
「……」
少年からの返答はない。
こちらを見ようともしない。
……私はやはり、卑怯な人間だ。
だって、この子は返事を返す事ができない……。
だから、私の願い事を拒否する事も……否定する事もない……。
それを分かって聞いているのだから……。
「……そう。返事をしないという事は、了承という事で良いのかしら?」
「……」
「ふふ……。これで、私たちは友達ですね」
返事なんかしなくても良い。
私を拒否しないで。
せめて、一時でも良いから……
『貴方にとって、私が必要な存在だと』
信じさせていて……。
「貴方、名前は何と言うの?」
私は……〝私の唯一の友達〟の名前を聞こうと思い、問いかける。
友達なのに、名前を知らないのはおかしいから……。
「……」
「そう……。でも、名前がわからないのは不便だわ……」
名前が分からないなら、いっそ──
「私が名前を付けてあげる……。そうね、貴方の名前は──」
そのとき、窓から再び微風が入り込み、風に乗って月花の花びらが室内に舞い落ちた。
私の好きな物語……。
幼い頃に、母が読んでくれた絵本の主人公……。
愛するお姫様のために、命を賭けて戦った〝妖精の騎士様〟……。
「『リーン』……。花の妖精という意味ですわ」
リーン……。
貴方の名前はリーン……。
リーン……騎士様……いつか、元気になった後でいいから……
私をここから連れ出して……。
*
「ねえ、リーン……。私、夢ができました」
「……」
私がいくら話しかけたところで、リーンは答えてくれない。
でも、それで良いのだ。
私の望みは、ただ──
「私、自由に街を歩いてみたい……。できればリーンと一緒に」
それだけなのだ。
他人が聞けば、くだらない夢だと思うかも知れないが、私にとっては決して叶わぬ……贅沢な夢。
父は、私が〝自分の考えを持つ〟という事が気に入らない様で……私の要望など聞き入れてもらえないだろう。
私が父に願い出たところで、
『リアーネの女の分際で願い事など、不遜だ』
と激怒し、罰を与えられるに違いない。
でも、もうすぐ城下町で感謝祭が催されるはず……。
今までは、参加しようなどと大それた考えは湧きもしなかったが、今年だけは……。
リーンが、いつまでもリアーネの屋敷に居てくれるとは限らないのだから……。
「リーン……。私、勇気を出してお父様にお願いしようと思うの。〝街に出たい〟って……」
「……」
ギュッ……
私は、リーンの両手を包み込むように握る。
相変わらず、リーンは私の言葉に答えてはくれないが、こうしていると、少しだけ勇気をもらえる様な気がするのだ。
「私が夢を叶える事……。応援していて下さいね」
私はリーンに向かってそう言うと、部屋を後にする。
父がいるであろう、執務室に向かうために……。
*
「突然、訪ねてきたかと思えば……。くだらん事を言うな」
父──ホフマンは私の願いを聞くと、にべもなくそう言い放った。
……わかってはいたが、私の話は聞く耳すら持ってくれない様だ。
でも、私も今回ばかりは、そう易々と引き下がるつもりはない。
「一度だけで良いんです……。お父様、お願いいたします」
父は、私の言った『お父様』という言葉にピクリと反応した。
そして、表情が露骨に不機嫌そうなものに変わった。
おそらく、父は──
「お前など、自分の子供だと認めていない」
とでも言いたいのだろう。
──でも、仕方がないんです。
お父様がダメなら、私は実の父のことを何と呼べば良いのでしょうか?
他人行儀な呼び方は、『自分は肉親からも必要とされていない』と認めてしまう様で……何だか嫌なんです。
「話にならんな。お前は、リアーネ家が更に発展するための道具にすぎん……。自分の意見──况や、望みを持つなど、あってはならない事だ」
父は、私の〝唯一の願い〟をフンと鼻で笑うと、「話は終わった」と言わんばかりに私から視線を外した。
それでも、私は諦めつもりはない。
この望みだけは、何としても……。
「お願いします……。これを許していただけるなら、二度とお父様に逆らいません……。良い子にします。ですから、一度だけで良いので……。外出許可を下さ──」
──ドンッ!!
言い終わる前に──私の言葉は、父が執務机を叩いた音によって遮られた。
「いい加減にしろ! 街を呑気に散歩など、お前には贅沢すぎる!」
父は、私の言葉に過剰に反応し、激昂した様子で私を睨み付けてくる。
〝リアーネの女〟である私が意見した事に、激しく反応を見せた様子だった……。
「で、でも……。お父様……私は──」
「まだ言うか! 貴様は、主人の言う事も聞けぬ出来損ないだ! 当分の間は部屋からも出られないと思え!!」
……今だって、碌に外にも出られないじゃないですか。
「さっさと部屋に戻れ! ちゃんと部屋にいるんだぞ! 後で私も行くからな!」
「…………はい、お父様のおっしゃる通りに」
私は、父の怒鳴り声をこれ以上聞きたくなくて……父の言う事を素直に聞き、執務室を後にした……。
*
私の懇願は受け入れてもらえず、自室で謹慎を言い渡されてしまったが……幸いな事に、父はすぐには私の後を追って来なかった。
〝後で行く〟と言っていたので、まだ少しの時間は有りそうだ。
父が、私の部屋を訪れる前に──
「リーンの所に行かないと」
私にはまだ、やる事があるのだ。
私は、足早にリーンの部屋へと駆けて行く……。
……リーンは、私が部屋を出たときと少しも変わらず、同じ場所に、同じ姿勢で座っていた。
私はリーンの前に立つと、こう言いう。
「リーン……。感謝祭の日に、お屋敷を抜け出して街を回りましょう……。私と一緒にです」
勿論、リーンが答えない……答えられない事はわかっている。
でも……一度だけで良いから、私の我儘を聞いて……。
この夢さえ叶えば、これからもっと辛い事があったとしても……私は耐えられるんです。
「ねえ、リーン……。約束して……。私と一緒に街を歩くの……。普通の友達みたいに……。お願いだから……」
一方的に交わされる約束……。
独りよがりの指切り……。
──コッコッコッ……。
遠くから、階段を上がってくる足音が私の耳に届く。
ああ、もう時間切れなんですね……。
私が部屋に戻らず、リーンの部屋にいたと分かれば、今後二度と会えない様にされてしまうかも……。
「感謝祭の日に、迎えにきますわ……。それまで、元気でいてね……」
私はそれだけ言い残し、自室へと戻った。
幸いにも、父が部屋を訪れる前に戻る事ができ、私がリーンの部屋にいた事もバレずに済んだ。
父は、私の部屋の扉を外から施錠すると──
「しばらくは大人しく部屋で過ごし、反省しろ」
などと言い残し、部屋の前から立ち去って行ったのだ。
それは、約束の日──感謝祭の二週間ほど前の出来事だった……。




