【5】月花の妖精
サイクスが部屋を出たて行った後、ユランは宿屋を抜け出し、城下町に出ていた。
宿は一階が酒場になっているため、客室自体は二階にある。
ユランは窓から木を伝い、コッソリと抜け出してきていた。
「明日は、時間が取れるかわからないからな」
ユランは、夜の間にリアーネ家の屋敷に偵察に赴くつもりであった。
ユランは、グレンがどの様に死亡したのか詳しく知らない。
当時、神人の死亡というショッキングなニュースは、王国中を駆け巡った。
しかし、そのときのユランは、グレンの死に関心など無く──と言うよりも、心を閉ざしていたため、他の事に気をやる余裕などなかったと言うのが正しい。
さらに、ユランが引き篭もっている内にグレンが死亡してしまい、ユランはリアーネ家から追い出されてしまった。
後見人を失ったユランは、ホフマンの手によって、王都から遠い孤児院に送られてしまったのだ。
仮にユランがこのとき、グレンの事に関心があったとしても、その孤児院には噂などで信憑性の低い情報が入るだけで、詳しい事は知り得ない状況であっただろう。
まずは、リアーネ家の屋敷に行き、グレンの現状を詳しく調査する必要がある。
ユランはそう考え、貴族街を目指した。
*
貴族街に来ると、どこの屋敷の前にも門番や、巡回する警備兵がいるため、自由に動くのは難しそうだった。
こんな時間に貴族街を子供一人で歩いているのを見つかれば、事情を問われ、宿に連れ戻されるだろう。
昼間に比べ、警備は厳重になっている。
「リアーネ家の屋敷は貴族街の奥だったな……」
ユランは『隠剣術』を使って素早く動き、死角を利用する事で警備の目を掻い潜り、貴族街の奥まで進んでいく。
警備兵と言っても、彼らは『抜剣術』に多少明るいだけの平民だ。
ユランにとって、彼等の目を盗みながら進むのはそれほど難しい事ではなかった。
*
「ダリアの大樹……」
遠目からでもわかるほど巨大な樹木。
夜になると、大樹の枝に実った白い花が──
月光に照らされて、淡い光を放っている様に見えた。
実は、それを比喩して、ダリアの花は『月花』と呼ばれ、繁栄と栄光の象徴となっている。
『夜映えの月花には妖精が住む』
と言われるほど、夜間には無二の美しさを見せる花だった。
「おっと……。いかんいかん。時間はあまりないんだ。急ごう……」
無二の美しさを放つ月花に見惚れてしまい、ユランは、足が止まっていた事に気付く。
──月花の美しさが、テラスで見た少女と重なった。
儚げで、悲しみを含んだ笑み……。
ユランは、その笑みが、〝散りゆく月花の美しさ〟に似ていると感じていた……。
*
リアーネ家の屋敷の直近まで来たのはいいが、ユランは現在、ある事に頭を悩ませていた。
屋敷に侵入するのは簡単だが、その後が問題だ。
リアーネ家の屋敷にはグレン・リアーネがいる。
下手に侵入すれば、気配を殺したとしても、グレンに必ず気付かれるだろう。
「流石に、神人を欺けるほどの隠密能力はないぞ……」
どうしたものかと、しばらく悩んだが──
「まあ、見つかったら……。少々強引だが、子供のイタズラと言って誤魔化すしかないな……」
と、割り切ってしまう事にした。
流石のグレンも、子供相手に過激な事はしないだろう。
今のユランに、〝子供に成り切る演技〟が出来るとは思えないが……本人はいたって真剣であった。
*
屋敷の庭までは、簡単に侵入することができたが、屋敷内に入るのは容易な事ではなさそうだ。
まず、正面入り口には警備兵が常駐しており、目を盗んで侵入するのは不可能。
次に、屋敷の二階部分は窓やテラスの位置が高すぎて、飛び上がって侵入する事も不可能だ。
壁には足がかりになる様なものもなく、よじ登ることも無理そうだった。
「結局、あそこしかないのか……。まさか、一階の窓を破壊するわけにもいかないしな……」
ダリアの大樹……。
屋敷の屋根よりも高く聳え、屋敷に近い位置に立っているため、伝って行けば二階部分から屋敷に侵入出来そうだった。
しかし、問題は……
昼間に、少女が立っていたテラス──
そこから室内の灯りが漏れている事だ。
「しばらく、待ってみよう……」
時刻は、そろそろ深夜に差し掛かる頃。
待っていれば就寝するかもしれない。
そう考え、ユランは、夜風の肌寒さに耐えながら、テラスを見上げるのだった……。
*
ユランが宿屋を抜け出すより少し前、リリア・リアーネは、開け放たれた窓から外の景色を眺めていた。
部屋の扉は外から施錠されており、そちらから部屋の外に出る事は出来ない。
部屋の中は広く、貴族の自室らしい場所ではあったが……置かれた家具は皆、ごく質素なもので、それがリアーネ家における〝リリアの立場〟を表している様だった。
部屋には書物の一冊も置かれていない。
この部屋でリリアに出来ることは、テラスから見える外の景色に、ただ想いを馳せる事だけだった。
「いつか、街を自由に歩けたらいいな……」
リリアは、外の景色を眺めながら、
ふふふ……
思わず笑い声を漏らした。
はしたないと思ったのか、リリアは誰が見ている訳でもないのに口元を抑える仕草をする。
──リリアは、昼間にテラスから見た子供たちのことを思い出していた。
自分とさほど変わらない年頃の子供達に見えたが、皆んなとても仲が良さそうだった。
距離が遠くて顔までは確認できなかったが、男の子が一人と、女の子が二人の組み合わせ──
真ん中にいた男の子の手を、左右から握る二人の女の子……。
身なりからして平民の子供だろうが、リリアの口から思わず──
「羨ましい……」
そんな言葉が、口を突いて出た。
あれは、自分には許されない自由だ。
リリアには、野山を自由に駆け回ることも、友人と街で気軽に買い物をする事も……そんな些細な事すら、何一つ許されなかった。
それに……
「身なりなんて、私もさほど変わらないのにね……」
リリアが身に付ける衣服は、質素過ぎる訳でもなく、かと言って豪奢でもない。
平民とそれほど変わらない、平凡な物だ。
とてもではないが、その装いは、リアーネ家の──大貴族の令嬢とは思えないものだった。
貴族の令嬢として扱われず、
自由に外出する事も許されない。
リリアは、そんな生活を何年も続けてきた。
母親が存命だった頃はそうではなかったらしいが……物心つく前の事なので、リリアの記憶には残っていなかった。
*
リリアは、昼間に見た子供たちの楽しそうな雰囲気が忘れられず、父ホフマンに──
「お父様、城下町を散歩したいんです……」
と申し立ててみた。
しかし、ホフマンはリリアの言葉に激怒し、
「生意気な事を言うな。お前はリアーネのための道具だ。お前如きが、私に何かを願うなど……身の程を弁えろ」
ホフマンはそう言うと、リリアを部屋に閉じ込め、食事を与えない様に従者たちに指示した。
リリアが部屋に閉じ込められるのは、珍しい事ではない。
ホフマンの機嫌が悪い時は、リリアが何もしていなくとも理不尽に閉じ込められる事もあった。
しかし、そんなホフマンも、リリアに暴力を振るう等の〝直接的な罰〟を与える事は一度もなかった。
これは、ただ単にグレンの報復を恐れていただけに過ぎないが……直接手を出せない代わりに、ホフマンは何かと理由をつけてリリアに罰を与えていた。
グレンは、妹のリリアを何よりも大切に思っている。
グレンは、今まで何度も。ホフマンの仕打ちを止めようと試みたが、改善の兆しは見られなかった。
神人と言えども、未成年であるグレンには、リアーネ家内での発言力はないに等しかったのだ。
ホフマンも、一線を越えなければ、グレンが手出しできないと言うのをいい事に、自分のストレス発散のためにリリアに罰を与えていた。
それでも、グレンが直接見聞きすれば、ホフマンの行いを制止することも出来る。
しかし、グレンは、神人としての職務──聖務のために屋敷を空けることが多く、ホフマンはそれを見計らってリリアに罰を与える事が多かった。
*
ガチャリ──……
リリアが窓から外を眺めていると、部屋の鍵が解錠される音が聞こえてきた。
次いで──
コンコン
と短いノックが聞こえる。
「はい……」
リリアは返事を返すが、心は晴れないままだ。
リリアはノックの音に、
『やっと今日の罰が終わったのね……』
などと考えていた。
ホフマンから指示を受けた、執事かメイドが鍵を開けたのだろう……。
リリアはそう思っていた。
しかし……
「入るよ」
そう言って部屋に入ってきたのは、従者ではなく、兄のグレンだった。
「お兄様、帰っていたのですね……。お帰りなさいませ」
グレンの姿を見て、リリアは安心した様に微笑む。
しかし、その笑みは、やはり儚げで──そして悲しげだった。
グレンは、妹のこの笑みを見ると、毎度たまらない気持ちになった。
──こんなものは、12歳の少女が見せる笑みではない。
ただ、流れに身を任せている様な……信じる事を放棄した様な……諦めの笑みである。
『リリアがこうなってしまった責任は自分にある』と、グレンは自分を責め続けていた。
『聖務など放棄して、ずっと側に居てやるべきだった』
そんな事を考え続けているが、グレンには、彼を頼るしかない王国──そして国民を見捨てることが出来なかった。
グレンは、妹と国とを天秤にかけ──その天秤が、わずかに国民の方に振れてしまったのだ。
今までのグレンは、心の中で妹に謝罪し続けることしか出来なかったが……先ほど、リアーネの当主になると決めたことで、グレンはその天秤を破壊した。
「リリア……。突然、すまないね」
グレンの謝罪に対して、リリアは控えめに首を左右に振る。
──顔には、悲しげな笑みを湛えたままだ。
「あまり時間がないから、手短に言おう。僕はこれからしばらく家を空ける」
「……?」
リリアは、グレンがなぜ、そんな事をわざわざ自分に宣言するのか疑問に思い、首を傾げる。
グレンが聖務で家を空けるなど、別段、珍しい事ではないからだ。
「今度は、どんな任務なんですか?」
「新しく現れた『魔王』の討伐だ。先発隊がだいぶ苦戦しているらしくてね……。僕に白羽の矢が立ったのさ」
「お兄様なら、心配ないと思いますが……。お気をつけて」
リリアは笑みを崩さずに、兄を激励する。
リリアはいつしか、兄が家を空ける事に慣れすぎて、それが『仕方のない事』だと割り切る様になっていた。
最初の頃こそ、落ち込み、涙を流していたが、すぐに慣れてしまった。
グレンがいなければ、リリアに対するホフマンの当たりが強くなるが……自分が我慢すれば、いつか過ぎ去っていく事だ。
「リリア、これを渡しておこう」
そう言ってグレンがリリアには差し出したのは、一本の鍵だった。
「これは?」
「この部屋の鍵だ。これはお前が持っていなさい」
「お父様が、お怒りになるのでは?」
「父には了承を得ている。大丈夫。これからは、お前を閉じ込めるようなものは何もないんだ」
「……」
リリアは鍵を受け取ろうとせず、そのまま俯いてしまう。
相変わらず、リリアの顔には諦めの笑みが張り付いたままだ。
「信じられないかい?」
「いえ……。ありがとうございます」
──リリアは鍵を受け取る。
鍵はリリアの掌よりも大きく、リリアはその鍵を両手で抱えるようにして胸に抱いた。
リリアには、ホフマンがこの鍵をグレンに素直に渡したなどと……とても信じられなかった。
しかし、受け取らなければグレンが困ると思い、取り敢えず受け取る事にしたのだ。
(お父様が取りに来たら、そのままお返ししよう……)
そう、心の中で思いながら……。
リリアは、兄がいなくなってからのホフマンの行動を予想し、少し気分が落ち込んだ。
(あまり、怒っていなければ良いんですけど……)
リリアがそんな事を考えていると──グレンはリリアに笑顔を向け、楽しそうに言った。
「リリア。帰ったらお前にプレゼントがあるんだ……。きっと、喜んでくれると思う」
「……ありがとうございます」
リリアは素直にそう答えたが、グレンが自分に向ける笑顔が、本当に嬉しそうに笑うその笑顔が──
なぜか、散り行く月花の様に儚げに見えて……
このまま、消えてしまいそうな……
遠くに行って帰ってこない様な……
リリアには、そう思えてしまった。
しかし、
(お兄様は神人……。これは余計な心配なのでしょう)
と、自分の中で完結させ、そのまま口をつぐんだ。
*
ユランがダリアの大樹の下で待機していると──ついにテラスから漏れていた光が消える。
すぐに動く訳にはいかず、少しだけ間を置いてから『隠剣術』を発動し、一気に大樹の枝まで駆け上がる。
ユランが一息入れたのは、例のテラスの目の前にある枝だった。
特に選んだわけではなかったが、足場にするには、ソレが一番手頃な枝だったと言うだけだ。
ユランは、部屋の住人が今だに起きている可能性も考え──テラスはスルーして、屋根に上がる事にする。
そして、別の枝に手をかけたところで──
「どなたですか……?」
突然声がかけられる。
ユランは、心臓が飛び出そうになる。
──いつの間にか、テラスに一人の少女が立っていた。
ユランは、足を踏み外して大樹の枝から落下しそうになり──枝を掴んでいた右手に力を込めて、何とか落下を防ぐ。
ユランが掴んだ枝が激しく揺れ、強化されたユランの握力で、その枝がメキメキと音を立てた。
「あなたは、ドロボウさんですか?」
そう言って声を掛けてきたのは、昼間にテラスで微笑んでいた少女だ。
大樹の枝は、テラスの中程まで伸びているため、二人の距離は意外に近い。
ユランが枝を揺らした事で、月花の花びらが舞い、風に乗った花びらは少女の元へと降り注ぐ。
月明かりに照らされた少女の髪が金色に輝き、白銀に輝く月花の花びらと相まって、幻想的なコントラストを生み出す。
少女の姿は、まるで人間界に迷い込んだ──
「まるで妖精だな……」
ユランは、無意識にそんな事を口にしていた。
口に出してから、自分の恥ずかしい発言に気が付き、慌てて口をつぐむ。
「妖精……?」
ユランの発言の一部が聞こえていたらしく、少女が小声で呟く。
ユランは突然現れた少女の存在に大いに驚いたが……ユランを前にした少女の様子に、ある違和感を覚えていた。
──警戒心がまるでない?
ユランが少女に抱いた違和感の正体は、ソレだった。
今のユランは、勝手に屋敷に侵入した──明らかな不審者である。
普通であれば、
叫ぶ、
抵抗する、
逃げる、
など、少女には様々な選択肢があったはずだ。
普通なら、不審者に対して〝無防備に話し掛ける〟などと言う行動は取らない。
「アナタは……。妖精さんなのですか?」
「……は?」
突拍子もない事を言い出した少女に対し、ユランは、素で間抜けな返事を返してしまう。
「夜の月花の花には、妖精が宿ると言われていますわ……。アナタがその妖精さんなのですか?」
ユランもその話は聞いたことがあるが……それは月花の美しさを比喩する言葉で、そういう言い伝えや伝説が実際にある訳ではない。
そんな、子供でも当たり前に知っていそうな知識すら、少女は持ち合わせていない様子だった。
──妖精という架空の存在を、本気で信じ込んでいるのだ。
純真無垢で、汚れない……。
清廉潔白で、人を信じて疑わない……
「私は、リリア……。リリア・リアーネと申します。妖精さん……。私と、お友達になって下さいませ」
それがこの少女……リリア・リアーネと言う娘だった。
リリアは、ユランの近くまで歩いてくると──右手を差し出し、満面の笑みでそう言った。
ユランとリリアの距離は、手を伸ばせば届いてしまいそうなほど、近くなる。
リリアの瞳はキラキラと輝いており、昼間見せた悲しげな笑顔はどこにも無かった。
それは、リリアが初めて見せた──心からの笑顔だったかもしれない。
「ち、ちが……。僕はジーノ村の……」
そう、途中まで言いかけて、ユランは昼間見たリリアの悲しげな笑顔を思い出した。
きっと、この娘は、初めて見る妖精という存在に──幻想の住人に憧れを抱く幼子と同じなのだ。
リリアの心は驚くほど白く、純真で、純白だ。
そんなリリアを見て、ユランは──
「つっ……」
真実を告げる事を躊躇ってしまい……
「よ、妖精です……。よろしくね!」
などと、とんでもない返事を返すのだった。