【セシリア・ヴィ・カーンズ(1)】
「喜べ。ガレス公国のサリア公爵が、お前を貰ってくれるらしいぞ……。初めて王国のために役立つ時が来たな」
そう言って笑う父の顔を、わたくしは生涯忘れる事はないだろう。
わたくしの価値などそんなモノ……。
父の笑顔は言外にそう語っている様だ。
そこにあるのは、娘の幸せを願う父親の顔などではない。
──価値のないガラクタを見る目。
いや、違う……。
価値のなかったガラクタが、ようやく最低限の役割を果たした事を喜ぶ顔だ。
今朝方、突然父に呼び出されたわたくしは、聖王国首都シルラントの王城にある玉座の間を訪れていた。
玉座に鎮座するのは、わたくしの父である国王と……国王の隣に並んで座る、母である王妃だ。
数段高い位置で見下ろす両親に向かって、わたくしは恭しく頭を下げる。
「……お父様の望み通りに」
わたくしに選択肢などない。
父の意向に逆らおうなどとは思わない。
そもそもが、実の娘と話をするためにわざわざ玉座の間に呼び出し……自らの権威を見せつける様に話すのだから……。
わたくしの事など、娘とも思っていないのだろう……。
「……ふん。相変わらず愛想のない奴だ。サリア公爵は可憐で愛嬌のある娘を好む。いくら十三番目の妻と言えど、その体たらくではな……嫁ぐ前に最低限の〝躾〟が必要な様だ。お前の取り柄は、その見目麗しい外見だけなのだから、それを活かす努力をしろ」
先ほどまでの笑顔から一転、父は冷たく、突き放す様な視線を向ける。
サリア公爵──私が嫁ぐ相手は、ガレス公国と言う小さな国の国主だ。
何よりも色事を好み、知性などまるでない……獣の様な男と聞いている。
まあ、今年で15になったばかりのわたくしを妻に娶ろうなどと考える輩だ……お察しと言う事なのだろう。
公爵家の妻と言えば聞こえは良いが、実質、唯の愛妾だ。
未来など見えない……生贄……。
「ほほほ、ガレス公国は小国ではあるが、希少な金属が発掘される鉱山を多数所持しておる。国力は高いゆえ、友好を結べば我が国の発展にも大きく貢献するであろう。其方も嬉しかろ?」
「……はい。お母様」
右手で口元を隠しながら、母である王妃は、父の隣でニヤニヤといらしい笑みを浮かべながら言う。
母もまた同じだ。
わたくしを娘とは思っていない。
──そんな両親の下で育てられ……わたくしは今年で15歳になる。
……わたくしはセシリア・ヴィ・カーンズ。
もうすぐ……カーンズではなくなる──
唯のセシリアだ……。
*
──バシャ!
「──あう……」
突然、顔面に冷たい何かがこぼれ落ち──
あまりの冷たさに、眠っていた意識が無理矢理覚醒させられ、思わず声を上げてしまう。
「さっさと起きてくださいよ。まったく、私らメイドは朝早くからあくせく働いていると言うのに……良い身分ですね」
そう言ってわたくしを睨みつけるのは──専属メイドのジーナだ。
手には空になった洗面桶を持ち、ベットで眠っていたわたくしに蔑んだ様な視線を向ける。
空の洗面桶から、ポタポタと水が滴り落ちる様を見るに、どうやら洗面桶に入っていた冷水を顔に掛けられたらしい。
「ご……ごめんなさい。昨晩は考え事をしていて……寝付けなかったの」
わたくしはジーナに向かって謝罪した。
昨晩は、父親に命じられた〝婚姻〟の事を考えていて中々寝付けなかったのだ。
……『仕方ない事』と割り切っていても、心の奥底は不安で押し潰されそうだった。
何せ、わたくしは生まれてこの方、王城を出た事など無いのだから……外の世界に恐怖を感じても無理からぬ話……
そうですよね?
「はん! 私らは夜遅くまで働いて、夜更かしなどした事はありませんよ!」
「そ、そうよね……よく働いてくれてる。ジーナたちに感謝しているわ……」
──嘘だ。
王城で働くメイドたち──特にわたくしの専属メイドであるジーナは、日が暮れる頃には仕事も終わり、自由な時間を過ごしているはず。
わたくしは、ジーナを含めた王城のメイドたちが……
王城の厨房からくすねた食べ物やお酒で、酒宴を開いている様子を目撃したことがある。
それも夜遅くに……。
ジーナたちが、わたくしの悪口で盛り上がっている声が廊下まで響いていた。
「──ふん。ただでさえ、何の役にも立たないお飾り王女なのですから、私らの手を煩わせないでくださいよ。見てください。シーツが濡れちゃったでしょう? これ、誰が片付けるんですか?」
「……あう。ご、ごめんなさい。ほ、本当に……」
わたくしが頭を下げ、必死に謝る様を見て、ジーナは意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「あーあ、面倒臭い。セシリア様がさっさと起きてれば、水を掛ける必要もなかったのに。濡れたシーツなんかは自分で片付けてくださいね」
──これは、わたくしにとって当たり前の日常だ。
一国の王女と言う立場でありながら、扱いは平民以下……。
いいや、王女と言う体を保つために、自室こそ与えられ、専属メイドも付いているが……
与えられた部屋はメイドたちが使う個室よりも狭く、家具も使い古されてボロボロだ。
──専属メイドすら、わたくしを下に見て、完全にバカにしている。
扱いはハッキリ言って人間以下だ……。
そうなってしまった原因は──
「何ですか、その目は? もしかして、掃除するのが嫌なんですか? セシリア様の所為なのに? 私は国王陛下直々に、セシリア様の世話をする様に仰せつかっているんです。その私に、そんな目を向けるのですか?」
〝父から命ぜられた〟と言う大義名分があるからだ。
ジーナは父のお気に入り……。
平民出身でありながら、その容姿の淡麗さで父に見初められ、王城入りしてメイドになった女性。
ジーナの意見は父の意見……。
わたくしが何を言おうが、どう訴えようが、父はジーナの言う事を信じて彼女の肩を持つだろう。
──わたくしの部屋を、粗末なものに決めたのもジーナ。
──他のメイドに命じ、わたくしに意地悪するのもジーナ。
「ち、違うわ! わたくしはジーナをそんな風には見ていない──」
──パンッ!!
「はうっ──!」
……え?
──頰を張られた?
何で……?
──痛い。
痛い……痛いよ……ジンジンする……。
耳の中がキーンてする……。
「あう……ジ、ジーナ……?」
自分がされた事が信じられなかった。
今までにも、ジーナから酷い事をされた事はあったけど……直接手を出された事はなかったのに……。
「セシリア様? 正しい者に対して意見するなんて──淑女としてハシタナイですよ? 私は、王妃様からセシリア様の教育も仰せつかったのです。『嫁ぐ前に、淑女に相応しい教育を』と」
……そう言う事なのね。
母は──お母様は最後まで……。
平民出身のジーナに、教育係など務まるはずがないのに……そこまでわたくしを……。
*
「うぐっ……ひぐ……うぇ……」
小汚い小さな部屋に、嗚咽が漏れる。
──わたくしは、いきなり頰を張られた事に驚き、思わず泣き出してしまった。
初めて他者から受けた……直接的な暴力。
今までだって、辛く当たられる事はあったど……暴力を受けた事などなかった。
痛い……。
痛いけど……痛さよりも、人から向けられた暴力が……何よりも恐ろしい……。
「あー、汚い汚い。床を転げ回ったせいで全身埃だらけじゃないですか。さっさと──立ってくださいよ!」
──グイッ!
「──ひっ」
加虐的な笑みを浮かべたジーナに、突然、胸辺りを掴まれて引き起こされる。
思わず短い悲鳴を上げてしまうが……いくら頑張っても涙は引っ込んでくれない。
──このままでは、ジーナがますます喜んで、わたくしを虐めてくる事は分かっているのに……。
「いつまでも、メソメソ泣かないでくださいよ。教育係である私の資質が問われてしまうでしょう? ──まあ、言って分からないなら──」
ジーナが、わたくしの胸元を掴んでいた手とは逆の──
右手を振り上げて、再びわたくしの頰を張ろうと──
──コンコン……
突然、部屋の出入口のドアがノックされる。
場にそぐわない……
──短い、二回のノック。
「……失礼します」
部屋の主人の返事を待たず、ノックの主はドアを開けて部屋の中に入ってくる。
……凛として、透き通る様な綺麗な声だった。
「──だ、誰?」
焦った様に問うたのは、わたくしの胸ぐらを掴んだまま──右腕を振り上げたままで固まってしまったジーナだ。
部屋に入ってきたのは……
燃える様な茜色の髪を、ポニーテールに纏め──
王宮剣士の証である剣士服に身を包み──
ピンと伸びた背筋が、その人の真面目な性格を表している様だった。
とても凛々しく……そして、美しい顔……。
まだ、幼さが残る顔立ちではあったが……腰に携えた聖剣とサブウェポンが、その人が剣士である証明だ。
──わたくしと同い年くらいの女の子。
「あ、あの、これは、違くて……」
ジーナは、その人が誰なのか分かっていない様子だったが、服装や佇まいから王宮剣士だと気が付いたのだろう……。
必死に言い訳をしようとアタフタとしていた。
「ああ、お取り込み中でしたか。失礼しました。私は──本日付けでセシリア王女様の護衛剣士になりました……王宮剣士のローズと申します」
突然部屋に入ってきた人物──ローズと言う王宮剣士は、胸ぐらを掴まれ、泣き腫らした顔のわたくしを完全に無視してジーナに向かって挨拶をする。
──いや、挨拶の途中、一瞬だけ私と目が合った様な気がするが……何も言ってはこない。
……この人も、父が宛てがった〝教育係〟の一人なのだろうか……?
「あの……け、剣士様……? これは、ですね……」
ジーナは、思わぬ人物の登場に、かなりの焦りを見せていたが……。
それをいい気味だとは思わない。
だって……。
王宮剣士のローズは、全身が埃にまみれ、薄汚れてしまったわたくしを一瞥して──
目を細め、まるで汚らしいものでも見るかのように……鋭い視線を送ってきた。
そして──
「……離れた方が良いでしょう。汚れてしまいますから」
などと言ったのだ。
ローズの言葉を聞き、先ほどまでアタフタと顔を青くしていたジーナは、途端にニヤニヤと笑い出す……。
「──あはっ! そうですね! こんな汚いお姫様──触れたら私が汚れちゃいます!」
ジーナは、現れた王宮剣士──ローズが自分の味方だと分かって余程嬉しかったのだろう。
大きな声で笑いながら──
ドンッ!
わたくしの胸元を掴んでいた手を、乱暴に放し……わたくしはその拍子に床に尻餅をついてしまう。
──もう嫌。
今まで耐えてきたけど……この護衛騎士もわたくしを虐めるのね……。
何で?
わたくしが何かしたの?
──ただ、女として生まれただけじゃない。
好きで……出来損ないに産まれた訳じゃないのに……。
「ふふ、いい気味ですね。これからお嫁に行くまでの間……たっぷりと〝教育〟してあげますね」
「……あう……」
ジーナがそう言って、いやらしい笑みを浮かべてわたくしを指差し──
「──それでは、失礼」
──バシュ……
──ドッ!
「……はへ?」
ジーナが間の抜けた声を上げる。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
──ジーナの腕が……
わたくしを見下ろしながら、指差していた右腕が……
──地に落ちた。
「──っ!!! あああああああ!!!」
叫ぶ、
叫ぶ、
大声で……。
「言ったでしょう? 離れて頂かなければ、セシリア様のお体が──汚い返り血で汚れてしまう」
……なぜ?
この人が、わたくしを助けてくれるの……?
お父様の〝言い付け〟を守りにきたのではないの?
……それが──
わたくしとローズの最初の出会い……。
そして、その時から……わたくしの人生の第一歩が始まったのだ。