激情
気がつけばいつもエリィが座り込んでいる場所に立っていた。エリィは俺を見つけて駆け寄ってきた。エリィはいつだって 清らかな笑みで俺を迎えてくれた。
「シュウイチ、どうしたの。泣きそうな顔だよ」
エリィの心配そうな声、顔の筋肉を無理やり動かして笑みを浮かべた。
「エリィ……エリィ……俺はお前を愛してるよ」
「嬉しいけど……手が震えてるよシュウイチ。暖かいスープを作ったんだよ。飲む?」
「ああ……」
エリィは焚き木の焚かれているドラム缶に向かって走っていった。ボロボロのアルミでできてた器をもってきた。中には 透明なコンソメスープがあった。ホコリのようなものが浮いていた。小さな虫のようなものが浮いていた。構わなかった。 エリィがくれるものなら泥水だって飲んでやった。
手渡されて、飲み干した。エリィが普段飲んでいるものを飲んだ。味はわからなかった。湧き上がってくる感情が強すぎて 何も感じられなかった。
「すまない……何も、おみやげ用意してなかった」
「いいの。来てくれるだけで本当に嬉しい」
エリィの笑み、全てを癒す笑み。ドラック以上の効果があった。俺は涙を流した。エリィの前だというのに涙を流した。 最初に会った時と同じ涙を流した。
「シュウイチ、泣かないで。辛いことがあったの?私に話してシュウイチ」
腕の裾をつかんでエリィはせがんだ。俺を救おうとしていた。誰よりも清らかな目で俺を見ていた。
「エリィ……」
「シュウイチ、私が貴方のために祈ってあげるわ。辛いことがなくなるように祈ってあげるから――泣かないで シュウイチ、私も悲しいよ」
エリィの泣き顔、みたいはずがなかった。ずっと微笑んでいて欲しかった。ずっと幸せであってほしかった。
エリィのために俺は祈った。頼ったことのない神に祈った。俺は神と世界を憎悪していた。だが、エリィのためならば 全ての憎悪を失くしても良かった。俺の根源たる憎悪を失くしても良かった。
ヒザを折った。ひざまずいた。エリィに抱きついた。エリィは俺の肩に手をまわしてくれた。抱きしめてくれた。誰よりも薄汚れた俺を抱きしめて くれた。
「エリィ……俺は悪魔なんだ。俺は……呪われている存在なんだよ」
「大丈夫だよシュウイチ……例えそうでも、私が愛してあげるよ」
エリィの声、珍しく熱気がこめられていた。熱い吐息が首筋にかかった。身体の芯で黒い何かが燃えた。俺は正気にかえった。俺は エリィから手を離した。
「エリィ……何か、食べたいものはないか」
「えっ、ないよ。ちゃんと食べてるから心配しないでよシュウイチ」
とてもそうは見えなかった。エリィの小さく華奢な細い体、弱々しい野ウサギのような姿、可愛らしくも儚かった。
「それにね、お金、入ったんだ。だから心配しないで」
無邪気に微笑む。お金――俺がロザンナに渡した金、安堵が心の中に広がった。何よりも優しい気持ちが俺の 胸の中に渦巻いた。
「よかったなエリィ……ロザンナに感謝しないとな」
「うん、いつもロザンナにお客さん紹介してもらってるんだ」
血が凍りついた。
俺の全ては凍りついた。視界も世界も何もかもが凍りついた。エリィは寂しそうに笑った。
「私をイジメて喜んでくれるんだ。私なんかを生かしてくれるんだ」
飲んだスープ、エリィがブタどもに陵辱されて手に入れたスープだった。
ロザンナ――殺してやる。明確な誓いを立てた。抗えない欲求が頭と身体に支配した。ふつふつと深遠なところ から生まれた暗黒の炎が俺を焼き尽くした。黒い闇が俺の中で蠢動していた。怒りの熱量のあまり気が狂いそうだった。
「エリィ……ロザンナはどこにいるんだい?」
自分でも驚くくらい優しい声で言った。人間の魂を奪う悪魔の声だった。俺は紛れもなく悪魔だった。エリィは気づかなかった。
「ええっと、アパートに居るよ」
「そっか。なぁ、エリィ……そのイジメる人たちをどう思うかな?」
「皆、とても恐いよ……でも、私は何も……何もできないからしょうがないの」
愚かなエリィ、聖なるエリィ、俺の哀れで可愛い天使だった。俺は優しい声で言い続けた。
「エリィ……大丈夫だよ。これから先は恐い思いなんてしなくて済むんだ」
「どうしてシュウイチ」
「どうしてって――エリィは俺の可愛い娘になるからだよ」
俺はエリィを連れ去る決意を固めた。もう限界だった。何もかもが限界だった。何もかもを失っても良かった。だが エリィだけを護り続けたかった。
ロザンナのアパート、エリィから聞き出した。薄汚い廃墟のようなところにあった。階段をのぼってロザンナのいるで あろう部屋に向かった。呼吸はゆっくりとしたリズムを刻んでいた。心臓はゆっくりとしたリズムを刻んでいた。俺の 足取りは羽のように軽かった。
ドラックの効果――続いていた。思考は憎悪に包まれていながらもクリアだった。
201号室、ロザンナの居る部屋、大家にロザンナの愛人だと伝えた。渋い顔をした。三百ドル渡した。大家は笑みを浮かべた。 簡単にキーを手渡してきた。
ロックを解除して中に入った。周りは何も見えなかった。ただふくらみのあるベッドだけが見えた。
「ロザンナ……起きろ」
声、冷え切っていた。口元、冷笑が浮かんでいた。ロザンナ、眠たげな声とともに起き上がった。俺の顔を見た。 青ざめた。
「シュウイチ……どうしたの?」
「いや別に、ちょっと用事を済ませに来ただけさ」
クックックと口元から悪魔の声がもれた。地獄からの声だった。奈落の底からの声だった。
「シュウイチ――貴方」
銃身をスライドさせた。金属音が響いた。銃口をロザンナの頭に定めた。
「最期に言い遺すことはないかロザンナ」
「待って――」
狙いを逸らして撃った。渇いた音が響き渡った。ロザンナの太ももに命中した。ロザンナは飛び上がった。シーツに赤いシミが広がって ゆく。
銃口から立ち昇る硝煙の煙、俺の鼻腔をくすぐった。
「あぐっ、あっ、あっ、あっ……」
ロザンナのうめき声、心地よかった。最高のメロディーを聴いている気分だった。
「なぁロザンナ、エリィはお前に頼っていたんだぜ。きっとお前は母親代わりになれたはずなんだ。なんでエリィを愛してやれなかったんだ」
「し、知らない……」
「ロザンナ、お前は死ぬ。覚悟を決めろよ」
ロザンナ――ストリートの売春婦、憎悪に燃える視線を俺に向けてきた。
「そんなに……そんなに、あの娘の具合は良いっていうの……このぺド野郎っ!」
「ああ、エリィは俺にとって最高の女だよ、じゃあなロザンナ」
撃った。二度目の炸裂音、今度は狙いを外さなかった。ロザンナの血と脳しょうが背後の壁にぶちまけられた。血と血みどろの 肉の塊が醜かった。
「さてと……」
憎悪はひとまず落ち着いた。高揚感は消えうせた。蠢動していた闇は影を潜めた。俺は闇だった。闇そのものになっていた。人を殺しても これっぽっちも感慨はなかった。羽虫を踏み潰したという感触しかなかった。
ポケットから携帯電話を取り出した。