立場
携帯電話のコール――マイクからだった。待ち焦がれていた電話だった。廊下を歩く足を止めた。
「やっとわかったぜシュウイチ」
仕事をやり遂げた男の声、半分マフィアのマイク、半分探偵のマイク、警官のマイク、金で動く悪徳警官だとしても使える男だとは 思っていた。利用価値のあるものは全て利用するのがこの国のルールだった。
「っで、どうなんだ」
「せかすなよ、飢えた犬じゃねぇんだからさ」
「俺は飢えてるんだよ。いまなら人間の喉も噛みちぎってやる」
口笛が聞こえた。面白がっていた。
「お前はファングかよ」
ファング――ロシア語、狼の意味。そんな大それたものになった覚えはなかった。
「教えろマイク、教えてくれたならお前が好きになれそうだ」
「よせよ、俺はパイセクシュアルだがお前は趣味じゃない。俺の大事なモノを食いちぎられたくねぇよ」
パイセクシュアル、男にも女にも突っ込める奴。他人の性癖など知ったことじゃなかった。焦燥感が頭を支配していた。
「早く教えてくれよマイク、お前への愛情が憎しみに変化しはじめてきた」
「アメリカンジョークがわかってきたじゃねぇか。いいぜ、エリィだったか、大抵わかったぜ。だが、なんであんな売女 の出来損ないを気にするんだよ」
「マイク、マイク……それ以上エリィを馬鹿にしたらお前の尻に弾丸をぶち込んでやる」
「わかったよ。そう怒るなって。あのガキ、大分やっかいなガキだぜ」
やっかい――いわくがあるということ。何に対してかわからなかった。
「あのガキの母親の売女でもうくたばってる。父親は恐らくだがフレリップ下院議員だ」
「どういうことだ」
「囲われ女が孕んで捨てられた、ってとこだよ。使い捨ての娼婦なんざそんなもんだろう」
怒り――マイクに、フレリップという見たことのない男に、エリィの見たことのない母親に向かった。
マイクの言っていることは正しかった。使い捨ての娼婦、女は花が咲いている間だけ愛でられるものだと理解していた。だが、 理解しきれなかった。割り切れない感情があった。
「議員の隠し子だ。表立って生かすわけにもいかねぇ。そもそもフレリップは政治家にありがちな冷酷な男だと聞いて いる。娘なんて思ってねぇだろうな」
「エリィの母親はいつ死んだ」
「さぁな、二年ぐらい前だったと聞いている。売女は最後まで売女だったみたいで知ってる奴から聞いた。全く、走らせ やがって」
二年――二年もエリィはクソみたいな生活をしていた。赦せなかった。全てを赦すことができなかった。
「ところでシュウイチ、わかってんだろうな」
「ああわかってるよ」
マイク――キャリアのない警官。うだつのあがらない日々を過ごしている警官。毎日走らされ、若くてキャリアの ある奴にアゴで使われ、クソみたいな奴を追いかけている。
「お前のところの署長はよくパーティーで会う。お前のことを言い含めてやるよ。マイク=ルナルドという職務に忠実な警官に以前、 道端を歩いていて強盗に遭いそうなところを寸前で助けてもらいました、ってな」
嬉しそうな口笛、マイクは容易にコントロールできる存在だった。
「頼むぜシュウイチ、お前のコネクションだけが俺の頼りなんだ」
「わかってるさマイク、お前も俺の大事なコネクションだよ」
「ありがてぇ……シュウイチ、俺からもお前に訊きたいことがあるんだ」
「なんだよ」
「どうやったら大富豪の女を口説き落とせるんだ。お前の女はどこにでも睨みが利く最高の女だぜ」
呼吸、深く息を吸ってゆっくりと吐いた。
「決まってるじゃないかマイク――誠実さだよ」
マイクの笑い声が聞こえた。腹の底から笑っていた。俺も腹の底から笑った。笑い続けた。
巡回中の廊下、ロジャックと見覚えのある女が会話していた。赤毛の女、胸元が大きく開かれた紺のスーツ、端整な 顔立ち、メノン――ロジャックは頬をだらしなく緩めていた。
話の内容、大リーグ、負けた勝ったをロジャックは言い続けていた。日本とは野球の濃度が違う。誰もが熱狂しながら 贔屓チームに声援を送り、相手チームに汚らしい罵声を与える。
「ロジャック――仕事はどうなんだ」
声をかけた。ロジャックの視線が飛んできた。好色そうな瞳の色、浮かれた顔、ロジャックには妻がいるはずだった。だが、妻のことを一言もロジャックの口から聞いた覚えはなかった。
仕事の話、別にしたいわけじゃなかった。メノン、どうにかしなければならない相手だった。メノンの視線、つまらない モノを見る目、気に障った。だが、態度に出すことはなかった。
「ああ、仕事ね。聞いてくれよシュウイチ、お前ら日本人はハイスクールで三年英語を勉強するんだよな」
「ああ」
実際には中学、高校、大学にまで受け継ぐであろう必修科目。ロジャックの瞳、苛立ちと嫌悪にまみれていた。
「今日来たデザイナーは日本人なんだがまるで英語が喋れねぇんだよ。どうなってるんだよシュウイチ」
「そいつが馬鹿ってだけだろ。日本人、全てがそうじゃねぇ」
「ホントかよ」
「じゃあ体格の良い白人のお前はなんで体育を十年以上やってオリンピック選手になれないんだ」
ロジャックは笑った。話の本質をすりかえただけの話だった。日本人、無理やり英語を覚えさせる哀れな人種、無理やり覚え させられて理解できるはずがなかった。
だが、日本人は六十年前は占領したアジアの者達に日本語を強制していた。アメリカにいるインドネシア人に俺は会ったこと があった。七十八歳の高齢だった。薄汚れた掃除人だった。だが、流暢な日本語を話していた。全ては因果応報だった。罪は遺伝子となって波打っている。
「通訳してやってくれよシュウイチ、あの野郎、本を片手に下手糞なイントネーションで俺達の言葉を吐きやがる」
「通訳はいるだろ」
「それが腹下したっていっていねぇんだよ。日本人なんて数えるほどしかいねぇ。そして手が空いてる奴はすくねぇ」
「わかったよ。貸しにするぜロジャック」
「わかってるさ。お前はいつだって俺達の中を泳ぐのがうまい。だからジャップでもお前は俺のお気に入りだ」
白人達に取り入るのは簡単だった。白人と同じ物を食い、同じように考え、同じように行動する。中国人のようなしたたか さも日本人のような偏見もアメリカ人は持ってなかった。徹底した能力主義だった。だが、白いものが強く美しくという観念は 消えなかった。
ロジャック、天才的なプログラマー、傲慢な男、全てが計算づくでできていると思っている。全てが0と1で出来ていると 思っている。自分以外を全て馬鹿だと思っている。
ロジャックははるかを妬んでいた。この企業を自分の物にしようとしていた。株を裏でコツコツと買い占めていることも知っていた。はるかの 株を欲しがっている。だから株を手に入れられる立場の俺に擦り寄ってきている。慣れない下手糞なコミニケーションの取り方で俺を取り込もうとしている。
「力になれて嬉しいよロジャック」
ロジャックは愚かなほど哀れだった。はるかにとってこの企業はスーパーの買い物カゴと変わらなかった。適当な物が入るから手に もっているだけでかえはすぐに利くものだった。普通なら気づくはずだった。だが、傲慢なプライドがロジャックを盲目 にさせていた。
メノン――俺を凝視してきていた。俺の思考回路を読もうとしてきていた。微笑んだ。
「メノン=リーバイスさんでしたっけ。俺はシュウイチ=アズマです」
「知ってるわ。スカルドの友達でしょ。以前紹介してもらったじゃない。忘れたの?」
「いえ、貴女が俺を忘れていると思いまして。再度挨拶させてもらっただけです」
「そう、あのヨシノの旦那さんでしたよね」
視線――ハンターの視線、狩れるか狩れないか吟味している。証券会社も商品先物の社員も一見温和そうな 顔を浮かべるが瞳の奥は炎がみなぎっている。
屋敷に山ほどくるダイレクトメールとコール。はるかと話がしたいという奴は腐るほど見てきた。誰もが俺のはるかを狙う飢えた獣だった。
「メノンさん、俺も株に少しだけ興味があるんだ」
「へぇ、貴方はそんな野心を持っているとは思えなかったけど」
「企業買収がしたいわけではないですよ。ただちょっと小遣い稼ぎがしたいだけです」
ねちっこいメノンの目が光った。ハラワタを噛んだと思っている。食いちぎれると思っている。
「シュウイチッ、さっさと来いよ。俺に協力してくれるんじゃないのか」
苛立った声――ロジャック、嫉妬に燃えている。メノン、手の甲に紙を押し付けてきた。耳元にすりよって きた。
「食事でもしながらどう?」
「いいですね」
引っかかった獲物――どっちが狩人と獲物か思い知らせてやる。
野郎と言ったロジャック、間違っていた。日本人の女だった。デスクに座ってキョロキョロと周りを見ていた。田舎物 だと一瞬でわかった。何も知らず、ただ技能だけを買われて来た薄ら馬鹿だと理解した。
間区切りで机は一つの小さな部屋になっている。隣で仕事をしている人間は見えないようになっている。ただ一人取り残された 子犬のようになっていた。俺に気づくとビクッと震えた。
「あっ、は、ハロー……」
「日本語でいい。英語の練習をしたいなら付き合ってやるが」
日本語で言った。女は神の救いが来たかのような涙目になって破顔した。
「あっ、あっ、あっ……ほっ、本当に助かりますっ!わ、私、何もわからなくて」
「いや、君はわかっているはずだ。ここに仕事をしに来た。ならば仕事をしないとな」
「えっ、あっ、はい」
頷いた。そしてデスクに向かった。パソコンを操作していた。スキャナァで画像を取り込んでいた。メールが届いていた。メールを 開いた。メールを覗き込んだ。当然のように英語で書かれていた。長文、女の眼球は動かなかった。英語を理解していない時の日本人の目だった。
「これ、読めるか?」
「ええっと……ダメってことでしょうか」
肩を落とした。ため息を吐いた。
「色がキツイってよ。淡い色を使うのとドリルの位置が構造上不可能だって」
「はぁ~……私、やっぱりダメなのかなぁ」
「そうだな。よくロサンゼルス空港からここに辿り着けたと思うよ」
「サンタモニカまでは通訳さんが居たんですけど……体調が悪くなってしまって」
「ビジネスマンなら死にかけても仕事をすべきだ。そいつは使えない奴だな」
女の目、キツくなった。
「通訳さんは女の子ですから関係ありません」
「日本の女の地位とプライドは高くなったと聞いたがその通りのようだな」
「……貴方、日本人なんですか?」
偽りの青い目――凝視された。
「吾妻秋一だ。れっきとした日本人だよ。クォーターだが」
「そうですか……私、ななこです。秋一さん、お仕事、最後まで付き合ってくださいね」
「わかったよ。君の通訳が戻ってくるまでの間だけだがな」
地べたに座り込んでななこの背中を見続けていた。質問は数回しかなかった。だが、気が緩んだのか鼻歌が聞こえてきた。日本の 童謡だった。少しだけ懐かしかった。